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ファンタジー「洞窟の外は懐かしい故郷だった」

 
1���
 安蘭はまた両手を放して、今度は桜の花びらを手のひらで受け止めようとしている。ひらひらと舞い落ちてきた桜の花びらが、安蘭の髪の毛に吸い付いた。
「いい加減にしろよ。あぶねえからもう止めろよー」
 僕の心臓はばくばくしている。安蘭が転倒してケガでもしたら、今日の目的地までたどり着けない。それどころか、僕の策略だって水泡の如く消えてしまう。とにかく、40分近く無事に自転車を走らせなければならないのだ。
「安蘭、髪の毛に花びらがついてるぞー」
 ここらで自転車を止めたほうがよさそうだと判断した。ちょうどいいチャンスが到来した。安蘭の髪の毛に付いた花びらを取ってやる口実で自転車を止めようとしたのだが、安蘭のロングの黒髪に付着した花びらは、まるで桜飾りのように、なんとも魅力的な雰囲気を醸し出している。払い落すのが惜しいような気がした。
 ――やっぱ、あのままのほうがいいかな。
 いったんは気持ちを切り替えて自転車をそのまま走らせようとしたが、安蘭がまたハンドルから両手を放すような気がしてやっぱり止めることを決断した。
「安蘭、ちょっとのど乾いた。急ぐことねえから休憩しようぜー」
「オッケー」
 安蘭はゆっくりと減速して自転車を止めた。目の前にベンチがあった。
「花びらだらけじゃねえかよ。払ってやろうか?」
 一応断りを入れた。何も言わずに払ってやってもよかったが、男勝りの安蘭もれっきとしたレディーだから、許可を得ないと何を言われるかわかったものじゃない。
「いいよ。自分で払うから」
 ちょっと残念。安蘭は首を2、3度振って花びらを振り払おうとした。ロングの黒髪が左右に揺れる。花びらははらはらと髪の毛を離れ、宙に舞ってどこかへ飛んでいった。
「全部取れた?」
「頭の上にまだ2、3枚ついてる」
「取ってくれる?」
「ああ」
 今度はいい気分。安蘭の髪の毛に初めて触れた。サラサラでツヤツヤ。またいい香りがした。花びらを指先ではじいた。ひらひらと舞って静かに地面に落ちた。
「取れたよ」
「ありがと」
 僕たちはチャリのスタンドを立て、ベンチに腰を下ろした。それから、水筒のお茶をのどの奥に流し込んだ。冷えた緑茶のまろやかでちょっと苦みのある味が、のどに染み渡った。
「うっめー」
「マジで美味しいね。家で飲んでもそんなに感じないのにね」
「桜を見ながら飲むからうまいんだぜ。桜の季節になると、大人は花見をしながらお酒を飲むだろ。あれも同じなんだ」
「だよね。あれの何がおもしろいんだっていつも思うけど、桜で癒されみんなでわいわいやりながらお酒を飲むからおいしく感じるんだよね」
「雰囲気を楽しむっていうか、俺らまだ子どもだからよくわかんねえけど、あと3、4年もすればわかるときが来るさ」
「私、お酒なんて飲むときが来るのかなあ――」
「来るさ。おまえ、酒呑みになりそうだもん」
「ん、もう。何を根拠にそんなこと言うのよ」
 安蘭はちょっとふくれっ面をした。おまえ、勝気な性格だから酒も強そう、というのをぐっとのどの奥へとしまいこんだ。代わりにえへへと含み笑いではぐらかした。
 眼下に川が流れている。名前は知らない。小さな川だけど、川底がはっきりと見えるくらい透き通っている。魚が水中を気持ちよさそうに泳いでいるのが見えた。僕たちは緩やかな川の流れをじっと見ていた。
 
 ふと、故郷の瀬名川を思い出した。まだ、幼かった頃――5歳くらいだったと思う。安蘭と一緒に川遊びをした。父さんが対岸に行けるように、と川の中に飛び石を並べてくれた。
 僕がその飛び石の上をひょいひょいと渡って向こう岸に着いたとき、後ろからバシャッと鈍い音がした。振り返ると、安蘭が水に落ちて半べそをかいていた。足を滑らせて川底にはまったのだ。僕はすぐにザブザブと川の中に入っていって安蘭を助け出し、対岸まで連れていった。安蘭は川底に尻もちを突いたときの痛みをぐっとこらえているようだった。安蘭の洋服はずぶぬれだった。それでも、泣き出しはしなかった。
「ぬれちゃったな。ケガしなかったか?」
 僕の顔を見た途端、ワーワーと大げさに泣きはじめた。川底に尻もちをついた痛みでもなく、洋服がずぶぬれになった悲しさでもなかった。僕のように石の上をひょいひょいっと渡れなかった悔しさを、一気に爆発させたような豪快な泣き方だった。
「痛かったか?」
「…………」
「服ぬれちゃったな」
「…………」
 やっと泣き止んだ安蘭は悔しさを押し殺しながら、「佑ちゃんみたいにできなかったから――」とひとこと言ってまた大声で泣き出した。安蘭の泣き声が、川幅の狭い谷間に響き渡っていたのを今でも鮮明に覚えている。安蘭は幼い頃から気の強い女の子だった。
 
 僕はあのときのことをちょっと思い出しておかしくなった。
「佑輔、何にやにやしてんのよ?」
「うん? 川見てたら思い出しちゃって」
「何を?」
「おまえ、覚えてるか? 5歳くらいだったかな。一緒に川に行ったことがあっただろ?」
「うん」
「俺が飛び石の上をひょいひょいって渡って対岸に行っただろ。おまえも俺のあとについて同じことをしたんだ。そしたら、滑って川底に尻もちついて服がびしょびしょになったんだ」
「うん。覚えてるよ」
「けど、おまえ、そんときは泣かなかったよな。おまえを助けに行って対岸で俺の顔を見た途端、泣き出したんだ。何でだ?」
 僕にはわかっていた。僕みたいにできなくて悔しくて泣いたことを――それを安蘭の口から聞きたかった。ちょっとだけ優越感に浸りたい、底意地の悪さが顔をのぞかせた。
 安蘭は時間を早戻しして、あのときのことを必死に思い出そうとしていた。安蘭が思い出そうとしている間、追い打ちをかけるように言葉を重ねた。
「普通は尻もちつけば痛くて泣くだろ? 服だって濡れちゃったんだから。けど、おまえは泣かなかった。それが不思議なんだよなあ」
 安蘭はやっと思い出して口を開いた。
「痛いのは我慢できたよ。濡れたのだって平気だった。けど、悔しいのは堪えられなかったんだ。佑輔みたいにできなかったのがね――」
 よし! と心の中でガッツポーズをした。今は何をやっても安蘭には頭が上がらないが、あのときだけは僕のほうが勝っていた。変なプライドが沸き起こり、しばし優越感に浸った。
「おまえの気持ち、わからんでもないけどな」
 安蘭の気持ちを素直に受け入れ、この話題に終止符を打った。
「それにしても、この川きれいだよなあ」
「だね。瀬名川もこの川に負けないくらいきれいだったよね」
 
 僕と安蘭は静岡県の西部、愛知県境の一角にある〈川上村〉という小さな村で生まれた。この村には50軒ほどしか民家がなかった。村は5つの集落に分かれていて、僕と安蘭の家を含めた12軒は村の一番西側に位置する〈瀬戸地区〉にあった。
 瀬戸地区の12軒は、麓を流れる川のそばの1軒と北側山肌4軒、さらに南側山肌7軒の集落に分かれていた。僕と安蘭の家を含めた4軒は北側山肌にあり、その中でも最も西側にあるのが僕の自宅、西郷(にしざと)家だった。そして、その隣家が東谷(ひがしたに)家、つまり安蘭の家だった。
 北側の4軒の前には私道が通っていて、その私道を下ってから橋を渡り、坂道を上がると南側7軒の集落に出ることができた。一方、川のそばの1軒だけは川に架かっているつり橋を渡ってから坂道を上がっていくと、南側の集落に出ることができた。
 僕の家の裏手と、自宅から徒歩10分ほどの場所には茶園があった。摘み取った茶は近くの茶工場で製茶にしてもらい、自宅で茶袋に詰めて親戚や知り合いに贈る程度で、製品として出荷することはしなかった。
 また、自宅南側と東側の私道に沿って畑があり、川沿いの家の西側にも畑があった。畑ではハクサイ、キュウリ、ナス、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、スイカ、タマネギ、ネギなど、様々な野菜を栽培していた。最近はサルやシカ、イノシシなどの野生動物の被害が絶えないので、町の補助金でゲージを造り、その中で野菜を育てるようになった。野菜のほうも同様に出荷はしないで自給自足として栽培している程度だった。
 南側山肌に沿って県道が走っていた。この道路は西に向かえば二つの村を経由して松浜市に出る。一方、東に向かえば川上村を抜け、2つの村を経由して河浦町に出る。野菜以外に購入したい物があれば、車でこの道路を使って河浦町に行けば事足りた。
 僕の自宅から私道を通って山道に入り、北側の山に沿って15分ほど歩けば、愛知県藤栄町の藤栄駅から飯豊線に乗ることができた。このローカル線は上りが愛知県豊浦駅、下りが長野県飯尾駅が終点である。
 僕は川上村で生まれると、河浦町のお寺で〈佑輔〉と命名された。12歳までこの村で育った。生まれて1歳半になって歩けるようになると、隣家に僕と同い年の女の子がいることを知った。それが〈東谷安蘭〉だった。僕も安蘭も一人っ子だったから、自ずと一緒に遊ぶようになった。僕たちの遊び場は山と川だった。公園もなければ広場もない。山を駆け回り、水遊びをするのが僕たちの唯一の遊びのスタイルだった。
 僕たちは歩いて行ける藤栄町の保育園に4歳から六歳まで通った。川上村のほかの地区の子どもは河浦町の幼稚園に車で通っていたが、瀬戸地区の子どもはみな、藤栄町の保育園だった。
 7歳になると川上村にある小さな小学校に入学した。小学校は〈本村〉という地区にあって、自宅から徒歩で40分もかかった。私道から県道に出て、さらに国道を通って急な坂道を上がっていくと、小高い丘の上に川上小学校があった。児童数30人ほどの複式学級の小学校だった。安蘭は小4で転校してしまったが、僕は卒業までこの小学校にいた。だが、卒業と同時にこの小学校は閉校になり、川上村も〈限界集落〉に向かってしだいに衰退を始めていた。
 
 僕のスマートウォッチは、もうすぐ9時半になるところだった。
「安蘭、そろそろ出発するか。今度は俺が先導しようか?」
「だいじょうぶだよ。じゃあ、行くよ」
 安蘭は僕に答える隙さえ与えずに、さっさとチャリにまたがり、走り出していった。僕は慌ててあとを追った。
 ――あいつ。
 ここでも安蘭の勝気な性格が顔をのぞかせた。
 正面に奥松濱湖が見えてきた。自転車は左にカーブを切り、自転車専用道路に入った。自転車専用道路は奥松濱湖をかすめるように、熊野から影山まで続いている。僕たちは奥松濱湖の東岸を影山まで行き、再び国道に出て神宮寺町を目指して進んでいこうとしていた。ここまででやっと全ルートの5分の1くらいの地点まで来ていた。

つづく

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