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ルイの神話的起源譚《満点の呪い》第5話 初めての友達  His First Friend

朝の光が只クリーム色のじゅうたんに落ちている。小鳥たちの歌が聞こえる。洗濯機が微かにうなりを上げていて、たばこの臭いの代わりにお味噌汁の匂いがする。トントントン。ねぎを刻む音だ。

温かいお布団。ふかふかの枕。いつも冷たい床に申し訳程度の毛布しかかけてもらえていなかったルイはあまりにも安心して眠っていた。温かい。夢の中で、マリーがほほ笑む。母さん。いままでどこに?俺は淋しかった、怖かった。母さん、俺の側に来て、俺を見て。

しかし、マリーは美しかった、瑠衣を産み落とした19歳の当時のように輝くばかりに若返っていた。その目は夢を見ているようだ。瑠衣に目を落とすこともなく、幸福感に酔いしれていた。そして歌うように笑いながら話す。

「うふふふ…。お父さんが帰ってきてくれたのよ…。お父さんが帰ってきてくれたのよ…。もう、どこにも行かないって言ってくれたわ…。お父さんが帰ってきてくれたのよ…。」

そして、むせかえるような、煙のような臭いが、鼻腔を刺している。なぜかはわからない。誰かの悲鳴のような、空気の爆ぜるような音が聞こえて、消えた。

「お母さん、何だ?すごく変なにおいがするんだけど…?お母さん?」
瑠衣は顔をしかめた。そして母をもう一度見た。

しかしそこにいた母は、もう、母の様相を呈していなかった。
翻る白いワンピースの裾が炎に包まれている。金色の髪が、下から吹き上げる熱風で、あおられて、宝冠のように輝いている。

そして母は、その熱の中で火傷一つ負うこともないまま、美しいままに、優雅に舞い踊っていた、さながら火の女神のように。彼女の唇が開かれる。
そして今度は瑠衣を真っ暗な穴のような瞳で見つめてこう言った。

お父さんが。帰って。来て。くれたのよ。

マリーのその声は地獄の響きを帯びていた!!

「母さん!!」瑠衣は汗だくで目覚める。
気付けばそこは川口の公団住宅の中の一室だった。

「おはよう、昇君。あれっ。何だかひどい汗だよ。どうしたの?」

英次君が、俺の顔を覗き込む。俺の心臓は、半鐘を鳴らすように、激しく動悸していた。すごく、嫌な夢を見たような気がしていた。黒い、煙のような臭いがしたような気もした。臭いのある夢なんて。俺は頭がおかしいのか?

「ご飯できたよぉ。昨日はカレー、美味しかったよね。みんなで食べると、楽しいね。昇君、僕のママが作るカレー、甘くなかった?僕、恥ずかしいんだけど、カレールーは、どのカレーでも甘口じゃないと、食べられないの。お兄ちゃんに笑われちゃったよぉ。早く、大人になりたいんだけど、中辛は、お口から火が出ちゃうんだ。」英次は、そう、舌っ足らずの口調で「昇君」に話す。

「いや…俺は…、そんな風に、味まで気にしてもらったことは、無いし…。」

瑠衣は自分の父親の用意した食事を思い出す。いつも、あの家では、鶏の模様のついた、コーンフレークしか出てこなかった。牛乳もない。ほとんど餌に見える乾燥した食い物だった。母親が亡くなってからはほとんどそうだった。保存がきくという理由だけで食事は常にコーンフレークで、瑠衣は給食後、給食準備室に入り込み、残された残飯をなるべく隠し持って、命をつないできたのだった。

しかしそれを、高石に見つかり、給食準備室は施錠させられた。この日、瑠衣は酷く空腹で倒れそうだったのに、家に帰ると、何も食べ物が冷蔵庫に入っておらず、金も無いため、歯を食いしばって耐えるしかなかったのだ。その上、スタンガンの電流を青白く光らせたまま、父親が自分を追いかけまわす。逃げて逃げて逃げて、たどり着いた駅前で、この子のピアノを初めて聴いて。そして、初めて、英次に自分を見つけてもらえて、今ここにいるのだ。

「カレー、うまかった。ルーが、どんな味でも、俺にはすごいご馳走だよ。英次君。そして、英次君のお父さん、お母さん、ありがとうございます。」
英次の両親はにこにこ笑っていた。
「それより、君たち。冷める前に、ご飯を食べなさい。ほら、そこに座って。」英次の母親が優しく促す。

「すごいよ。こんな…、俺、見たことも食べたこともない!」
驚く瑠衣は思わず目を見張った。そこには、日本の美味しい朝食が丸々用意されていたのだった。
「ごめんなさいね。煮物は作り置きで一昨日のだけどまだ、食べられるから出しちゃった。味が染みてておいしいから、その煮含め、召し上がれ。」
瑠衣は、夢中になってご飯を食べた。美味しいなんてものじゃなかった。彼は母が亡くなって以来、初めて、作りたての家庭の味に触れたのだ。生き返った。全身の細胞が歓喜の念で叫びをあげているかのようだった。

一口食べる。美味しい。二口食べる。美味しい。止まらなかった。
「何でこんなにおいしいんですか。…コーンフレークと全然違う。」

英次は自慢した。
「えへへ。ママのご飯は、世界で一番おいしいんだよっ!」

本当だ。これは、世界で一番おいしいご飯だ。
怒鳴られない。食器を蹴り上げられない。
髪を掴まれて引きずり回されない。
怖くて味がわからなくて、泣きたいのに泣けない、あの感じがしない。
ホッとする…。ホッとするって…、こんなに嬉しいんだ。温かいんだ。
瑠衣は、思わず涙ぐんだ。今迄、ご飯らしいご飯は学校の給食くらいしか食べられていなかったからだ。それも、スプーンにはいつもチョークの粉が乗せられていた。

こんなに清潔で、安心できる食事の時間が、この世にあるなんて。
でも俺は、俺は、そういう感じを、自分の家で味わってみたかった。
ご飯がおいしいと、思ってみたかった。いくら嬉しくても俺はここの息子じゃない。帰らないと、迷惑をおかけしてしまう。でも…。

「ねえ、このおかず知ってる?グリーンピースを茹でて、ざるで水けをきって、めんつゆにニンニクと砂糖を入れて、少しラー油入れてから、漬けてね、味をしみこませてある、お母さんの実家の名物料理なんだぁ。」英次はまた自慢して、瑠衣にあーんをした。

思わずひな鳥のように、瑠衣はあーんをして、スプーンに乗せられた豆を受け入れて食べてしまい、照れを隠し切れず、赤くなりながら、もぐもぐと食べる。

「おいしい。」

「そうでしょう⁉僕、これ大好きなんだっ!」
英次は、自分が作ったかのように、胸を張った。

瑠衣は、そんなエイジがうらやましくなり、胸の切なさがこみ上げてきた。

「喜んでくれてよかったわ。口に合わないものだったら本当に悪いなって思ってたんだけどね。でも、本当に昨日はごめんなさいね、あなた、ひどく疲れているみたいだったから、そのまんま寝かせてしまったんだけど、親御さん、とっても心配なさっているんじゃないかしら、今からあなたのおうちに連絡するから、電話番号を教えてくれると嬉しいんだけどいいかしら。」

「あっ!…家には、やめて……。」瑠衣は小さく叫ぶ。

その様子を見ていた両親は顔を見合わせた。ひどく怯えているようだ。
「昇君、もしかしたら、訳があるのかい。もしよければ話してくれないか。君の力になりたいんだ。」

「あの…すみません…、俺は…。」

瑠衣は困り果てた。こんな異常なことをどう説明する。俺や家族が気持ち悪いと、この人達や英次に思われたら、生きていけない。

「パパ!ママ!昇君をいじめないでよ!困ってるじゃないか!」
英次が怒っている。気まずい。

そして英次より7歳、年の離れた長男の中学2年生の英一が、口を開く。
「父さん、早くいかないと電車に間に合わなくなるよ。母さんも今日、パートだろ。しかも早番だって言ってただろう?お弁当はいいから、行きなよ。俺ももう行かないと。お昼は学食の購買で買うからいい。焼きそばパンにしたいから金くれ。それと英次、今日は休め、そして、留守番でもしてろよ。な。」
そう言った後、英次に目配せする。英次もうなずく。

「昇君、ごめんなさいね、あなたも学校があったろうに。ああ、行かないと。」母親がパタパタと、スリッパを鳴らして朝の支度をする。

父親も、バスの時刻を腕時計で確認し、
「5分後だ、まずい。」と、急いで家を出る。続いて、兄も。
あっという間に、靴であふれかえった玄関がややスッキリしてゆく。

静かになった家の中で、瑠衣は、英次と二人、公団住宅に残された。
びっくりするほど静かな時間に、どこかで誰かの、干した布団を叩く音が響いている。

「昇君、ごめんね。パパとママはいつも忙しいんだ。だから僕は、こうして、鍵をいつも首から下げているんだよ。学校はあんまり好きじゃないから、こんな風に休みになる日は嬉しい。見て。僕のピアノだよ。ヘッドホンがあるでしょ?これをつけるとね、近所に迷惑かけなくて済むんだ。」

英次はそう言ってピアノを指差した。

「迷惑なんかに、なることがあるのか…。」瑠衣はため息が出た。
あんなにきれいで、美しい音なのに。

「そうだ、テレビ見る?天気予報見ないと。僕、お洗濯もの、畳んでお片付けできるんだよ。でも雨なら大変だからね。この前みんな濡れちゃって、ママにしかられたの。」

英次がそう言って、ブラウン管のテレビのつまみを引っ張る。ブゥンと音を立てて、テレビがつく。そしてニュースが流れる。

「昨日午後九時すぎ、新宿・歌舞伎町の雑居ビルで発生した火災は、現在も鎮火作業が続いています。 現場は細い路地に面した四階建ての古いビルで、黒い煙が周辺一帯に広がり、消防隊員が懸命の放水を続けています。

先ほど消防によりますと、焼け跡から身元不明の男性一名が発見され、その場で死亡が確認されました。 男性は四階付近で倒れていたということで、警視庁と消防は出火の原因と身元の確認を急いでいます。

現場周辺には、突然の火災に驚いた通行人や近隣住民が集まり、騒然とした状況が続いています。 この時間もなお、火の勢いは衰えておらず、歌舞伎町の一角は赤い回転灯とサイレンの音に包まれ、週末の喧騒とは異なる表情を見せています。」

…。あれは…。父さんの会社のあった場所…。まさか…!

お父さんが。帰って。来て。くれたのよ。

母の声が脳裏によみがえる。火の女神の様だった母。地獄の中で舞い踊っているような姿をした母。むせかえるような熱と、煙の臭い、肉の焦げるような、プラスチックの燃えるような、建材が発する有毒なダイオキシンを含んだ黒煙のような、酒の匂いのような。なぜあんなに生々しい感覚がよみがえった?俺は、そこにいたというのか?そうだ…。俺は、ずっと、俺はずっと…あの男を殺したいと願っていた。あいつの死を祈っていた。それはきっと俺の体から、伸びた影が、いつしか呪いとなっていて、母の魂と呼応してしまったのではないか。母の、名前は、マリー、ブリギット、オキャラハン。ブリギットはケルトの火の女神…。まさか…。俺は頭がおかしいのか。

お母さんは生前言っていた。あなた。私。助けた。あなた、へその緒、私にルーン、送る。痛み。ない。って。お母さんの言葉は断片だったけどそれは、俺の力…?なら…。この血には、俺を超えた変な力があって…。もしかしたら俺は、それで父さんを呪って、殺してしまったのか…??

瑠衣の体に震えが走った。瑠衣は今、底知れない恐怖を感じていた。
それは自分が、得体のしれない化け物であるという自覚であり、人間世界への深い断絶でもあった。




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