ルイの神話的起源譚《満点の呪い》第7話「霊安室での対面」
冷たい病院の緑色の廊下。そこに足音が響く。処刑台までの正しい距離が。一歩ごとに測られるように、縮んでいく。そしてたどり着く霊安室。その扉が開く…。
「こちらです。」空調の音が遠のく。
白い布がかぶせられたその物体は、生まれてこの方息子を恐怖で支配し、絶え間ない暴力と暴言、経済的支配と心理的虐待とで、長年、痛めつけてきた、赤城祐介という男だったものだった。
「!!」布越しでも遮断できないその臭いは、今しがた、台所で嗅いだ臭いに似ていた。肉の焦げた、生姜焼きにも似たその甘い臭いは、祐介というたんぱく質の塊が、熱で変質した匂いだった…。
「ううっ…!!」吐き気が抑えられない。瑠衣は一歩も前に進めないまま、時間だけが凍てついていく。瑠衣はその場で胃液を吐き出した。
「うっ、うええっ。」もう許してくれ!瑠衣の内心は割かれるように悲鳴を上げていた。さっきはお母さんが料理をしていたのだと思っていたのだ、しかし、自分が嗅いでしまったのは、焼け焦げた父親の臭いだったのだ。肺に一杯懐かしい生姜焼きの臭いと思って嗅いだ、それは、ただの、ただの、死臭でしかなかった!
しかし、警察官に容赦はなかった。剥ぎ取られる、白い布。そこには、見るも無残な人間の残骸が転がっていた。
異臭の中、体を支えられながらその姿を見せられる瑠衣は、正気を失いかけていた。
「お父さんの身につけている衣服は、全て燃えてしまっていてね、それでも何か、確認できそうなところがあれば教えてほしいんだ。」
何を言っているのかがわからない、言葉の意味が音としては伝わるが文脈として頭に入らない。自分の足が地面に触れている感覚が消える。
頭の中で、反復される言葉はたった一つだった。
「どうして…?」どうしてこんなことになったんだろう?
「どうして…?」どうして、俺と別れてすぐに死んだのだろう?
「どうして…?」どうして、俺は今生きているのだろう?
「どうして…?」どうして、誰かに恨まれていたのだろう?
いや、わかっている。誰よりも強く、誰よりも深く、この男を恨んでいたのは、他ならない、自分自身だった。毎日死ねと思っていた。毎日。毎日。
その思いが、お母さんを呼び寄せたから、父さんは…!
しかし、警察官は落ち着いた声で、瑠衣に語りかけた。
「犯人は既に確保しているよ、今、署で取り調べを受けている。彼は、借金トラブルがあってね。詳しくは話せないんだが、お父さんは、おそらく恨みを買っていた可能性が高いんだ。だからこそ、君の、声が重要な意味を持つ。君はこの人に、父親としての面影があるか、証拠となりそうな部分があるかを話してほしいんだ。」
その時、ふと、世界が音を取り戻した。
空調の音が、この部屋の空間にノイズを走らせる。
そして足の裏の感覚が戻り、汗が引いていく。
「俺が、殺したんじゃ…ない…??で、でも俺は、でも俺は…現実に、すごく憎いと思っていたし…いなくなればいいって…俺じゃない…?本当に…?どうして…ええっ…?それじゃこれは、それならこれは…。」
瑠衣は、一度、残骸を見た。それから、父親の胸元に、見覚えのある金属の影があった。それはステンレス製のフォークを、ねじ切って金属製のドリルで穴をあけた、父の記念品だった。彼は言っていた。
「お前の肉を焼いたこいつを俺は肌身離さず持っていたいんだ。いいお守りになると思わねぇか。」
あの時の乾いた笑い声が、耳の中で残響した。
「ひいっ!!うわぁあああ!!!!」大丈夫かい、瑠衣君!瑠衣君!!
取り乱すルイを支える警察官の腕の中で瑠衣は、震えながら、答えた。
「はあっはあっ、はあっ…お…お父さんに…間違い…ありません…。その…首飾り…は…。いつも…彼が…。」
警察官はうなずいた。
「ありがとう、協力してくれて。さあ、もう十分だ。行こう。」
こうして、翌日のニュースに、大々的に、歌舞伎町で死亡した男性の身元が報じられることとなる。大新聞も、週刊誌も、彼の死を、報じた。
「借金トラブルか!赤城祐介氏の、生活の実態!」
「苛烈な取り立てか!赤城祐介の所属していた会社とは?!」
「残された、遺児、R君、○○小学校6年生の今後は?!」
報道は過熱していた。
そしてそれを心配そうに、見ていたのは野崎家の人々だった。
「大丈夫だよ。ここにR君って書いてあったよ。昇君は、Nだもん、心配ないよ。」兄は、心配する英次に、そう言って話しかけていた。
英次も、それを信じて、曇った顔を輝かせた。
「そうだよね!!昇君は、大丈夫なんだ!!」
しかし両親は、異変を感じていた。あの子の怯え方は何か普通ではなかった。そして、子供たちが寝静まった夜に、布団をかけてやろうとして近づいた時、見てしまったのだった。寝相悪く、転がっていた昇君の体に纏った衣服がずれて、腹に大きなケロイドがあることを。両親はその話を共有した。
そして、その事で職場に向かうバスの車内で父親は児相に連絡をした。彼の最初の職場は福祉関係であったので、転職後の今も、児相につながりがあり、連絡先がガラケーに入っていたのである。
そして母親も、昨日、出会った少年に不審な点があると、警察に連絡をしていた。
そのため、瑠衣の第一容疑者としての疑いはかなり薄まっていたのである。
彼らの機転が瑠衣を救った。さらに言えば、両親は決して、このことを息子達には告げなかった。これは彼らが最後まで守り抜いた、人としての倫理だったのである。
病院を出たあと、世界は妙に明るかった。 夕方の光が、街のビルの隙間から差し込んでいる。 人々の話し声、車の音、風の音── どれも現実のはずなのに、どこか遠い。
瑠衣は歩いている。 歩いているはずなのに、足の裏の感覚が薄い。 さっき戻ってきたはずの感覚が、また遠のいていく。
胸の奥で、何かがまだ震えている。 あの声。 あの笑い。 あの金属の影。
「……俺じゃない、のに。」
呟いた声は、風に溶けて消えた。 罪悪感はまだそこにある。 でも、さっきまでのように“自分が殺した”とは思えない。 現実が、ゆっくりと、痛みを伴って戻ってくる。
信号が青に変わる。 人々が歩き出す。 その中に自分も混ざる。
世界は、何事もなかったかのように動いている。 自分だけが、取り残されている。
──野崎家の玄関の灯りが見えた。
扉を開けると、温かい匂いがした。 夕飯の匂い。 生姜焼きではない、普通の家庭の匂い。
「昇くん、おかえり。」
英次の声がした。 その声だけで、胸の奥がじんと熱くなる。
「……ただいま。」
それだけ言うのが精一杯だった。
靴を脱ぐ手が震えているのを、誰も指摘しない。 野崎家の空気は、何も聞かず、何も責めず、全てを知るが、黙認する両親の愛と共に、何も知らない子供たちの笑顔と共に、ただそこにある。野崎家の両親は瑠衣を帰らせなかった。警察に事情を聴き、彼の両親がともに亡くなっている事を知っているからだった。一人で子供を、親のいない冷たい家に戻らせるわけにはいかないとわかっていたからだ。児相につなぐまで、守ろう。それは大人としての責任だ。彼らは思う。もう、悲しい思いはさせない。この子に、子供として、与えられるべき尊厳を与えたい、と。
その夜、瑠衣は布団に入っても眠れなかった。 目を閉じると、あの金属の影が浮かぶ。 目を開けると、天井の木目が揺れて見える。
でも── 隣の部屋から聞こえる兄弟の寝息が、 この家の静けさが、 自分が“ここにいていい”という事実が、 少しずつ、少しずつ、心を温めていく。
瑠衣は、胸に手を当てた。
「……生きてる。」

その言葉は、誰に向けたものでもなかった。 ただ、自分の心に触れるための、小さな確認だった。
夜がゆっくりと更けていく。
今、彼は、地獄から帰って来たのだった。
母親の写真入りのペンダントだけが、彼のお守りであり、あの家から持ち出し、守り抜いた、彼のためだけの宝物だった…。
「おやすみなさい、母さん。」
瑠衣はペンダントの中の母親、マリーの写真を涙ぐんだ目で見つめる。
その母親の笑顔は何処までも優しかった。
「おやすみ、瑠衣。」そう聞こえたような気がした。
もう、呪いの影はない。優しい天国の響きを持っていたその声は、
彼のために、癒しのルーンの形をしていた。
そして瑠衣は、ようやく静かに、眠りにつくことが出来たのだった。
このシリーズの一気読みはこちらから!いつもありがとうございます!
このお話ともつながっています。まとめ読みに便利ですよ!
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