【嫌い#18】絶対というひと 下
管理職が集まった会議にて。
意見を交わしあうなか、
コンサルタントが意見を述べました。
「それは、これこれで、こうすべきです。絶対に。」
それまで、異なる説であったとしても、耳を傾け聞いていた。そのうえで、私の見解を言った。
意見の違いなど、たいしたことではない。
だが、気を緩めた。
下ネタで例え、話を風俗ネタにもっていった。
ふざけすぎたせいか、
コンサルタントに注意されましたよ。
「黒米さん、もうちょっと、
真面目にやりましょうね。」
お茶目でしょ、私。
「すみません。悪ノリしすぎちゃいました。」と、満面の笑みで詫びた。
PDCAかKPIの話だったかな。忘れた。
まあ、いっか。
私が絶対を使う人に応じた一例です。
皆さんも、
幼少期に一度は使ったことありませんか?
一生のお願い。
お菓子やおもちゃなど、
どうしても手に入れたいときに使う魔法の言葉。
私はありますよ。何度か笑。
時が経てば、
たいしたことでないのは言うまでもありません。
けれども、本人にとっては切実な願いであり、
必死に懇願する。
目の前にある世界が全てといっても過言ではない。
親は、冷静に
「今、一生を使っちゃうともったいないよ。
まだまだ大きくなった時に、大事な場面がある
かもしれないから」と、
魔法の言葉の使用を抑制しようと説得する。
あるいは、問答無用でダメとキツく言いつけたり、これで最後だからねと応じるなどなど。
私は親になったことがないので、
多くを語れません。
ただ、お子さんをお持ちの方々は、
どうにか説得するだろうなとは想像します。
子供がわかるような表現を用いて、普段使う言葉よりトーンを落としたり、口調を変えたりしながら。
世の中を知らないな、お前は。
何もわかってないなどと、
ムキになることはないはず。
一生のお願いは、文字通り、これから訪れる未知なる世界を含めて懇願することでしょう。幼いから許される。まだ、世の中がよくわかっていないゆえに。成人した人が言うことではないのではなかろうか。
コイツ、カッコつけやがってと殿方からの
声が聞こえた気がします。
応じましょう。
若い女の子だって許しませんよ。私は。
一生のお願いと言いながら、
モノをおねだりしたってダメはダメです。
瞳をウルウルさせたってダメ。
漢として、ガツンと言ってやります。
「しょうがないなー」と。
デレデレしてるかどうかは、お察しくださいね。
一生のお願いと絶対というひと、
共通するのは、世界が狭く、
世の中をまだ知らないということ。
誤解のないようにいえば、
私が世の中のことを知っている訳では決してない。
いまなお、わからないことだらけである。
何かを知っているようでほとんどわかっていない。
わかっていないからこそ、
知りたくもあり、面白い。
絶対に○○だのような論?
論とはいえない希望的観測や個人の願望。
学歴の高低や年齢の上下、
社会的地位など、
比較するものが、
私よりも上回っていたとしても、冷めますね。
同等の相手とみなすことは、まずない。
出来ることなら、接したくない。けれども、会議や議論する場では、接してしまうこともある。飲みの席や談笑しているときは、まだいい。友達や知人でも言う人もいるし、そこまで気にしない。ふざけてるだけだから。けれども、真面目な場でされてしまうと。
そういう時に私は相手にあわせます。
目線を下げて。
時には中腰で。
シンプルな対処方法だ。
統計を取った訳ではないが、
ご年配の方は、わかるんだと思います。体感的に。
あんなに頑張ったけど、上手くいかなかった。
その逆に、なにもしなかったけど、
なぜか上手くいってしまった。
あんなに良い人が・・・。
突然の別れであったり、
意図しない力によって、
想像もしなかった結末になったりと。
世の中は不思議なことだらけだ。
だから、絶対がほとんどないとわかるのではないだろうか。何気ない暮らしの中で。
ゆえに、人生経験が豊富で傾聴に値する。
とはいえ、なかにはイケてない高齢者もいる。
そのことは、別の機会に改めて。
若いから、世界が狭く、何もわかっていないとは思わない。若い人が持つ、チャレンジ精神や勢いは素晴らしく、とても真似できない。SNSの活用法など、足元にも及ばない。
業務的なことを中心に、ほんのちょっと私が知っている程度だ。年下であっても、豊富な経験をしている人も多く、世界が広い人もいる。彼らから学ぶこともある。
年配の方でもいるし、若い方でもわかる人がいる。戸籍上の年齢は関係ない。
精神年齢というやつかもしれない。
余談だが、
部下の現代っ子らにいじられることがあった。
黒米さんの連打、癒されます。
フリックできなくてと。
ふざけやがって。
ムカついたんで、
昭和風にお返ししてやりましたよ。
不幸の手紙を引き出しに入れときました。
切り抜き文字を貼り合わせて。
働きましょうよと、部下たちに言われる私。
アンタら、なぜ、真っ先に私を疑った?
人生の先輩として言っておく。
人を疑うのはよくないぞ。
所謂、女の感というやつかな。
信頼関係がない部下との関係。
これが、働き方改革ってやつなんだろう。
なんの話でしたっけ?
あっそうだ。
幼児を相手にすると、
目線を合わせるために中腰になる。
私は腰痛持ちだから、キツイというただの愚痴。
絶対を使ってはならない。
絶対を使うのは禁止だなどと、
制限をかけたい訳ではない。
使いたければ、使えばいい。
そこまで他人に興味もない。
もしかすると、私が使う意味も、
変わる可能性を否定できない。
大野晋曰く、
かつて「とても」は否定的な使われ方をしていたようだ。先程のとても真似できないのように。明治以降に肯定的な使われ方をするようになったそうだ。
現代でいえば、「ヤバイ」であろう。
ヤバイ、あの人と言った場合、以前は危ない人、
どうしようもない人という否定的な意味を表した。
しかし、今は、良いね、凄いといった肯定的な表現へと変わっている。
同様に、「絶対」も、変わることはないとは思わない。そうしたこともありうる。
今を生きる我々と共に、
言葉の使われ方も変わりうるから。
けれども、私は、絶対を絶対として使い続けるだろう。口にすることはあまりないけど。
雑な言葉で、そのうえ金もとる。
何の助言をするのか、コンサルタントって。
せめて払ってくれ、私の整骨院代。
腰痛が悪化したではないか。
ちょいと訂正します。
感心する人がいます。
張りきってる
アンチエイジング的なコンサルタント。
アナタ、絶対に○○しなさい。
絶対○○した方がいい。
○○です。絶対に。
うるせー、と、
反抗期的な体質が抜けていないので、
従うことはない。
けれども、相手が示す事実の前には、
私は跪くしかない。
嗚呼、なんとお若い。精神的に。
儲かりそうですよね、そこの店。
【参考文献】大野晋『大野晋の日本語相談』朝日新聞出版、1995年。
大野晋『日本語の年輪』新潮社、1966年。
また、このごろ若い人たちは「非常に」というところを、何でも「すごく」という。私たちは子供のときに「とてもおもしろい」とか「とてもいやだ」とか言った。この「とても」という言葉も、古くは「とてもかくても」と使ったので、「どうしてもこうしても」の意味であって、「とても」といえば、「とてもだめだ」「とてもできない」と、必ず打ち消しの形で使うのが普通だった。それが明治時代の終りごろから、「とても美しい」とか「とてもおもしろい」と、普通の肯定の形にも広まって使われるようになり、言葉に細かい感覚を持つ人は、それをとがめたものだった。
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