何度目の、君だろう 第三話「健という存在」
第一話・第二話「再会/繰り返す朝」あらすじ
三十二歳の井上朝陽は、親友・翔太の結婚式で、かつての同期・橘冬子と再会する。式の帰り、冬子に「大丈夫じゃないのに、大丈夫って言うよね」と言われ、言葉を失った朝陽は、諦めようと思った瞬間——結婚式の朝に戻っていた。二度目の同じ一日、今度は冬子に近づこうとするが、翔太の大学友人・藤原健が何度も冬子のそばに現れ、タイミングを奪われ続ける。またも諦めようと思った瞬間に戻された朝陽は気づく。——*諦めた瞬間に、戻されている。*彼女の麻衣への罪悪感を抱えながら、三度目の十一月十四日が始まる。
一
三度目の十一月十四日は、少しだけ違う朝だった。
違うといっても、目が覚めた時刻も、天井も、麻衣からのメッセージも、全部同じだ。
ただ——朝陽の頭の中が、違った。
夢じゃない。もうそれははっきりしている。諦めようと思った瞬間に戻ってくる。それも、たぶん合っている。
じゃあ、諦めなければいい。
シンプルな話だ。
でも何を諦めなければいいのか、朝陽はまだ自分に問うことができなかった。冬子のことが好きだと、そういう言葉を使うには、まだ何かが追いついていなかった。
ただ——あの人ともっと話したい。
それだけが、今朝唯一はっきりしていることだった。
スマートフォンを手に取る。
『今日楽しみにしてるね。スーツ、絶対似合うよ』
三度目の麻衣からのメッセージ。
朝陽は「ありがとう、俺も楽しみ」と打って、送信した。
嘘ではなかった。今日は、昨日までと少し違う気がしていた。
二
式場に着くなり、朝陽は冬子を探した。
受付の近くにいた。さくらの友人グループの中で、一番よく笑っていた。今日も黒いドレス、黒髪。当たり前だ。
健の姿も、すでにあった。
翔太の大学グループの中にいたが、何度か冬子の方に目をやっていた。朝陽は健の動きを、意識して追った。
健は冬子のことが好きなのか。
それとも、昔何かあったのか。
冬子は健のことをどう思っているのか。
わからないことだらけだった。ただ、冬子が健を見るときの表情と、他の人を見るときの表情が、微妙に違う気がした。避けているとまでは言えない。でも、少しだけ、構えているような。
披露宴が始まる前に、朝陽は思い切って冬子のそばに近づいた。
「橘さん」
冬子が振り返った。一瞬、誰かを確認するような目をして——それからくしゃっと笑った。
「井上くん!久しぶり」
「久しぶりです。お元気でしたか」
「元気元気。井上くんは? まだ同じ会社?」
「はい、まだいます」
「そっか。フリーになってから、なんかもう別世界みたいで」冬子は笑いながら言った。「会社員に戻れる気がしない」
「向いてそうなのに」
「向いてなかったんだよ、意外と」
他愛ない会話だった。でも昨日までと違って、ちゃんと向き合って話せていた。冬子の笑い方が、さっきグループの中で見せていたものと少し違う気がした。もう少しだけ、力が抜けているような。
「翔太くんと井上くんって、ずっと仲良いんだよね」冬子が言った。「さくらから聞いてた。地元からの幼馴染だって」
「恥ずかしいな、何を聞いてるんだろう」
「いいことしか聞いてないよ」冬子は笑った。「翔太くん、井上くんのこと信頼してるんだなって、話聞いてるとわかる」
「あいつが言いそうなことを言いますね、橘さんも」
「本当のことだもん」
冬子が首を傾けた。
その瞬間だけ、笑いが少しだけ薄れた。何かを考えているような、遠くを見るような目。
朝陽が何か言おうとした——
「冬子」
声がした。
健だった。
いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。
三
「久しぶりだな」健は冬子に言った。朝陽のことは、最初ちらりと見ただけだった。「来てたんだ」
「来てたよ」冬子の声が、少しだけ変わった。「健くんも」
「翔太に呼ばれたから」健は笑った。「元気だった?」
「元気だよ」
短い言葉だった。
朝陽は二人の間に立ちながら、自分がいていい場所なのかわからなくなった。
健が朝陽に目を向けた。
「翔太の友達ですよね。俺、藤原健っていいます。大学で翔太と一緒で」
「井上朝陽です。翔太とは地元からで」
「あ、そうか。井上くんね、翔太からよく聞いてたよ」健は人当たりよく笑った。「よろしく」
「こちらこそ」
健は感じのいい男だった。それがまた、朝陽には少し厄介だった。嫌いになれる要素がなかった。
「冬子、席どこ?後で挨拶行くわ」健が冬子に言った。
「さくらのそばだから、さすがにわかると思うけど」
「じゃあ後でな」
健が離れていった。
残った空気が、少しだけ変わった。
「昔の知り合い?」朝陽は聞いた。
「うん、まあ」冬子は笑った。でも目は笑っていなかった。「翔太くんが大学の友達と飲んでる時、私がさくらといて、合流して一緒に飲んだことが何度かあって」
「仲良さそうでしたね」
「そう?」冬子は少し首を傾けた。「そうかな」
それ以上は言わなかった。
朝陽も、それ以上聞けなかった。
四
披露宴が始まった。
翔太のスピーチを聞きながら、朝陽は今日三度目の「好きな人に向き合えよ」を受け取った。
三回聞いても、刺さる。
歓談の時間、朝陽は冬子のテーブルに向かった。今日は健に先を越される前に動こうと決めていた。
冬子はさくらと話していた。朝陽が近づくと、さくらが「あ、翔太の幼馴染の」と笑顔で言った。
「井上朝陽です、今日はおめでとうございます」
「ありがとうございます!冬子から聞いてたよ、元同僚だったって」
さくらは明るくて話しやすい人だった。翔太が選ぶ人だと思った。
「冬子って昔からあんまり変わらないでしょ」さくらが冬子を見て言った。「会社辞めてフリーになって、色々あったのに全然そう見えないっていうか」
「さくら」冬子が笑いながら止めた。「何の話してるの」
「いい意味だよ。ずっとこのままでいてほしいっていうか」
「褒めてるの?それ」
二人のやりとりを見ながら、朝陽は思った。
さくらは冬子のことをよく見ている。「全然そう見えない」——それはつまり、見えていない部分があるということを、さくらは知っているということだ。
冬子が朝陽の方を向いた。
「井上くん、なんか笑ってる」
「いや、お二人仲良いなと思って」
「もう長いからね」さくらが笑った。「この子、私にしか素出さないんだよ。昔から」
「さくら、ほんとにやめて」
冬子の頬が、少し赤くなった。
朝陽は、その顔から目が離せなかった。
五
二次会の会場に移動する前に、朝陽は麻衣と少し話す時間があった。
ホテルのロビーの隅で、二人並んでソファに座った。
「楽しかったね、今日」麻衣は言った。「翔太くんのスピーチ、今日は泣きそうになっちゃった」
「毎回あれ言うな、あいつ」
「毎回?」麻衣が首を傾けた。
「あ、いや——翔太ってああいうこと言うタイプだから、たぶん」
「そうなの?意外」
麻衣はしばらく、ロビーを行き交う人を眺めていた。
「ねえ」麻衣が言った。「私たちも、そろそろかな」
朝陽は、麻衣の顔を見た。
真剣な顔ではなかった。でも冗談でもなかった。翔太の結婚式という場所で、ふと口から出てきた言葉、という感じだった。
「そろそろって」
「うん、なんか。翔太くんたちを見てたら、なんとなく」麻衣は少し笑った。「変なこと言った。忘れて」
「変じゃないよ」
「でも朝陽くん、困った顔してる」
朝陽は何も言えなかった。
麻衣は笑って立ち上がった。
「行こっか、みんな待ってるよ」
その背中を見ながら、朝陽は胸の奥に重いものを感じた。
麻衣は何も悪くない。
何も、悪くない。
六
二次会は、昨日と同じ駅近くの少し薄暗い照明の店だった。
今日は健の動きを意識して見ていた。
健は翔太グループにいながら、何度も冬子の方を見ていた。二次会が中盤になると、健は冬子のグループに移っていった。さりげなく、でも確実に。
冬子は健が来ても逃げなかった。笑いながら話していた。
作った笑い方だ、と朝陽は思った。でも冬子が嫌がっているとは言い切れなかった。
朝陽は麻衣の隣で飲みながら、その様子を横目で見ていた。
健が冬子に何か言った。冬子が少し首を振った。健がまた何か言った。冬子が笑いながら、視線を逸らした。
その逸らした視線が——一瞬、朝陽の方を向いた。
目が合った。
ほんの一秒か、二秒か。
冬子はすぐに視線を戻した。何事もなかったように、健の話に笑った。
朝陽は、グラスを持ったまま動けなかった。
七
二次会が終わって、外に出た。
十一月の夜風が冷たかった。
麻衣が「トイレ行ってくる」と言って店内に戻った。朝陽は入り口の外で待ちながら、煙草を持たない手をポケットに突っ込んだ。
隣に、誰かが来た。
健だった。
「お疲れ様でした」健は言った。煙草に火をつけながら、夜空を見上げた。「井上くんも二次会まで来てたんですね」
「翔太に引っ張られて」
「俺もです」健は笑った。「翔太って昔からそうなんですよね、人を巻き込むのが上手くて」
「地元のころからそうでした」
悪い男じゃない、と朝陽は思った。話しやすい。人当たりがいい。冬子が嫌いになれない理由が、わかる気がした。
「橘さんとは、昔から知り合いなんですか」朝陽は聞いた。
健は煙草を持ったまま、少し間を置いた。
「まあ——前に、翔太と飲んでるときに、何度か一緒になって」
「そうなんですね」
「井上くんは? 元同僚だったって言ってましたよね、冬子が」
冬子が、と健は言った。名前で呼んでいる。
「はい、同じ会社に入って。部署は違ったんですけど」
「今日、ずっと気にしてましたよね」健は朝陽を見た。笑っていたが、目は笑っていなかった。「冬子のこと」
朝陽は、一瞬息が止まった。
「気にしてた、というか——久しぶりに会ったので」
「そうですか」健はまた夜空を見た。「俺も、久しぶりでした。また話せてよかった」
それだけ言って、健は煙草を携帯灰皿で消した。
「お先に失礼します。今日はお疲れ様でした」
健が歩いていった。
朝陽は、しばらくその背中を見ていた。

八
帰りのタクシーの中で、麻衣が眠った。
朝陽は窓の外を見ていた。
今日、冬子と話せた。
さくらも交えて、少しだけ笑えた。冬子の頬が赤くなった瞬間を、見た。目が合った。ほんの一秒か二秒、でも確かに。
でも健もいた。
名前で呼んでいた。ずっと気にしてましたよね、と言われた。
そして麻衣が言った。私たちも、そろそろかな。
タクシーのシートに背中を預けて、朝陽は目を閉じた。
麻衣は何も悪くない。長年付き合った彼女じゃない、まだ半年だ。いや、付き合った月日は関係ない。麻衣は誠実な人だ。気持ちに正直な人だ。そういう人を——
冬子には、健がいる。昔何かあったのかもしれない。今日また近づいていた。冬子も逃げなかった。
俺には、麻衣がいる。
麻衣のマンションの前でタクシーが止まった。
「おやすみ」麻衣は眠そうに言った。「送ってくれなくてよかったのに」
「大丈夫だよ」
ドアが閉まった。
走り出すタクシーの中で、朝陽は暗い天井を見上げた。
麻衣を傷つけてまで、何をしようとしてるんだ。
橘さんには健がいる。俺には麻衣がいる。
それだけの話だ。
諦めよう。
目が覚めたら、朝だった。
見覚えのある天井。
スマートフォンを手に取る。
十一月十四日。土曜日。午前七時十二分。
四度目だった。
朝陽はしばらく天井を見つめたまま、動かなかった。
また戻ってきた。
今日は冬子と話せた。目も合った。それでも戻された。
——諦めたから。
わかってた。わかってたのに、また同じことをした。
朝陽は息を吐いた。
布団を払って、起き上がる。
四度目の、十一月十四日。
窓の外で、いつもと同じ鳥が鳴いた。
諦めなければいい。
頭ではわかっている。
でも——何を、諦めなければいいんだ。
朝陽は洗面台の鏡を見た。三十二歳の自分の顔が映っていた。
答えは、たぶんもうわかっていた。
ただ、まだ——言葉にする勇気がなかった。
九
三度目の朝陽が眠りにつく、その同じ夜。
冬子は一人だった。
自分の部屋の、窓際に座っていた。街灯の光が、カーテン越しに薄く差し込んでいる。
今日も、うまく笑えた。
さくらの結婚式。健にも会った。井上くんにも。
井上くん。
なんで名前が出てくるんだろう、と冬子は思った。健と話しながら、何度か視線が向いていた。気づいたら探していた。会場のどこにいるか、なんとなく把握していた。
昔の同僚だから、懐かしかっただけだ。
そう思おうとした。
でも——あの人の前でだけ、なぜかうまく笑えなかった。うまく笑えない、というより、笑う必要を感じなかった。変なことを口にしてしまった。大丈夫じゃないのに大丈夫って言う——なんであんなことを言ったんだろう。
昔の自分みたいで、つい。
冬子は膝を抱えた。
健はまた近づいてきた。優しい人だ。悪い人じゃない。昔、自分が逃げた理由が健にあったわけじゃない。
ちゃんと向き合わなきゃ、と思った。
健に対しても。自分に対しても。
そうしよう。健ときちんと話そう。井上くんのことは——
忘れよう。
冬子は目を閉じた。
目が覚めたら、朝だった。
見覚えのある天井。
スマートフォンを手に取る。
十一月十四日。土曜日。
冬子はしばらく、画面を見つめたまま動けなかった。
また、この朝だった。
第三話・了
