【東京短歌116】秋祭り 神輿を担ぐ 人足らず 募集をするも 果たして如何
東京には人が多いと言うけれど、なんとまあ、肝心要のお祭りの、神輿を担ぐ人はなし。
途方に暮れた町内会は、担ぎ手募集のポスターを、至る所に貼るけれど、果たして手を挙げる人はどれだけいるのだろう。
僕は勿論担ぎ手なのだけれど、毎回、翌日から数日間は全身筋肉痛に悩まされる。
致し方なし。
三社祭や神田明神の神田祭等々有名なお祭りは、担ぎ手に困ることはなく、縁も所縁もない人々が遠方より来たりて担ぎ、余りさえ生じるというのに。いやはや何とも。
都心の空洞化というのは、ひとつには都心に住む人々が減少していることを意味しており、昼夜間人口の統計数値の乖離が大きければ大きい程、定住者の減少を示唆している。
都心に住むには、地価の高騰による家賃や固定資産税の増加を受け入れなければならず、それに耐えられない場合は、都心から離れざるを得ない。それは火を見るより明らかなことであろう。
嘗て野原や田圃や畑であった場所が、今やコンクリートとアスファルトで堂々とした商業施設やマンション群へと変貌しているのは、資本主義経済における需要と供給の一面であり、人為的かつ計画的な施策の一環に過ぎない。
しかし、その結果、人がいなくなるのは何とも皮肉な結果と言わざるを得ないだろう。
とはいえ、時は流れ、人は動き、需要と供給も変動し続ける。
現時点においてはそうであっても、100年後、1000年後どうなっているかは、誰にも分からない。
『定点観測』の意味は、単なる記録ではなく、過去と現在、そして未来予測のためのものであり、確率論的な手法の一つとして認識される。
閑話休題。
いずれにしても、人がいない。
これだけ人がいるように見えても、人はいない。
それが現実であり事実である。
町内会は紛糾し、侃侃諤諤、喧々轟々、町会長は頭を抱え、一家言の人々は声高々に言いたいことを言い、顔役は腕を組み、結論は先延ばしになる。
所謂、平常風景、日常風景、何処にでもあるありきたりの何の変哲もない日常である。
やがて、背に腹はかえられぬと悟り、懇願をする。
だったら最初から素直にそうすれば良いのに、と思うのは早計だろう。
人間というのは、崖っぷちに立たなければ、本音を言えない生き物なのだから。
土壇場で言えるだけまだましだろう。
それさえ口にできない愚物もいる。
ならばお前は?
そう、僕は最初から素直に口にする。だって時間の無駄でしょ?それに面子なんてないし、そのくらいでどうにかなる自尊心もない。
あるのは矜持だけ。他の何者にも傷つけられないたったひとつの信義だけだよ。
