閉塞する家 ─ 母が生きている限り
あらすじ
裕福で恵まれた家庭。だが、母の価値観と兄の無責任さ、そして自分自身の優しさが重なり合い、主人公は出口のない閉塞感の中に生きている。お金では解決できない家族の重さを抱えながら、彼が見つめた家の風景とは──。
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父と娘のあいだに流れる沈黙と旋律。亡き母の面影を胸に、ひとつのピアノがふたりの距離を少しずつ変えていきます。
母が倒れたのは、梅雨明けの朝だった。
キッチンの床に座り込む母を見た瞬間、俺は反射的に救急車を呼び、兄貴に電話した。
「母さんが倒れた。すぐ来い」
電話の向こうで兄貴は、いつもの無機質な声を出した。
「いや、今は無理だ。仕事が立て込んでるんだよ」
ああ、そうだろうな。
おまえはいつだって来ない。来るのは決まって、金が要るときだけだ。
病院に運ばれた母は幸い命に別状はなかった。
意識もあるし、ベッドの上で看護師に的確な指示を出している。母は昔からそういう人だった。弱音は吐かない。息子にも甘えない。
母の年金は人並み以上。いや、俺が資産管理をしてきたおかげで、不動産収入もありそこらのサラリーマンよりずっと安定した収入がある。最高ランクの介護施設だって今すぐ入れるのに、母は言う。
「ここがいいのよ、家が」
俺は黙って頷いた。
金で解決できることは山ほどある。けれど母の価値観だけは、どうにもならない。
数日後、会社の若い同僚が言った。
「俺、マジで親ガチャ外れてんすよね」
親が離婚してて、金もなく、大学も奨学金で出たという。
「先輩はいいっすよね。お母さん元気で、家もあって、安定してて」
俺は笑ってごまかしたが、胸の奥に鉛のようなものが沈んだ。
確かにうちは裕福だ。
だが母は俺が連れてくる彼女をことごとく気に入らず、馬鹿らしくなった俺はもう母の価値観に逆らう気力もない。一方で、遠方に住む兄貴は金の無心ばかりしてくる。
金があれば幸せか? そんなことはない。
だけどこの小僧にそれを言ったところで、ただの金持ちの戯言にしか聞こえないだろう。
退院した母は、昔と変わらぬ口調で俺に言った。
「ねえ、あんた、そろそろ身を固めたらどうなの?」
このセリフを聞くのは、もう何度目だろう。
「俺の年齢わかって言ってる?」
「わかってるわよ。だから余計よ」
母は迷いなく言う。
「いい年をして一人で、みっともないと思わないの? あんたみたいにちゃんと稼いでる人なら、家族がいて当然でしょ」
俺は言い返そうとして、言葉が出なかった。
母の言葉が古いとか、価値観が昭和のままだとか、そんなことはわかりきっている。
だけど俺は母の憂うような目を見てしまうと、いつも何も言えなくなる。
その夜、兄貴から電話がかかってきた。
「実はさ、子どもの学費でちょっと入り用でさ。悪いけど貸してくれないか?」
俺は無言で送金した。兄貴は来ない。金の無心の時だけ連絡を寄こす。
結局、俺が背負うことになる。それがいつものことだった。
夜更け、母の部屋の前を通りかかった。
灯りがまだついている。ドアをノックすると、母の声がした。
「入っていいわよ」
ベッドに腰掛けた母は、湯呑みを両手で包み込みながら小さな声で言った。
「……あんたがいてくれて助かってるのよ」
いつも強い口調の母から出るとは思えない言葉だった。
母は俺の目を見ずに続けた。
「昔から、あんたにばかり頼ってきたわね。兄さんには言えないことも、あんたには言えるから」
それは謝罪でも感謝でもなかった。
ただ、母がようやく見せた一片の弱さ。
俺は何も言えなかった。
言葉にした瞬間、この家の重さで俺の全部が押し潰されてしまう気がしたからだ。
母は最後にぽつりとつぶやいた。
「もう少しだけ……ここで暮らしたいのよ」
その一言で、この家の閉塞感の正体がわかった気がした。
母が生きている限り、この家は続く。
母がいなくなれば、この家は終わる。
どちらにしても、俺はきっとここから自由にはなれない。

