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【北斉 下】「ソドムとゴモラ」滅ぶべし。|宮崎市定先生を慕って―「大唐帝国 中国の中世」(2)7,000字


悲しみの象徴

一 無理な願い

文宣帝(高洋)の遺言に込められた祈りは、あっけなく打ち砕かれます。
宮崎先生は次のように筆を進めます。

……しかるに太子が立って天子となったと思うまもなく、高演がこれを廃して殺し、みずから天子の位についた。これが孝昭帝(こうしょうてい)である。……
……
 孝昭帝は北斉の君主としてはまともなほうであったが在位一年余で死ぬとき、その弟を立てて天子とした。これが武成帝(ぶせいてい)である。そのさいの遺言は、

「自分は太子があるのにお前に位をゆずるのは私の子の太子がかわいいからだ。たのむから太子はけっして殺してくれるな」
という切なるたのみであった。しかし、武成帝は位につくとまもなく前太子を殺した。自分は人の子を殺しておいて、自分の子だけ人に殺すなとたのんでも、それはむりな注文というものだ。

宮崎市定「大唐帝国 中国の中世」(中公文庫)307~308頁

孝昭帝の死因は落馬でした。
享年27歳。
なんとあっけないことか。
なまじ教養(自制心)があった孝昭帝は、甥を殺した罪悪感に苦しんでいたと記録されています。

しかし、……
「自分は人の子を殺しておいて、自分の子だけ人に殺すなとたのんでも、それはむりな注文というものだ」
……
当然ではないでしょうか。

この一文、一読したときから忘れられません。

宮崎先生は孝昭帝について、「北斉の君主としてはまともなほう」と冷ややかですが、史書には名君だったと記録されています。
しかし、在位一年程度では何とも言えません。

……だって、そうでしょう?
文宣帝だって、在位十年の前半は、至高の名君にして、英雄天子だったのですから……。

……人は独りで生きてはいないもの。
前太子・高百年(こうひゃくねん)には、既に妃がおりました。
悲劇は連鎖します。

二 それは蠟細工のような

引用を続けます。

 前太子の妃は名将、斛律光(こくりつこう)の娘であった。太子は天子から召されたので、佩玉(はいぎょく)をあたえて妃と別れ、都にはいって殺されたのであった。妃は悲しみのあまり、食を絶って月余で死んだが、その手にかたく佩玉をにぎりしめたままはなさなかった。枕もとに立った父親の斛律光が、蠟細工のように白い娘の顔に頬をすりよせ、手をとりながら、
「お父さんだよ。わかるかえ」
というと、娘はにぎった指をひらいて玉をはなしたという。中世七百余年のうちで、もっとも中世にふさわしい、悲しくも美しい挿話である。それはまことに幾百億中世人の悲しみをひとりの身に象徴したようなものであった。

宮崎市定「大唐帝国 中国の中世」(中公文庫)308頁

高百年の妃・斛律氏(名は不明)、享年14歳。

「ソドムとゴモラ」、再来す

一 因果応報のいびつな円環

14歳の少女の命を奪い、その手から佩玉をこぼれ落とさせた張本人――それこそが、孝昭帝の跡を継いだ弟、武成帝(高湛:こうたん)でした。
ちなみに武成帝も「気高く優雅な美少年」とたたえられた男。

彼が演出した宮廷は、まさに真の意味での「ソドムとゴモラ」の再来。
私が最初の「序」で、この王朝を「R18要素が最も濃厚」と書いた理由、そのドロドロとした実態が、この武成帝の時代に極まります。

彼が最初に着手したのは、かつて美男の兄たちがさんざん繰り返した「漁色」の、さらにいびつな形での完遂でした。

二 引き裂かれた美貌 ――李祖娥の悲劇

標的となったのは、初代・文宣帝(高洋)の皇后であり、当時「天下の美女」と謳われた李祖娥(りそが)です。
彼女にとって高湛は義弟にあたります。

「従わなければ、お前と兄との間に生まれた息子(高紹徳)を殺す」

前回の引用を再び。

 文宣帝は前に兄の高澄にその妻を奪われた仕返しだといって、高澄の妻を犯したが、今度はその弟の高湛が代わって武成帝となると文宣帝の李皇后に迫って妊娠させた。李后は長子の紹徳に対して恥ずかしく思い、生みおとした女児を闇から闇に葬ってしまった。すると武成帝が怒って、女児を殺すなら、その兄も殺してしまえと、紹徳を殺した上、李后を裸にして鞭うった後、寺に送りこんで尼とした。何ともいいようのない奇怪な兄弟関係であった。
……わたしがいままで述べたことは、よほど控え目に、手心を加えて紹介したのであって、実際の乱行はもっともっとひどいものであった。……

宮崎市定「隋の煬帝」(中公文庫)19~20頁

三 「蘭陵王入陣曲」

武成帝は政務を顧みない、無軌道で残虐で荒淫な快楽主義者でした。

老練な政治家にして有能な軍人であった父、高歓。
淫蕩な嗜虐趣味ながら、有能な実務家だった長兄、高澄。
天才(英雄天子・名君)と狂人(アル中・殺人趣味)を兼ねた次兄、高洋。
狂気に陥った兄帝を補佐し、政治を切り回して見せた六兄、高演。

皆、倫理を欠いていたにしても、全員が優秀な領袖あるいは君主でした。

__高湛に至り、とうとう北斉の君主ガチャは外れました。

しかし、彼は「英雄天子」と同じ血脈__よきにせよあしきにせよ、兄文宣帝の再来でした。

武成帝は北周が大軍を出して洛陽を攻めたとき、みずから将となり、一族の蘭陵王・高長恭(らんりょうおう・こうちょうきょう)と斛律光を率い、北周軍を撃破し潰走させました。

「北斉・北周・陳」Wikimediaより転載

宮崎先生は、蘭陵王についてほとんど触れていませんので、Geminiにまとめさせました。
ネタバレ部分はカットしました。

【私】蘭陵王・高長恭についてまとめよ。
【Geminiの回答】高長恭は、中国の南北朝時代における北斉の皇族であり、優れた武将です。蘭陵郡王に封じられたことから、一般には「蘭陵王」の名で広く知られています。
彼は類まれなる武勇の持ち主であると同時に、誰もが見惚れるほどの「絶世の美貌」の持ち主でもありました。そのため、戦場では自らの優しい素顔を隠し、敵を威嚇して味方の士気を高めるために、恐ろしい仮面を着用して戦ったという伝説が残されています。
特に西暦564年の「邙山(ぼうざん)の戦い」では、わずかな騎兵を率いて敵の重囲を突破し、城を救う大功を挙げました。この勝利を兵士たちが称えて作った楽舞「蘭陵王入陣曲」は、後に日本の雅楽にも伝わり、今なお踊り継がれています。
しかし、……。

四 醜悪な王朝だとしても

【北斉 上】でも触れましたが、北斉は、中国で最も富強な領土を支配し、人口も人材も経済力も軍事力も、頭一つ抜けていました。
文化の洗練度は南朝に遠く及びませんが、統一王朝の栄冠は北斉の頭上に輝くはずでした。
現実にはそのようになっていません。
それは何故なのか?
どうしてこうなったのか?
……倫理を欠いた君主であろうとも、政務を投げ出す君主であろうとも、内政と外政がかみ合っていれば、システムは回ったはず……。

システムが回らなくなったのか?
内政と外政が共倒れになったからなのか?
その後には何が残ったのか?
もし、頽廃だけが残ったのなら、まさに旧約聖書の「ソドムとゴモラ」のごとく、何者かが天誅を加えるのでしょうか?
ここで、北斉の宮廷の姿と奇妙にシンクロする「ソドムとゴモラ」の寓話について、あらためてGeminiにまとめさせました。

「旧約聖書」のように

「ソドムとゴモラ」とは

ソドムとゴモラは、旧約聖書の『創世記』に登場する、死海周辺にあったとされる二つの古代都市です。豊かな土地で非常に栄えていましたが、住民たちの道徳的な退廃や悪行が極みに達したため、神の激しい怒りを買い、天罰が下されることになります。

神は都市の破滅を決めますが、信仰深い義人であったロトとその家族だけは、天使によって事前に救い出されます。彼らが都市から避難する際、天使から「決して後ろを振り返ってはならない」と警告されていましたが、ロトの妻は街への未練から後ろを振り返ってしまい、塩の柱に変えられてしまいました。

生き残ったロトと二人の娘たちは山の中の洞窟に隠れ住みますが、周囲に男がいなくなり、一族の血が絶えることを恐れた娘たちは、父を酒で泥酔させ、子孫を残すために父と交わりました。この交わりによって生まれた子供たちは、後にモアブ人とアンモン人の先祖となったと伝えられています。

その後、ソドムとゴモラは天から降ってきた激しい硫黄と火によって跡形もなく焼き尽くされ、滅亡しました。この物語は、神による峻厳な審判と人間の罪深さを示す象徴的なエピソードとして知られ、現代でも「悪徳」や「退廃」を意味する代名詞として用いられています。
そして、それにとどまらず、その直後に起きたロトの娘たちのエピソードを含め、極限状態における人間の倫理や生への執念をも描き出しています。

google・Geminiによる。

この話もそうですが、旧約聖書は女性の描き方が本当に酷いですね。
妻は警告を破って塩になり、娘達は……。
どうやら旧約聖書の編集者は、酷い女性不信のようです。
一方、「雅歌」のように、翻訳に困るエロティックなものもあります。
……どうやら彼らは、女を軽蔑しながらも、女に抗えない業を抱えている模様です。
中国の儒者に通じるものを感じます。
当然のことながら、北斉の君主にも通底しています。

武成帝その後

武成帝は30歳にもならないのに、太子に譲位して太上皇になりました。
文宣帝の太子を孝昭帝が殺し、孝昭帝の太子を自分が殺したから、自分の子どもだけは早く即位させ、みずからの後見のもと天子の職務を習熟させ、その位をまっとうさせたい親心からのものでした。
しかし、荒淫な生活がたたったのか、武成帝は32歳でこの世を去ります。

長兄(高澄)は料理人に刺されて死んだ。
次兄(高洋)はアル中で死んだ。
六兄(高演)は落馬で死んだ。
そして武成帝もまた、訳の分からない急死を遂げる。

高歓の息子たちは、誰もが30歳前後で速やかにこの世を去っていくのです。

彼らに続いて帝位にある高歓の孫。
名は高緯(こうい)といいます。
すなわち、北斉の「後主」と呼ばれる皇帝です。

何の取柄もない暗君__粛清と自壊

後主には何の取柄もありませんでした。
父から武略を抜いた残り滓で組成されたような人間でした。
父の悪いところだけ受け継いだ暗愚な君主でした。
美少年ではあったそうです。

父のような君主の時代でさえ、北斉は北周はおろか突厥も寄せ付けない東アジア最強の王朝でした。
陳などお話にもなりません。
__それが後主の時代に入り、急にガラガラと崩壊していくのです。

彼の時代も引き続き「ソドムとゴモラ」が続いていました。
後主の逸話をWikipediaから拾ってきました。

一、無愁天子:自ら琵琶を弾いて卑俗な「無愁の曲」を作曲し、宮女たちと合唱して楽しむ。国難を前にしてもなお「憂いなし」と歌う姿から、民間からは皮肉を込めて「無愁天子」と呼ばれました。
二、悪趣味の共有:異母兄弟から「蠍(サソリ)の穴に人を投げ込んで苦しむのを見るのが楽しい」と聞くや、「なぜそんな面白いことを今まで隠していた!」と激賞し、さっそく真似をした。
三、寵姫の化粧で作戦失敗:北周に陥とされた平陽を奪還しに行った時、あと一押しで落とせるところまでいったが、馮小憐と共に落城する様を見物しようと攻撃を止めさせた。馮小憐の化粧に時間を取られ、奪還できなかった。
四、陳による侵略時さすがに顔色は失ったものの、臣下に「まだ淮河以南を失ったにすぎません。黄河以南を失っても我が国には亀茲くらいの国力があります。一生遊び暮らすには充分ではありませんか」といわれ、そのまま納得してしまった。

そして、極めつけはこれでしょう。
北周等の外敵の猛攻を何度も防いでくれた、軍の二大巨頭・斛律光と蘭陵王を次々に死に追いやってしまったのです。
讒言を信じて、斛律光には暗殺者を送って殺害。しかる後、その一族子孫を皆殺しにしました。
嫉妬に狂って、蘭陵王には毒を送り賜死しました。彼に子はなく、王の妻は出家して尼となったため、その家を絶えました。

天誅を加える者、西より来たる

北斉が自壊していく模様を見て、隣敵の北周は喜んでいました。
討滅するなら今しかない。
暗君に愛想が尽きて、君主をすげ替えられ、それが名君で政治が立てなおされたら、二度と好機は到来しないかも知れない。

北周が続いた理由。
それは東隣の北斉があまりに強盛であり、一刻も油断の出来ない大敵であったからでした。
__楽観は許されない、油断すると滅ぼされる。
その危機感が王朝を維持してきたと言っても過言ではありません。
この時点においては、北周王朝の歴代君主には暴君や暗君が出たことがありません。

北周第三代皇帝・武帝は北斉討滅を決意します。
最初の2回は失敗しましたが、3回目に後主が督戦する北斉軍を打ち破ると、あとはまるでドミノ倒しのように勝負が決まってしまった。
北斉の国都は陥落し、逃げ回る後主は生け捕りとなり、北周の都での凱旋式の見世物にされたあと殺されました。
北斉の旧皇族も皆殺しにされました。

最強だった北斉ですが、滅びるとき、いったん負け出すとあとははなはだあっけないものでした。

引き裂かれる構造__狂気は必然だった

宮崎先生の「大唐帝国」では触れられていないので、川勝義雄先生の著書「魏晋南北朝」(講談社学術文庫)を整理・要約して、このお話を終えたいと思います。

北斉建国の祖は、皇帝たちの父である高歓でした。
彼は漢人官僚と鮮卑系軍人を両輪として、政治に取り組んでいました。
東魏の時代、既に高歓配下の軍人は暴虐であり、人民から暴力的に財貨を巻き上げ、収賄などの汚職にも手を染めていました。
内政にあたる漢人官僚が、高歓に軍人の綱紀粛正を求めたところ、次のような返答がなされました。

「……軍人の家族には西魏に住んでいる者がいるし、漢人知識人は南朝の学問と礼楽に心引かれている。いま厳しく取り締まれば、彼らは西魏に去り、士大夫は南朝に走るだろう。人材が欠乏すれば国家が滅びる……」

つまり、当面は軍人をおだてて西魏と戦わせることを優先したのです。
そうやって、西魏を討滅できていれば、運命は違ったものになったのかも知れません。

高歓の子、高澄は漢人官僚の側に立ち、軍人を弾圧しました。
高澄を継いだ高洋は、漢人官僚に擁立され文宣帝として即位します。

軍人は父と兄との能力差を理由として、高洋の即位には反対でした。
文宣帝は漢人官僚とともに内政にあたり、軍人を率いて外政にあたり、比類なき名君にして英雄天子とたたえられました。
しかし、文宣帝は軍人に対する不安を払拭できませんでした。
その精神的ストレスから酒に溺れ始めます。
文宣帝のアル中による惑乱の背後に、漢人官僚の策謀があり、邪魔者の軍人を始末していた側面があるのではないでしょうか。

その揺り戻しが、高演のクーデターとして現れました。
文宣帝の後継者は幼く、それに乗じて漢人官僚がさらに軍人弾圧に踏み切ろうとした……。
不満が爆発した軍人は、高演を担ぎ上げ後継皇帝を廃して、孝昭帝として即位させます。

孝昭帝は父、高歓の路線に戻しますが、即位一年で落馬事故で死にました。

続く武成帝の時代は、漢人貴族と軍人に皇帝の取巻きの勢力が関わり始め、三つ巴の様相を呈してきます。
武成帝に取巻きの勢力が大幅に伸張しますが、そのおかげなのか、取巻きを中心として、一時的に漢人官僚と軍人の間で奇妙なバランスが成り立ち、小康状態に入りました。
取巻きの筆頭格は和士開(かしかい)といい、武成帝の寵臣にして、その皇后の公認の不倫相手でもありました。
和士開には政治の才能などなく、口先だけのおべっか野郎でしたが、彼が漢人官僚と軍人のバランサーになっていた、という面もありそうです。
現に彼が生きているときは、政局の安定は保たれていましたから。

その小康状態は武成帝の死によって崩れ去り、軍人が和士開を暴発的に殺してしまうと、それに乗じて漢人官僚が後主をそそのかし、軍人トップの斛律光を暗殺させてしまいました。
しかし、漢人官僚はこの勢いのまま、次は皇帝の取巻きを排除しようとして失敗します。
後主を脅迫する勢いで迫ったことが、悪手となったようです。
後主は取巻きの元に逃げ、取巻きたちが勅命として、漢人官僚の領袖を追放してしまいました。

完全な暗君である後主と、スケールダウンした取巻きが残されました。

つまり、漢人官僚と軍人とが王朝を引き裂き、共倒れしてしまった。
結果、頽廃だけが残り、最後の命綱だった蘭陵王を毒殺した。
もはや北斉は内部から滅んでいたというわけです。

混迷状態から秩序を回復し、目覚ましく発展する一方で腐敗が進み、手がつけられない状態となり、綱紀粛正が厳しく行なわれ、そのために皆が窒息しそうになり、弛緩することでまた腐敗していく……。
こういう光景、何度も見た記憶があるのですが、皆様はどうですか?

教養があると、組織や国家の過酷な矛盾に直面したとき、不平不満ばかりで身動きが取れなくなるかも知れない。
しかし、まったく教養がなければ、強大すぎる国力や華美な環境に身を置いたとき、自制心が働かず、北斉の如くどこまでも自堕落に、滑稽に堕落してしまう。

やはり私たちは、牙を抜かれた家畜になるのでもなく、欲望のままに屠殺を繰り返す怪物になるのでもない、「自分の頭で考える知性=教養」を、いかにしてシステムの中に組み込み、運用の妙を考え続けなければならないのではないでしょうか。

北斉のお話はこれにてお仕舞いといたします。

次は……未定です。
散歩でもして、アイデアが湧くことを待ちます。