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0は無ではない 20

第十二章 潜在的0

一 0は無ではない
二 0は何かを受け入れる可能性を秘めている
三 0は、すでに何かを受け入れているかもしれない
四 欠如の記号ではなく、潜在の場としての0

第十二章 潜在的0


一 0は無ではない

ユーモノスは、枠外に触れた枠内の震えであった。
第十一章では、ユーモノスを、対象名としてではなく、違和を問いとして保持する運動として捉えた。ユーモノス的存在を前にしたとき、人間の枠は揺らぐ。人間、物、生者、死者、残余、存在。そのいずれの枠にも安定して収まらないものに触れたとき、人間の分類は止まり、倫理は越権を警戒し、存在理解は自らの限界に触れる。
では、この枠外に触れたとき、人間は何に触れているのか。
それは、ただの無なのか。
ここで、0を考えなければならない。
0は、しばしば無と重ねられる。何もないこと。数がないこと。存在しないこと。欠けていること。空白であること。人間は0をそのように理解しやすい。
しかし、本草稿でいう潜在的0は、無ではない。
0は、何もないという意味だけでは捉えられない。むしろ、何かがまだ現れていない状態、まだ数えられていない状態、まだ名づけられていない状態、まだ受け止める場を持たない状態として考えられなければならない。
無とは、すでに「ない」と言われたものである。
それは、人間の言葉の中で、否定として置かれている。
ない。存在しない。見えない。確認できない。数えられない。
そのように言われた瞬間、無はすでに一つの定義を受けている。
だが、潜在的0は、そのような否定の確定ではない。
潜在的0は、まだ「ある」とも「ない」とも確定されていない。あるものとして数えられていない。しかし、ないものとして閉じられてもいない。存在として顕現していない。だが、存在しないものとして消去されてもいない。
ここに、0と無の差がある。
無は、閉じる言葉である。
潜在的0は、閉じる前の場である。
ユーモノス的存在を前にしたとき、人間はすぐに無と言いたくなる。感覚がない。言語がない。他者がない。時間がない。空間がない。運動がない。意味がない。ならば、そこには何もないのではないか。そのように言いたくなる。
しかし、そこには鼓動がある。
この鼓動は、人間が通常の存在理解で受け止めることのできる「ある」ではない。だが、完全な無として処理することもできない。そこに、人間の枠が震える理由がある。
潜在的0とは、この震えの奥にある。
それは、無ではない。
だが、既に確定された存在でもない。
それは、受け止められる前の可能性である。

二 0は何かを受け入れる可能性を秘めている

0は、空白ではない。
少なくとも、潜在的0においては、0はただ空いているだけの場所ではない。それは、何かを受け入れる可能性を秘めた場である。
ここでいう「受け入れる」とは、意識的に受け取るという意味ではない。意思によって選び取ることでもない。何かを理解し、認め、承認することでもない。
より原初的に、何かがそこに置かれうること。
何かがそこに現れうること。
何かがそこから数えられうること。
何かが「ある」と言われる以前に、あるものとして立ち上がる余地を持つこと。
この余地が、潜在的0である。
0を単なる欠如として見るとき、人間はそこに何も見ない。0だから何もない。0だから存在しない。0だから空である。そのように考える。
しかし、0は、何かが入る前の器としても考えられる。
器が空であるとき、それは何も持たない。しかし、ただの無ではない。そこには、何かを受け入れうる形がある。空であることは、受け入れの可能性を消すのではない。むしろ、空であるからこそ、何かが入る可能性が開かれている。
もちろん、潜在的0は物理的な器ではない。空の箱や空の部屋のように、すでに場所として与えられているものでもない。
だが、それは、何かを受け入れる可能性という点で、単なる無とは異なる。
0は、まだ何も数えられていない。
しかし、数えられるものが現れる可能性を閉じてはいない。
0は、まだ何も名づけられていない。
しかし、名づけられるものが現れる可能性を閉じてはいない。
0は、まだ存在として置かれていない。
しかし、存在を受け止める場が開かれる可能性を秘めている。
ここで、潜在的0は、存在の前段階として現れる。
ただし、それは存在の材料ではない。存在になる前の何かでもない。そう言ってしまうと、0をすでに存在の側へ引き寄せすぎる。
潜在的0とは、存在が開かれうる可能性の側にある。
まだ存在ではない。
だが、存在の開かれが起こりうる。
まだ「ある」とは言えない。
だが、「ある」を受け止める場が発生しうる。
このように考えるとき、0は欠如ではなくなる。
0は、まだ顕現していない受容可能性である。

三 0は、すでに何かを受け入れているかもしれない

潜在的0は、何かを受け入れる可能性を秘めている。
しかし、さらに踏み込めば、0はすでに何かを受け入れているかもしれない。
この「かもしれない」が重要である。
人間の側からは、それが見えない。数えられない。名づけられない。確認できない。したがって、人間はそれを0と呼ぶ。しかし、人間が数えられないことと、そこに何もないことは同じではない。
人間が受け止める場を持たないものは、人間にとって0に見える。
だが、それは本当に何もないのか。
それとも、人間の枠ではまだ受け止められていない何かが、すでにそこにあるのか。
この問いが、潜在的0を深くする。
たとえば、枠の内側では、あるものが数えられる。りんごが一個ある。家が一軒ある。山が一座ある。そのように数えられるものは、すでに人間の枠の中で、何かとして受け止められている。
しかし、数えられる前のものはどうか。
まだりんごとして見られていないもの。
まだ家として認められていないもの。
まだ山として数えられていないもの。
まだ存在として置かれていないもの。
それらは、本当に無なのか。
人間は、数えられないものを0に置きやすい。だが、数えられないことは、何もないことの証明ではない。むしろ、そこにはまだ数える場が開かれていないのかもしれない。
潜在的0は、この可能性を含む。
0は空白に見える。
しかし、その空白は、人間の側から見た空白である。
そこには、すでに何かがあるかもしれない。
ただし、それはまだ人間の枠の中で「ある」として受け止められていない。
この意味で、潜在的0は、無の確定ではなく、判断の保留である。
「何もない」と言い切らないこと。
「ある」とも急いで言い切らないこと。
まだ受け止められていないものがあるかもしれないという余地を保つこと。
ここに、潜在的0の倫理的な意味もある。
なぜなら、人間はしばしば、受け止められないものを存在しないものとして扱うからである。見えないからない。語らないからない。応答しないからない。数えられないからない。そうして、まだ受け止める場を持たないものを、無へ落としてしまう。
潜在的0は、その落下を止める。
そこには何もない、と言い切る前に、まだ受け止められていない何かがあるかもしれない、と保留する。
この保留が、ユーモノス的存在を無へ落とさないために必要である。

四 欠如の記号ではなく、潜在の場としての0

潜在的0は、欠如の記号ではない。
通常、0は欠如を示す。りんごが0個である。家が0軒である。山が0座である。そのように言うとき、0は「ない」ことを示している。数えるべき対象がない。対象が存在しない。対象が確認されない。
この0は、数え終わった後の0である。
数えようとした。
対象がなかった。
だから0である。
この0は、確定された0である。人間の枠の中で数えた結果、ないとされた0である。
しかし、潜在的0はこれとは異なる。
潜在的0は、数え終わった後の0ではない。
数えられる前の0である。
まだ何を数えるべきかが定まっていない。
まだ何が対象として現れるのかが定まっていない。
まだ「ある」と言うための場が開かれていない。
まだ存在として受け止める形式が用意されていない。
この状態における0は、欠如ではない。
それは、潜在の場である。
潜在とは、まだ現れていないが、現れうることを含む状態である。存在として顕現していない。だが、存在しないと確定されたわけではない。名づけられていない。だが、名づけられる余地がないわけではない。数えられていない。だが、数えられないと確定されたわけではない。
潜在的0とは、この潜在の場である。
ここで、0は否定ではない。
0は、まだ顕現していない受容可能性である。
ユーモノス的存在を前にするとき、人間はこの潜在的0に触れる。
それは、存在として数えられない。
人間としても、物としても、死者としても、生者としても、残余としても数えられない。
しかし、だからといって無として確定することはできない。
そこには、何かを受け止める場がまだ不足している。
この不足を、対象の欠如として読んではならない。
むしろ、人間側の受け止める場の不足として読まなければならない。
潜在的0は、その不足を知らせる。
それは、何もないことを告げる記号ではない。
まだ受け止められていないものがあるかもしれないという、潜在の場を示す記号である。

次回
数えられる前の受容場

第十二章 潜在的0

五 「ある」を受け止める場
六 りんごが一個ある、家が一軒ある、山が一座ある
七 数えられる前の受容場
八 潜在的0は、無ではなく、未顕現の受容可能性である

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