わざわざクネイトラに行かなくても
2008年、シリア
シリアの首都ダマスカスにやってきた。都会だけど人も町もどこかごちゃごちゃしていて、僕はなぜかタイを思い出した。
仏教とイスラム教。宗教も文化も全然違うはずなんだけど、街を包む喧騒や人々の熱になんとなく同じにおいを感じた。
僕らはスーク(市場)でアイスクリームを食べたり、買い物をしたりした。アレッポでウェディングドレスを買った友人のナガタさんは、それに合うアクセサリーをいくつか見つけ、結局、花嫁セットを全部シリアで揃えてしまった。
大きなモスクでは熱心に祈る人々を眺めながら、ぼーっと過ごした。





1000年の歴史があるというハンマーム(大衆浴場)にも足を運んだ。伝統の垢すりをオプションで頼んだのだが、垢すり用タオルでペッペッとなぞるように数秒こすられただけで終了。お金をとってあの仕事はないわあ、と思いつつも、そのあまりのいい加減さに、なんだか少し笑えた。

ダマスカスでは、以前アレッポやパルミラで同じ宿だったカズさんとジンさんに再会した。2人はダマスカスから1時間半ほどのクネイトラに行くという。
「一緒に行こうよ」と僕らも誘われた。
クネイトラのあるゴラン高原は、シリア、ヨルダン、レバノン、イスラエルの4カ国に囲まれていて、肥沃な土壌と豊かな水ゆえに、ずっとイスラエルとアラブ諸国の戦場になってきた土地らしい。
ネットで調べたところ、ゴラン高原は1967年の第三次中東戦争でイスラエル軍に占領された。その後、1973年の第四次中東戦争を経て、1974年にクネイトラを含む一部の地域がシリアに返還されることになった。しかしイスラエル軍は撤退の際、町を徹底的に破壊して去ったといわれている。シリア政府は、イスラエルによる破壊の爪痕を世界に知らしめるため、あえて街を再建せず、当時のまま「廃墟の博物館」として保存しているのだという。
戦争後の街なんて、見たことがない。僕らはカズさんたちと一緒に行くことにした。同じ宿にいた韓国人の若者たちも合流し、結局8人という大所帯での出発になった。
まずダマスカスの内務省で1日限りのパーミットを取得し、乗り合いワゴンでクネイトラへ向かった。
ドライバーとの値段交渉は25歳のリー君が引き受けてくれた。体をめいっぱい使い、大声を出し、感情を爆発させ、時に韓国の土産物まで差し出して運賃を値切っていて、韓国人のパワーを感じたわ。
クネイトラの手前でパスポートチェックがあり、太ったおっさんがワゴンに乗り込んできた。内務省の係員で、ガイド役らしい。
ワゴンが走り出すなり「ほら、もうここがクネイトラだ」と言った。外を見ると、青い空の下、だだっ広い土地にコンクリートの塊が無数に転がっている。建物が崩れたものらしかった。

ある場所でワゴンが止まり、少し歩くことができた。崩れかけた家はあったけど、爆撃の跡というほどでもなく、想像力の乏しい僕にはいまひとつピンとこない風景だった。
そんな僕の心の声が聞こえたのか、次にガイドが連れて行った病院では、一目見ただけでため息が出た。壁という壁に、おびただしい数の銃弾の跡が残り、まるで蜂の巣のようだった。その数が多すぎて、なんだか気持ち悪い。
中に入っても同じで、至るところに銃弾が撃ち込まれている。一体どれだけ撃てば気が済むんだよっ感じ。いったいここで何があったんだ。




肝心のガイドはまったく解説する気がなく、ただ黙って立っている。案内人というより、僕らを監視しに来ているようだった。
リー君が「この町ではどのくらいの人が亡くなったんですか?」と聞くと、彼はボソッと「1万2000人だ」とだけ答えた。
見学はそれで終わり。事前に「教会やモスクの跡が見応えある」と聞いていたのに、そこには連れて行ってもらえなかった。ガイドが面倒くさくなったんだろう、と皆で苦笑した。その代わり廃墟の町のレストランに案内されたが、さすがにここで飯を食べる人は誰もいなかった。
正直に言えば、病院にはびびったけれど、よくわからないまま終わってしまったというのが本音だ。元の町の写真でもあれば、もっと感じるものがあったかもしれない。不謹慎だけれど、自分のなかでもっとボコボコになった凄惨な町を想像してしまっていたから。
暑い中、サウナ状態のワゴンに揺られてダマスカスに戻った頃には、僕はもうフラフラだった。
なのに韓国人の子たちは、そこからさらに1時間ほどの遺跡を観に行っていた。韓国人のパワーをまた感じたわ。
追記
最近、数年前にシリアを訪れたあるクリエイターさんの記事を読んだ。写真がたくさん掲載されていて、僕たちが確かに歩き、アイスクリームを食べ、ドレスや石鹸を探したあの美しいダマスカスやアレッポの街が、見る影もなく崩れ落ちていた。
もう、わざわざクネイトラに行かなくても、と思った。

