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六ペンスも気になるし、月も眺めたい。

仕事の引退が近づくにつれて、公職の肩書も、一つずつ卒業していく。

長いあいだ、自分を説明してくれていた肩書が外れ、やがて「元○○」という言葉に変わっていく。

もちろん、それは寂しいことではない。

役割は、いつか誰かに引き継がれるものだからだ。

むしろ、いつまでも自分がその椅子に座り続けているほうがおかしい。

それでも、ときどき考える。

肩書を卒業したあと、自分は何を生きるのだろう。

そんなことを考えながら、久しぶりにサマセット・モームの『月と六ペンス』を手に取った。

原書の『月と六ペンス』は装丁そのものも魅力的。
南洋らしい風景のなかで絵を描く人物が描かれている。


月だけを見て生きた男

主人公チャールズ・ストリックランドは、ロンドンで証券会社に勤める、ごく普通の中年男である。

妻も子どももいる。

仕事があり、家庭があり、社会的信用もある。

ところが彼は、ある日突然、そのすべてを捨ててしまう。

家族も仕事も地位も顧みず、画家になるためだけにパリへ渡る。

周囲の人々には、まったく理解できない。

無責任だ。

冷酷だ。

狂っている。

そう思われても仕方のない生き方である。

しかし、ストリックランド自身は、そんな評価にはほとんど関心を示さない。

他人にどう思われようと構わない。

ただ、絵を描く。

絵を描かずにはいられない。

その衝動だけに突き動かされて生きていく。

画家ポール・ゴーギャンがモデルになったとも言われる人物である。

ストリックランドのモデルになったとされる画家、ゴーギャン。

私は、この小説を若い頃にも読んだ。そのときは、

「世の中には、こんな生き方もあるのか」

と、少し憧れも感じた。仕事も家庭も捨てて、自分がやりたいことだけをやる。そんなところに惹かれた。

今読み返してみると、別のところが気になった。

それは、ストリックランドが捨てた後にも彼の中に残っていたものである。こんな問いが浮かんだ。

肩書を失ったあと、人は何を支えに生きるのだろう。



「元○○」として生きる

仕事をしているあいだは、肩書が自分を説明してくれる。

会社名。

役職。

所属している団体。

そこでの役割。

初対面の人にも、

「○○をしています」

と言えば、とりあえず自分が何者なのかを説明できる。

ところが、それらは永遠には続かない。

部長だった人は、元部長になる。

社長だった人は、元社長になる。

会長だった人は、元会長になる。

何かの団体で役職を務めていた人も、やがて「元○○」になる。

「元」という一文字がついた瞬間、それまで現在形だった自分の一部が、過去形になる。

もちろん、それでいい。

役割とは、本来そういうものなのだろう。

問題は、そのあとである。

肩書がなくなったあとも、

「昔はこうだった」

「私が現役の頃は」

「以前、○○をしていたときには」

と、過去の肩書だけで自分を説明し続けることもできる。

けれど、私はあまりそうなりたくない。



私が恐れているのは、肩書を失うことではない

もちろん、私にはストリックランドのような「内なる衝動」はない。

会社を捨てて南の島へ行こうとも思わない。

すべてを犠牲にして、何か一つだけを追い求めたいとも思わない。

だからといって、「元○○」という肩書だけを抱えて生きていきたいわけでもない。

考えてみれば、私が恐れているのは、

肩書を失うことではない。

もっと別のことだ。

新しいものに心を動かされなくなることだ。

昔話ばかりする。

頼まれてもいない人生訓を語る。

何を見ても、

「昔のほうがよかった」

と言う。

新しい音楽を聴かない。

若い人が薦める本を読まない。

知らない映画を観ようとしない。

行ったことのない街へ行かない。

そして、自分の知っている世界だけが世界のすべてであるかのように語り始める。

そんな、もったいぶった一介の雄弁家にはなりたくない。

かといって、何を言われても、

「まあまあ」

と笑って受け流すだけの、一好々爺にもなりたくない。

では、どう生きるのか。



昨日とは少しだけ違う自分になる

私にできることは、たぶん、それほど大げさなことではない。

映画館へ行く。

若い人に薦められた本を読む。

知らない街を歩く。

知らない音楽を聴いてみる。

そして、ときには四十年前に読んだ本を、今の自分でもう一度読み返してみる。

すると、不思議なことが起こる。

同じ本なのに、違う本になっている。

若い頃には気にも留めなかった一行で立ち止まる。

逆に、若い頃に感動した場面を読んで、

「自分は、なぜここにあんなに惹かれたのだろう」

と思うこともある。

本が変わったのではない。

読んでいる自分が変わったのである。

四十年前の本を読み返すことは、昔へ戻ることではない。

過去と、今の自分でもう一度出合い直すことなのだと思う。

昔に読んだ本は、今読むと別の本に「反転」する。
変わったのは、本ではなく読む自分のほうなのだ。

街歩きも同じである。

映画も同じである。

音楽も同じである。

まだ知らないものと出合う。

知っていると思っていたものと出合い直す。

そのたびに、ほんの少しだけ、

昨日とは違う自分になる。

それくらいのことで十分なのかもしれない。



六ペンスも気になるし、月も眺めたい

『月と六ペンス』という題名には、「月」と「六ペンス」という二つのものが置かれている。

遠くにある月。

そして、足元にある六ペンス。

ストリックランドは、月だけを見た。

足元に落ちている六ペンスなど、どうでもよかった。

家庭も、仕事も、社会的信用も、人からどう見られるかということさえも捨てて、自分の中にある何かだけを追いかけた。

六ペンスを捨て月の向こうへ行ってしまったストリックランド

私は、そこまでの人間ではない。

六ペンスも気になるし、月も眺めたい。

現実の生活は大切である。

仕事も大切だ。

家族も大切だ。

人とのつながりも大切だ。

足元にある六ペンスを拾いながら生きていく。

足元の六ペンスを拾いながら、ときどき月を見上げる。

ときどき立ち止まって、空も見上げたい。

「あれは何だろう」と思いたい。

知らないものに近づいてみたい。

面白そうなものを面白がりたい。

分からないものを、すぐに「くだらない」と切り捨てたくない。

六ペンスを拾うことと、月を見ること。

少し、中途半端な生き方かもしれないけれど、その両方があるくらいが私にはちょうどいい。



「元○○」ではなく、「今、何を面白がっている人なのか」

肩書は、いつか卒業する。

仕事も、役職も、いつか次の人へ渡していく。

そのとき、

「私は昔、○○だった」

という言葉だけが残るのでは、少し寂しい。

それよりも、

「最近、こんな本を読んでいる」

「この映画が面白かった」

「この前、知らない街を歩いてみた」

「若い人に教えてもらった音楽が、意外によかった」

そんな話をしている人でいたい。

「元○○」ではなく、
「今、何を面白がっている人なのか」で、自分を語れる人でいたい。

考えてみれば、好奇心には定年がない。

誰かに引き継ぐ必要もない。

役職を退いたからといって返上する必要もない。

六十歳でも、七十歳でも、八十歳でも、

「これは何だろう」

と思うことはできる。

そして、その瞬間だけは、人は少しだけ新しくなる。



好奇心だけは卒業したくない

ストリックランドのように、すべてを捨てて月だけを追いかけることは、私にはできない。

たぶん、したいとも思わない。私はこれからも六ペンスを気にしながら生きていくのだろう。

それでいい。

好奇心に定年はない。

ただ、ときどき空を見上げたい。

映画や本や音楽や街歩きを通して、まだ見ぬ世界と出合いたい。

四十年前に読んだ本を読み返して、忘れかけていた自分とも出合い直したい。

肩書は卒業してもいい。

「元○○」になってもいい。

けれど、

好奇心だけは卒業したくない。

昨日まで知らなかったものを、今日ひとつ知る。

知っていたはずのものを、今日もう一度見直してみる。

そうやって、昨日とは少しだけ違う自分で明日を迎える。

それが、引退を控えた私の、

ささやかな、そして少しだけ意地のある、

最後の悪あがきなのである。

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