映画「殺し屋のプロット」と「KNOX GOES AWAY」では、見ている風景が違うじゃないかい。
心斎橋キノシネマで「殺し屋のプロット」を観てきた。
予告編から気になっていたヤツだ。
入場してビックリ。
ガラガラ。
ど~して?
オモシロそうなのに。
んで、観た後も思った。
何故観ない?
オモシロかったで。
以下ネタバレあり。
映画のために状況設定をしたようなものだ。
だが素晴らしい。
マイケル・キートンが制作、監督、主演と手がけるのだから、映画好きを楽しませる算段に抜かりはない。

後半の後半に入ってからの伏線回収はお見事で、タイトルにしたいのは分かる。
だが、ここで一言ボクは言いたい。
よくある、
日本語タイトル問題。
「殺し屋のプロット」と原題
「KNOX GOES AWAY」では、製作者の意図がズレているのではないか、と。
「殺し屋のプロット」は確かに最近の中ではよくできたタイトルだとボクも思う。
し、かなり内容にも沿って凝ったいいものだ。
ただ、今回のこの映画に限って言えば、タイトルの付け方は勇み足的な勢いを感じてしまう。
殺し屋という職業を選んでしまった人生であっても最期は家族との精神的な和解があり、和解があっても生きてさえ死んでいるのと同じような状態で実際に面会しても最早最後の最後では通じ合えない。
そんな人生の最後の虚しさ。
仕事の相棒さえ自分のミスで殺してしまい、
週一で通っていた彼女さえ裏切られ、
身体は健康で生きていても、
生きている実感さえ最後は無くなってしまう。
確かに人生の最後に完璧な完全犯罪を成し遂げたが、
自分の病=自分の人生と引き換えに息子、及びその家族たちを助けたのは、完全犯罪を成し遂げるのが目的ではなかったはずだ。
まあ、いい。
この映画には他にも見どころはある。
アルパチーノ。
渋い…。

軍での上下関係の話やタンゴのダンスを挿入するのも『セント・オブ・ウーマン/夢の香り(1992)』へのオマージュか。
殺し屋稼業でも信頼できる関係性があったのね。
奥さんからも愛されていたようだし。
結局、悪い人ではなかったようだ。
殺し屋だけど。
そんな漫画みたいな設定映画もシナリオがしっかりしていれば観ていて楽しい。
