九九を覚えようとしない小学生の話
夏休みで実家に帰省して、小学生の子を預かって、毎日一緒にゲームしたり動物園に行ったりしてたんですけど、その中でふとタイトルの話を聞いたんですよ。
「足し算をその回数だけやればよくて覚える必要なくないですか?はい論破」みたいな感じで九九を覚えようとしない小学生がいると。
ってことをTwitterに書いたら、凄い一杯コメントが来た。どうやら九九の話はTwitterで流行りやすいらしい。でっかい小学校?
とはいえ、その小学生に対して反論するのはなかなか難しい。言っていることは概ね正しいと思うんです。九九は単純に演算を早くするためのものであって、速度では我々は既に機械に勝つことはできない。
もちろん、速度は莫大なメリットであり、Twitterでコメントをくれた人にも、それについて言及した人が多かったわけですが、「時間内に試験を解けないぞ!」みたいな反論は、正直反論になっていないと思うんですよ。だって、それって試験の形式がたまたま制限時間ありだったわけで、もし充分に長い時間があれば、どのような導出方法を使ってもよいわけですよね。実用性云々を言うなら、現実には計算機があるので、暗算能力を競う形式のテストに意味があるのか?という話題があるのはその通り(実際アメリカは電卓持ち込み可の試験なんかがあるそうです)
ちなみに「小学生で掛け算が加算の連続であることに気がつけるのは逆にすごい」みたいなコメントを沢山いただくんですが、これには反論したい。そもそも小学校では「掛け算は加算の連続」って教え方をするので、別に自力で気がついたわけではないです。
もっとも、我々は九九をとっくにマスターしているわけですから、その有効性については日々実感しています。もう九九使わない日はないってレベルですよね。ゲームやってても「1ターン当たり、5ゴールド入ってくるから、あと4ターンで……」みたいな計算もぱっと暗算でやってしまいますし、ぶっちゃけ、いちいち足し算を繰り返したり、電卓を持ってきたりなんてやってられんわけですよ。単純にできるとできないでは思考のブーストが違う。
まあ、そんな感じで、「九九は覚えておくとマジで便利だぞ!」という反論はできると思うんですけど、それはそうとして、その話を聞いた時、真っ先に思ったのが、「小学生にして、そいつの人生終わったな」ということでした。反論するとかしないとかそういうレベルではなく、もはや救いようがないなと。
何が致命的かと言うと、九九ができないことなんじゃなく、やろうとしないこと。その歳でやらない理由を探すことを覚えてしまったということなんですよね。学ぶことを放棄してしまった。こうなるとどうあがいても予後が悪い。
ロバを水場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない
ってことわざがあるじゃないですか。学ぶ気がないものに学ばせることはできないという意味なんですけど、実際大人になってみると、日々実感します。
いるんですよ、大人になってもそういう人。頭は悪くない。でも、なまじ中途半端に良かったおかげで、プライドだけが肥大化してしまった。俺は凄いから、勉強しなくてもできるんだ。という思い込みで、正攻法を無視して、「僕の考えた最強のメソッド」をやりたがる。
こういう人に物事を教えることはできません。なぜなら学ぶ気がないからです。教えても教えてもデモデモダッテでセオリーを崩し、失敗する。もちろん、能力はお察しレベルで、それはちゃんと基礎を学んでいないからなのですが、本人の実力が伴わないからそれ自体を認識できない。
まあ、頭は悪くないので、時々凄い発見を自力ですることもあるでしょう。例えば、ある日、ふと自力で筆算を発見するかもしれない。40か50と経験を重ねるうちに、365✕8って、300✕8+60✕8+5✕8じゃん???え、じゃあ、桁数に合わせてずらして足し合わせれば答えになるんじゃね???って気がついて、すげー!俺天才!!ってテンションが上がったりするかもしれません。
で、大喜びで周囲に吹聴するわけです。俺の大発見を見ろ!って。それで、周囲の人は、いたたまれない気持ちになる。ああ、確かに君は凄いよ。自力でたどり着いたんだ。でも、僕たちはそれを小学生のときに習うんだよ……。
正しく学んでいれば、十数年ショートカットできたのに、自力で見つけるために、人生を費やしてしまう。再発明した車輪を見せびらかしても、周囲の哀れみを誘うだけ。せっかく悪くない頭を持っていたのに、もう初老と言ってよいのに小学校レベルの発見を見せびらかす。謙虚に学ぶ心があれば、今頃もっと先に進んでいたのに……。
学びに必要なのは謙虚さだと思うんです。私の過去に習った先生は「私は頭が良くないから勉強するしか無いんだ」と常に言っていました。私から見れば全然そんなことはなかったです。数カ国語を使いこなし、論文を書き、プログラミングができるんですから。でも、先生は「いやいや、私はまだまだですよ」と言いながら、知識を蓄えていた。素直に、すごい人だと思いました。
スポーツにしろ、勉強にしろ、格闘技にしろ、美術にしろ、音楽にしろ、最初は皆下手くそなんですよ。下手くそだから練習するし、その結果それなりに形になっていくわけで。でも、下手くそな自分と向き合うのって、結構しんどいんですよね。
だから人間はそこから逃げたがる。色々と理由をつけて。
こんなんやったって無駄じゃん!って言ってみたり。コスパがどうのとかタイパがどうのとか、AIの発展で人間に求められる力が変わるとか言ってみたり。
古くからの慣習に固執する気はないですし、社会が変われば、求められる能力が変わっていくというのにも同意なんですけど、それはそうと、銃があれば、兵士が体を鍛える必要はないみたいなことを言っていないか?と思うこともあったりします。当たり前ですが、銃を持って格闘技を嗜んだマッチョが一番強いですよね。
ぶっちゃけた話、バカに付ける薬がないのと同じように、こういう状態になった人間を救う方法はありません。本人が自分の意思で変わるしか無いです。
コメントなんかで「終っているは言いすぎ」みたいな反応も貰うんですけど、いまいちこれの恐ろしさが共有できていないのかなと思います。私はやらない理由探しを続けたまま30代40代になってしまった人間に職場やSNSでエンカウントするんですけど、本当に「終わった」という感想しかでできません。周囲の働きかけは全く意味がありません。自分で気がついて変わるしかありませんが、その歳になっても気が付けないからそのままなわけで……。
だから、もし私がその場にいたら、「ハイハイ論破論破」って言って、一生関わらないのを選ぶんですが、これが自分の身内になると話は別です。なんとかして、覚えさせようとすると思うんですけど……ただ、これも難しい。何しろ前にも書いた通り、この状態になるとほぼ詰みなんです。何しろ自分がバカってことすら分からないので、高確率で一生そのまま。
まあ、「いやいや、九九覚えておくとめっちゃ便利やで」ってことを地道にアピールしていくしか無いんでしょうね。それか、「俺は……馬鹿だ!!」と自覚するタイミングが訪れるのを祈るしかない。
人生のコスパを目指すなら
そもそも人の一生はコスパのためにあるものではないですけど、もし効率の良さというものを重視するなら、やっぱり巨人の肩に乗ることだと思うんですよ。
我々の人生は一度きりですが、私たちは言語を使うことによって他人の人生を体験することができます。何千年もの人の営みから、「便利な知識TIPS」が世代世代で受け継がれているわけで、学校の教科書というのはその塊なわけですよね。
私たちが筆算にたどり着くまでには、ゼロの発見とそれに伴う位取り計算法が必要でしたけれども、今では算数の範囲でそれをやってしまうわけです。
中学では一次関数を習いますけれども、あそこで使う直交座標系という概念はデカルトが考案したものです。稀代の天才が考え出した概念を、14かそこらの中学生が学べるわけです。
他にも、ユークリッドの原論やら、アルキメデスの三平方の定理やら、とにかく古代から受け継がれてきた知識がフルコースで詰まっているわけです。そう考えると、正攻法で勉強するってのが実は一番の近道だと思うんですよね。学問に王道なしとは言いますが、むしろ王道を集めたのが学問というか。
繰り返しになりますが、学校教育を盲信せよ!と言っているわけではありません。「学校教育はどうあるべきか」という議論は今でも続いてますし、指導要領だって時代時代で変化していますから。ただ、素人の私らが考える「役立つ知識」より、専門家の書いた本の内容の方がよっぽど打率高いと、私は思うんですよね。
美術にしろ、語学にしろ、音楽にしろ、格闘技にしろ、今までいろんな講師の人に話を聞いてきましたけど、「やれ。といったことを実際にやってくる人間は驚くほど少ない」と言っていました。
例えば、英単語帳を毎日1ページずつ勉強する。ってことすらできない人たちが沢山いると。師匠が「毎日やれ」と言ったら毎日やればいいだけの話なんですよね。まずは、そこをクリアしてみないと、その教えが正しいのかどうかなんて分からないわけですから。先生は講師としての経験からそう言っているわけで、だったらまずはそれを信じるのが一番の近道でしょうと。
我々は同じ間違いをしていないか?
ということで、長々とバカにつける薬はないというだけの話をこねくり回してきたわけですけれども。ここまで来たところで、私たちもその小学生と同じ過ちをしていないか?と急に不安になった。
例えば、私らは九九をマスターしているわけですから、九九めっちゃ使うだろ、むしろ使わないでどうやって日常生活送ってんだよ。って意識を持ってますけど、九九ができない勢はそもそもそれを認識できないわけですよね。
例えば、世界には20の段まで九九を覚える国があるそうです。そういった国の人から見れば、私たちの九九も「え?12の段ないの?ダース単位の計算のときに不便じゃない?」みたいに思われているかもしれません。我々にとって、「1ターンで16ゴールド儲かるのを16ターン続ければ……」みたいな計算はパッとでないし、でないから故にそういう計算は避けるじゃないですか。まあ、10ターンで160ゴールド+5ターン、その半分で80ゴールド以上は確実に溜まるだろ。的な概算でなんとかするか、そもそも桁数が多ければ掛け算で求めようとも思わない。でも、取り立てて不便だとは感じませんよね。最初から計算するという選択肢がないわけですから。だからきっと九九ができない勢も同じような感じなんじゃないかと思うんですよ。
そもそも選択肢に暗算で求めるというものがないわけです。だから、不便に感じない。
で、ちょっと思ったんですが、もしかして20✕20の九九をマスターしたらさらに便利になって、うわぁもうこれがないと生きていけないよ。習得する前の自分はどうやって生きていたんだ???ってなる可能性は無いんでしょうか。
日常生活でエンカウントする数の組み合わせの中で、自分の暗記から引っ張ってこれる組み合わせに出会う確率が、単純計算で四倍に増えるわけですよね。だったら普通に有益なんじゃ無いの?って思うんです。
まあ、じゃあ覚えてみるか!となると、心のなかでブレーキが掛かる。だって、一桁同士の掛け算が分かれば複数桁は導出できるし……でも、それってその小学生と同じ轍を踏んでない?「計算して求めればいいじゃん」ってことを言っているわけで、実際にやりもしないうちから、デモデモダッテでやらない理由探しをしているだけなんじゃないか?ってふと怖くなりました。
もし、師匠が「20の段までやれ」って言ってきた時に、それを素直に受け入れて実践できるかどうか。それができないなら、私も学ぶことができなくなっているってことですし、気が付かないうちに終わった人になってしまっているんじゃないのかって思うんです。
ということで、このテキストを書く少し前に、1~20と11~20を紙に書いて、200マス計算をやってみることにしました。まずは足し算をやってみたんですが、8分ほどかかってしまいました。昔は100マス計算、一つ一秒以内で1分台で終わったんだけどなぁ……。
しばらくの間、ちょっとカンを取り戻すために続けて見ようと思います。四倍便利に、なるのかなぁ?
