ペロルの現象学。寿司ペロは坂口章を超えられるか。
不謹慎系YouTuberの荒唐無稽なるペロ行為は、一見、道徳の荒野を蹂躙する蛮行に映る。だが、笠井潔の『テロルの現象学』が連合赤軍の内ゲバを観念の自己崩壊として解剖した如く、ここにこそ、現代の消費社会を食い破る現象学的実践が潜む。食べ物を無駄にペロリと貪り、吐き捨てるそのジェスチャーは、戦後民主主義の飽食を嘲笑うテロルの変奏曲だ。戦時下の飢餓を悼む老世代の涙を誘い、仏教の無常観を逆撫でするそれは、単なる不謹慎ではなく、資本の鎖に絡め取られた日常への爆弾投下。過剰生産の残渣を、わざとらしく無価値化することで、システムの空虚を露呈させるのだ。
このペロルの芸術を体現する坂口章と古田更一の比較は、実に示唆的である。坂口章は、故人の死を祝杯で祝うような、露骨な死の祝祭を繰り広げる。木村花の訃報に乾杯を挙げ、岡江久美子の遺骨を食らえと叫ぶその動画は、哀悼の儀式を逆転させ、メディアの同情ビジネスをぶち壊す。対して古田更一は、不謹慎の「なりかた」を自ら指南するメタ的なトリックスター。炎上商法の内幕を暴きつつ、読者を不愉快の渦に叩き込む彼の著作は、坂口の直線的破壊に対し、自己言及的なループを描く。坂口がテロルの「衝動」なら、古田は「批評」――両者はペロルの二重奏を成し、資本主義の娯楽消費を食い散らかす。坂口の原始的貪欲が即時性を、古田の知的な毒が持続性を与え、互いに補完し合うのだ。この比較は、ペロルが単なる個人の悪戯ではなく、集団的カタルシスの装置であることを証明する。
翻って、左翼系インフルエンサーの欺瞞を暴く道具として、ペロルは反知性的な新アートとして輝く。成田祐輔の「老人集団自決」発言は、データとアルゴリズムの仮面でポピュリズムを装い、民主主義の墓場を掘る。だが、その過激さは本物の変革か? いや、資本の効率論に媚びる偽のテロルだ。外山恒一のファシスト演説は、政府転覆を叫びつつ、ストリートライブのエンタメに堕す――革命の衣を纏った自己宣伝、欺瞞の極み。ミズサーのような論客は、左翼の正義を振りかざすが、結局はSNSのアルゴリズムに踊らされる操り人形。アキノリ将軍未満のネオ幕府幻想に至っては、令和維新を音楽マウントで語る滑稽さ――極左の衣でキャンセルカルチャーを批判するが、所詮は曾祖父の政治家血統を隠れ蓑にしたパフォーマンス。こいつらの知性は、すべて「改良主義」の罠。バクーニンのアナキズムを借り物で語り、空想社会主義の残骸をポエムに仕立てるが、真の破壊を避け、資本の庭で花を摘むばかり。
ペロルは、そんな欺瞞を反知性的に食い破る。知性の名の下に左翼を気取り、システムを温存する連中に対し、不謹慎YouTuberの荒々しいペロは、無知の力で観念を崩す。寿司をペロリと無駄にし、視聴者の嫌悪を喚起するそれは、テロルの現象学の延長――観念の自壊を、食卓の上で再演するアートだ。坂口と古田の比較が示すように、このアートは多声的で、破壊の多様性を生む。左翼インフルエンサーの欺瞞を暴くことで、ペロルは真の革命の萌芽を撒く。知性など捨て、ただ貪り、吐き捨てるのみ。それが、現代の現象学的抵抗なのだ。
