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人は自分のことばで生きて、自分のことばで世界をつくる。ただ、ことばにはいつも限界があり、天上は抜けている

鍼灸の専門学校に通っていると、老人の話題が授業で多い。鍼灸やあんま指圧マッサージの需要は高齢化した方の不定愁訴への施術がいちばん多いらしいのだ。よって、老化とはなにで、どういう体の変化で人間は老いて死ぬかを、かなりシビアに繰り返し学ぶ。

西洋医学的老化観は、どうしても「減点方式」になる。失われたもの、下がったもの、できなくなったもの。そのリストを積み上げる学問だから。

「あ、あれは私のことだ!」とお尻がむずむずしてくる。教えている先生も私の子どもか孫の世代なので、容赦ない感じで老化についての授業が続く。生徒たちに至っては青春まっただ中。老化なんて想像もできないので発言に容赦なく、高齢者の私のメンタルにけっこうグサグサ刺さる。ひー?だ。

東洋医学的なアプローチはちょっと違う。東洋医学が面白いのは、まずは「どうせ生まれた時から人は死に向っています」という陰陽論に立つ。老いを「減少」ではなく「位相の移動」として見ていくんだよね。

赤ちゃんは陽気の塊として産まれる。そこから陽がどんどん減っていく。そして陰極まる。ただ、ここからが面白いのだけれど、東洋思想は陽の中に陰を置き、陰の中に陽を置く。つまりあらゆるレイヤーに陰陽が存在し、その場その場で陰陽は入れ替わる。長い目で観れば陰に向っていても、ここでは陽だ……みたいに……アプローチや視座によって陰陽が変わるのだった。

このフラクタルでカオスな感じが東洋医学の面白さで、治療の時は当然、年齢を配慮するけれどもそれと同時に「この人のこの症状はどこからどこへ向っているのか?」を重層的に考える。立体的……空間的に環境要因や先天的要因を考慮しながら陰陽の動きを見ていくのが東洋医学の醍醐味、サイコーにエキサイティング。

この生命観に魅せられて、勉強を始めて早6年になる。ほんとうは東洋医学的な生命観、人体感をもっと生徒に伝えてほしいなあと思うのだけれど、まあ、これでいいのかも。

今の鍼灸学校は学ぶことが多伎にわたり多すぎる。東洋思想なんていうややこしいものは独学で深めていくしかないのだが、それはそれでかえってありがたい。試験が西洋的なので、同じウエイトで教えられたらかえって混乱してしまうだろう。

学校に入学して2年が経った頃から、私は自分の年を隠さなくなった。入学当初は周りの若者にドン引きされる不安と、若く見せたい、かわいく見せたいという見栄というか、照れというか、いろんなものが入り交じって、年を隠していた。

一緒に若者たちと生活し、机を並べるうちに、だんだんそれが変わっていったのは、若い頃の自分を思い出し、若さの思い出に浸り、そしてついにあの苦しみや失敗も思い出し、自分と彼らの同じところと違うところを冷静に見るようになり、今の自分で良いと思えるようになっていった。

この一連のプロセスには葛藤もあった。若作りなので66才と言うとみんなぎょっとする。彼らのおばあちゃんの人が隣でテストを受けているわけだからね。もちろん、そんなことはすぐ忘れる。他人は自分が思うほど相手の年なんか気にしちゃおらん。生徒という同じ位相でうまくやった。

私の実家の家族は全員、早くに亡くなった。兄は43才で亡くなった。機能不全家族のサバイバーな自分が、東洋医学に興味をもったのは「若かった頃に家族の健康をもっと気づかってあげたかった」というかすかな後悔によるところが、わりと大きいかもしれない。

口うるさくメンタルを責めあげたり、酒をやめろと怒鳴るよりも、お灸のひとつも背中にすえてあげたほうがマシであったと、感じるからだ。
家が貧乏で、働いて働いて働いてきた。よく働いて、そしてよく遊んだ。……あの頃に戻りたいとは思えない。

この人生でできなかったことがしたい。人をいたわることを学びたい。自分の身勝手を通して、偉そうにしてきたので奉仕が苦手だ。今の家族の健康を気遣いたい。ささやかな自分の趣味も大事にしたい。地域の仕事を大切にしたい。忙しくて夫にまかせきりだった。

でもまあ、ばあさんなので、少なくとも若くはないのでなるべく口は出さず、若い人たちの考えにゆだねたい。若いというのは未熟で仕方がない自分もそうだった。最悪な若者だった。バカだった。だからまかせたい。

私はまだ若い人たちの話を聞くのが苦手だ。つい自分のことをしゃべってしまう。まかせるのも苦手だ。心配してしまう。でも彼らの社会になる。やってみなければ学べない。

問われた時にしっかり答えられる。それでいいのだ。問いを引きだすために待てる人間になりたい。その修業中だ。動物を大切にしたい。若い頃に猫を飼って……猫に捨てられた。あまりに世話をしなかったら、ある朝、出て行った。猫を捨てたこともある。引っ越しをするのに邪魔になり、猫好きの友人に押し付けた。そういう奴だった。植物の世話をしたい。いっぱい枯らせた。無駄にした。

苦労して体を壊してしまう人や、生まれつき体が弱い人や、いろんな人がいる。健康であることで時々、優越感をもつ自分もいる。そういう自分はしょうがない。私は長いこと、孤独死した兄の人生は「負け」と感じていた。

ある時、すごい転換が起きてまったく考えが変わった。兄が負けなら私も負けだ。同じ土俵に経った時点で私も負けだ。私の世界は私の意識でできている。他人と比べたら自分の居場所がなくなる。

この晴天の霹靂のような発想の転換は、価値観や生命観をひっくり返した。ぐだぐだとこうして言葉で表現しているけれど、伝わるも伝わらないもどうでもいいのだ。ただ書いて記しているだけ。

人は自分のことばで生きて、自分のことばで世界をつくる。それしかできない。関係が、体験が、言葉を超える。

ことばにはいつも限界があり、天上は抜けている。

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感じているけど言語化できないもやもやした思い。矛盾。そんなことを言葉にかえてお届けしています。伝統的東洋医学の知識や、見えない気の世界、さまざまな能力者の方がたとの交流から体験してきた多元的な時空間についてのお話、社会問題などを扱っています。また、田口ランディのクリエイティブ・ライティング講座や、イベント、講演会の情報なども掲載しています。

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