早池峰の権現さま
痛烈に何かを信仰したいと思いながら、信仰というものを持てずにこの年になってしまった。信仰をもつ人をうらやましいと思いながら、信仰にあこがれながら、いつも神様のまわりをぐるぐる回っている。
中世の宗教音楽が好きで、神社や教会の静けさが好きで、さまざまな宗教者にお会いして話を聞き、どこに行ってもどんな形でも一緒にお祈りをすると清々しい気持になる。
なのに私には信仰がない。なにか一つこれを信じる……ということができないでここまできた。
戦後の高度成長時代に生まれて、私の田舎からも急激に土着的な信仰が消えていった。米国のテレビドラマを観て都会にあこがれて育った子ども時代だったし、青年期はバブルの恩恵を受けて聖地めぐりもファッションだった。
二〇年ほど前に早池峰に行ったのは、ユネスコ世界遺産になった神楽を見てみたいという、実にミーハーな好奇心からだった。その頃はまだ携帯電話も通じない山の中の集落で行われた神楽は、出店もなければお土産屋もなく、地元の人たちの温かい賑わいがあった。
スピーカーで怒鳴る声もなく、指示する人もなく、警護もなく、始まりのアナウンスもない。座り場所の予約もなく、集落の人たちはよそ者に快く場所を空けてくれて「こっちがよく見えるよ」と包み込む温かさ。
「詰めてください」とか「静かにしてください」というような、そういう上から人を注意する声に慣れていた私にとって、この静かな調和の世界は美し過ぎて泣きたいほど優しかった。
ここにある、この不可解で美しい秩序は「権現様」という愛らしい神様がつくっている場の力なのだと思った。信仰とは、このような豊かな秩序を生み、争いを減らし、人を優しくする。その信仰のもつハーモニーに満たされたくて、ずっと早池峰に通っていたんだと思う。
今年の早池峰は、ずいぶんと外からの人が増えた。かつては集落のお祭りであったものが、観光として外から来る人が増えたのだ。それは私とて同じ穴のむじな。こうして紹介していれば、行きたい人も増える。あの静けさを体験してほしいと思い紹介しても、それはどちらかと言えば、秩序を乱す方向に加担している……そう感じたのは、席を取るために争う人たちを、間近に見るようになったからだ。
神様の降りる場で争い事をしてはいけない。何が起きてもそれは神様の計らい事。神様の場で起きることは、神が裁く。人間が腹をたてて裁くことではない。
かつて、早池峰神楽の神楽衆にそう言われたことがある。
神さまへの奉納神楽を何百年、ひたすら続けてきた人たちと共に在る瞬間が好きだ。信仰のない私でも受け入れてくれるその温かい場に包まれると、ハーモニーの幸せを感じる。
ただその場にいるだけで感謝と畏怖がわきあがるような、大きな調和の場の中心に、権現様がいる。人を寿ぎ、舞っている。
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