自転車と方向音痴の尚ちゃん
普段は懸賞にはあまり興味を示さない僕たち夫婦なのですが、ある日、妻の尚ちゃんがたまたまネットで見つけた3等の〝極上黒毛和牛500g〟に魅力を感じて何気なく抽選に送ってみたら、なぜかそれほど欲しくない電動アシスト自転車が当たりました。
自転車がなぜそれほど嬉しくなかったのかと言うと、僕はどちらかといえば徒歩で移動するのが好きで、自転車はほとんど必要としていませんでした。一方の尚ちゃんは、太らないためにジョギングはするものの、基本的には運動音痴で、自転車には乗れなかったというのがその理由でした。
そこで僕たちは遊びに来た美大生の江波さんに「新品の電動自転車いらない?」と尋ねてみましたが、あいにく彼女は高校の頃からずっと愛着のある自転車を持っているということでした。
じゃメルカリに出して売っちゃおうかと僕がノートパソコンを開きかけた時、尚ちゃんがふいに言いました。
「私、自転車に乗ってみたいかも」
「え?」という顔で僕は尚ちゃんを振り返りました。
彼女はちょっと恥ずかしそうな表情で、遠慮がちに言いました。
「確かに私、小さい頃から極度の運動音痴だけど、一生に一度くらい自転車に乗ってみたいってずっと思ってたの。いつも買い物で私の歩いてる前を、みんな気持ちよさそうにスイスイ自転車に乗ってどこへでも走っていくでしょう?それを見ていて、いつか私も自分の足でペダルを漕ぐ感覚を感じてみたいなぁって、ずっと小学生の頃から思い続けてきたの。だから」
「長年の夢だったんだね」と僕は言いました。
「そう。憧れみたいなもの。鉄棒はいまさら到底無理だけど、自転車なら訓練すれば何とか乗れるんじゃないかって、今少しだけ思ったの。ダメかな?」と、尚ちゃんは尋ねるように僕に言いました。
「全然ダメじゃないよ。大丈夫。明日から近くで練習しよう。きっとうまく乗れるようになるよ」
という訳で、翌日の夕方にすぐ近くの多摩川の河川敷に行って、尚ちゃんと自転車に乗る練習を始めました。
週末には美大生の江波さんもコーチ役を手伝ってくれて、天気のいい日にはパールにハーネスを付けて、散歩のついでに一緒に連れて行きました。
その日は僕と江波さんがジャンケンをして、
30分おきに交代で尚ちゃんをコーチすることにしました。
気合い満々の尚ちゃんでしたが、そのやる気とは裏腹に、それから1週間経っても、半月経っても向上の兆しはほとんど見られませんでした。
尚ちゃんの運動音痴はそれほど想像を絶して凄すぎたのです。
それでも決して諦めようとはしない尚ちゃんを見て、よっぽど自転車に乗りたいんだなぁと、僕は改めて感じました。
そして、猛特訓から3週間後。
ついにその日がやってきました。



豪快に思いっきり転んでしまいました。
尚ちゃんは荒い息のまま上半身だけを起こすと、地面に目を落としたまま、「なんでこんなに一生懸命練習しているのに、全然ダメなんだろう…」と、落ち込んだ表情でつぶやきました。
その姿を遠くからずっと眺め続けていたパールが、突然尚ちゃんのもとへ一目散に駆け寄って行き、じっと彼女の目を見つめながら鋭く鳴きました。
「ニャロロ、ニニャモン」
「考えるな。感じるの」
そうパールは言いました。
その言葉に激しく心を打たれた尚ちゃんは、連日の練習で痙攣しそうな足を震わせながら、初めて車椅子から立ち上がったクララのように起き上がりました。
そして再び猛特訓を開始したのです。


そして2日後。
尚ちゃんはとうとう―


自転車をマスターしたのでした。
翌朝。
嬉しくて眠れないほどワクワクした尚ちゃんは朝6時に飛び起きると、野球帽を被った山ガールのような格好をして、「じゃサイクリングに行ってきまーす!」と、僕とまどろんでいたパールに言い残して、意気揚々と出掛けて行きました。
その3時間後。
僕のスマホに着信が入りました。
出ると、スマホの向こうから尚ちゃんの声が響きました。
「私、自転車を漕ぐのが嬉しくて嬉しくて嬉し過ぎて駅前を越えて、隣の街も越えて、ついでにそのまた隣の街も越えてずっと走り続けたの。そしたらいつの間にか帰り道が分からなくなっちゃったみたいなの」
その瞬間、僕は蒼ざめました。
尚ちゃんは運動音痴であるだけでなく、それを遥かに上回るほどの方向音痴だったことを思い出したからでした。
どれほどすごいかと言えば、毎朝のジョギングでさんざん迷ってしまい、結局、家の前の一本道の道路をただ往復するだけのコースに変更したり、何度も行っているデパートのトイレに入り、さっきまで自分がいた生鮮食品売り場に二度と戻れなくなったあげく、気づいたら隣のデパートの屋上にいるほどの破壊力を持つ、重度のポンコツな迷子体質なのでした。
僕は自転車をマスターすることに集中し過ぎて、その先に起こるであろう、このことをすっかり忘れていたのでした。
尚ちゃんは早口で、さらにこう続けました。
「しかも、ねえ聞いて。変なおじさんがずっと私の後を付けてくるの。全然違う道を走っているはずなのに、その人、私が角を右に曲がるたびに先回りして、なぜかいつもそこに立ってるの。おかしいと思わない?そして今も通りの向こうからじっと私を見てるの」
その時、心の中にいるもうひとりの僕自身である、まるもるが言いました。
「尚ちゃんはきっと目の前にある角を、常に右に曲がり続けているんだ。目の前の角を右。さらに次も右っていうふうに。するとどうなるだろう?同じ場所をただグルグル回り続けているだけってことになるよね」
「じゃその変なおじさんは…?」と僕は聞き返しました。
「うん。先回りして立っているおじさんは、じつはただ同じ場所に立っているだけってことになるね。しかもそのおじさんからすれば、突然、自転車に乗った女の人が目の前に現れて、同じ場所をただグルグル回り続けてるもんだから、いったい何をしてるんだろうと思いながら、尚ちゃんを呆れて見てるんだろう、きっと」
「そう。きっとそうだね」と、僕はまるもるの冷静で的を射た考察に深く納得しながら、うなずきました。
と、その時、僕の耳元までよじ登ってきたパールが、スマホの向こうにいる尚ちゃんに甲高い声で鳴きました。
「ニャンミュ~ン、ノノニャーミャ〜ンン」
「ワゴンタクシーを呼んで、すぐに自転車と一緒に帰ってきなさい」
パールは、まるで自分の子どもに命令する母親のように言いました。
その日の夜。
尚ちゃんは迷わずに自転車をメルカリに出しました。

あなたが人生の方向音痴になりませんように
Have a nice day
