短編小説『10代最後のダルくて熱い夏』—coffee kabutomushi—
母親がうるさいので、私はとにかくはやく家を出る。とは言ってもスマホを見るともう9時を超えていた。
アラームは8時にセットしたはずなのにと舌打ちをし、手に取ったスマホを枕に投げつける。
足音を立てないように洗面所に向かう。階段を半分ほど下りたところでキンキンとした声が耳を突き刺す。
「小春!いつまで寝とっとね!もう9時回っとるとよ。仕事にも行かんでそがん生活ばしよったら働ききらんごとなるよ」
開け放したドアのリビングを覗くと母親が眉間にしわを寄せて私を睨む。部屋の角に置かれたテレビでは芸人がわちゃわちゃと騒ぎ、テーブルのホットコーヒーはかすかに湯気を立てていた。
私は「あー」とも「うー」とも判別できないうめきをあげて、そこからは足の裏で床を叩きつけ音を出して歩く。
腹の底から湧いてきた苛立ちを削ぎ落とすように洗面所で顔を洗ったあと駆け足で部屋に戻り、100均で買った鏡の前に座る。オールインワンクリームを塗りビューラーにマスカラ、カラーリップと5分でメイクを終わらせ髪にサッとワックスを馴染ませた。
クローゼットを開け、適当に手に取った黒いワンピースを着てカーテンを開けると天気が良くてゾッとする。
もくもくと輪郭の濃い雲を見てため息がでた。きっと今日も40度近くまで上がるのだろう。
高2の夏が脳裏に浮かぶ。苦々しく顔を歪ませ下唇を噛んだ。
この灼熱のなか、なんで外にでなくちゃいけないのかと夏の熱に苛立つ。かといってこのまま家にいても母親から仕事はどうするの?とか、掃除だ洗濯だ料理だとヤーヤー言われ続けるのは目に見えている。
とりあえずこの暑さに3分体を慣らそう。
窓を開けて熱気を吸い込む。生ぬるい空気がねっとりと首元にまとわりつき早くも汗が滲む。
バッグを探って電子タバコのデバイスにスティックを差し込み蒸気を肺に流し込んだ。春に東京から帰ってきた先輩に勧められて3カ月吸い続けているがなにがいいのか全く分からない。吐き気がするこの物体を美味いと思う日が私にも訪れるのだろうか。
太陽がアスファルトを燃やすなかをジョギングしている外国人の後ろ姿を見つけ「狂ってる」とつぶやいて部屋を出た。
また階段の途中で「どこ行くの」と母親の甲高い声が聞こえ、その3倍くらいでかい声で「面接」と嘘を吐く。
日焼け止めの香りを漂わせながら電車に飛び乗り博多駅で降りる。吹き出る汗をハンドタオルで拭い、駅前のマックの自動ドアを開けた。
窓際に座っていたエミが私に気づき、眉間に力を込めて頬を膨らました。
「おっそいやん、小春。けっこう待ったよ」
「ごめん、アラーム気づかなくてさ」
「まあ、別にどっか行く予定もないしいいんだけどね」
「だよねー。家にいても親がうるさいし後ろめたいし。無職ってつらいわー」
「ね」
「エミなんか食べたと?」
「チキンマックマフィンコンビ。安いけんね」
「私もそれにしよ」
届いたチキンマックマフィンを一口かじる。今日で3日連続になるがうまいもんはうまい。朝は一生これでいいんじゃないか。あっという間に平らげて、とにかく長持ちするようにコーヒーをちびちびと飲む。
大きな窓の外では柴犬が尻尾を振りながら歩道を散歩している。少し歩いては飼い主のおばあちゃんを心配そうにチラ見する。その姿はたまらなく可愛かったが、おばあちゃんが散歩に連れ出したのか柴犬がおばあちゃんの健康のために連れ出したのかよく分からなくなった。あと柴犬は足を火傷しないのだろうか。
「なんかいい仕事見つかった?」
取り憑かれたようにスマホを操るエミに尋ねた。エミは「光った!ちょっと待って」と言ったあと「エヘヘ」と笑って液晶画面をこちらに向ける。
「イマーシブカードゲットだぜ」
「おおっー!って仕事探してないんかい!」
二人でゲラゲラと笑って、はぁ〜っとため息をついた。
「エミはどのくらい無職なんだっけ?」
「うーんと、会社辞めたのが去年ボーナスもらった時でしょう。それから6月までカラオケでバイトしてたから無職2ヶ月経過かな」
「そっか。でもまだ2ヶ月か。いいなあ。私は2月に辞めちゃってそのままだから……嘘!半年?もう半年無職?ヤバくない?」
数字は容赦ない。貴重な10代最後の年を私がいかに無駄に消費しているかを残酷に突きつける。とはいえそれほど焦っていない自分に驚く。それほどに私はやる気を失っているのだろう。
エミは追加したバニラシェイクを勢いよく吸ってアイスクリーム頭痛に襲われこめかみをしばらく押さえ足をバタバタさせたあと「まあ、小春の場合ありえないっていうかジョーカー握らされたみたいなもんだからなぁ。メンタル大丈夫?」と、私をのぞき込む。
「ああ、あれはもう全然大丈夫。っていうかそもそもふーん、社会ってこんななのねって感じだったから。やりたいって思って入った会社でもなかったしね」
高校卒業して就職したのは事務機器の会社だった。ルート営業で客先を回る部署に配属された私は上司や先輩社員と同行を繰り返し、3ヶ月ほどたった頃には一人で動くようになっていた。
高校新卒と若いからかそれとも皆セクハラやパワハラに怯えてるのかは分からないが、初めて社会に出た私に会社の人は優しかった。
言われたことをこなすだけだったが「小春ちゃん頑張ってるね」と声を掛けられることも多くなり、こんな感じでこの会社でやっていくんだろうなとなんとなく感じていた。
「佐々木さんて彼氏いるの?」
やっと涼しい風が吹くようになった11月。そう声をかけてきたのは得意先で働く光一だった。
最初は少し警戒したものの光一は柔らかく笑う人で、次第に私たちは二人で夕食に出かける仲になっていた。
イルミネーションがきらびやかに輝く12月の博多駅で光一にキスされた。
そろそろそうなるのかなと思っていた私は、めちゃくちゃ好きというわけでもなかったが別に嫌いでもなかったので、「こういう時はこうだよね」と、ドラマのシナリオをなぞるように光一の背中に手をまわした。
次の日、上司から呼び出された。
誰もいない部屋でその上司はしばらくうーんと苦しみ悩んだあと、「佐々木さん、結婚してる得意先の顧客と不倫するのはちょっと良くないかもしれないかな。いや、それはあくまで個人の価値観が尊重されるべきというのは前提として言っているんだけども」と、顔をしかめ絞り出すように言った。
上司は口をもごもごさせながら手で汗を拭い、「自由でいいと個人的には思うんだけど、でも俺にスマホの写真見せて、これっていいんですかって声を荒げた人がいてさ。……いや、その人も佐々木さんのことを心配して言ったんだけれども」と顔をしかめてまた汗を流す。
「偉い人も大変なんだなぁ」と心のなかで申し訳なく思いつつ、「マジかあいつ結婚してたんか」と光一に驚き、かといって悲しいという気持ちが微塵も湧いてこない自分にも「マジか!」ともっと驚いた。
一応既婚者とは知らなかったと上司に伝えたが、会社で「小春ちゃん」と呼ばれていた私はその日から「佐々木さん」に変わり、いっしょにランチを食べていた女性社員からは距離を置かれるようになった。
業務はなんとかこなしてはいたものの忘年会と新年会で完全に腫れ物扱いされていることを確信し、あと少しと踏ん張ってみたものの2月に退職届を提出した。
エミのバニラシェイクを一口もらって、私たちは『エーテルモール博多』に向かう。
暑い夏に行く当てのない私たちにとってショッピングモールは空調の効いた絶好の暇つぶし空間だ。
セレクトショップを見てまわるが半年無職の私には到底手が出ない。値札を見て手に取るのをやめるとエミが着ている白いTシャツと同じものを見つけた。
「これエミの白Tと同じじゃない?って高。マジ?」
「思い切って買っちゃった」
「えー、よく買えたね」
「まぁ、こないだまでカラオケでバイトしてたからね」
私の着ている黒のワンピースは高3のときに買ったものだ。今まで気にしていなかったが急にみすぼらしく思えてきた。よく見ると糸がほつれている。
せめて夏らしい色のものをとファストファッションを見に行ったが、そもそもお金がないので買えるわけもない。
休憩用のソファにだらりと腰をおろす。
やっぱり生きていくにはお金がいるよなあ。食料品売り場で買ったペットボトルのお茶をグビッと飲んだら設置されている大型テレビの映像が開催中のワールドカップに切り替わった。
サッカーを観るのは久しぶりだった。
避けていたのに目にすると途端にその世界に吸い込まれる。思わず力が入りペットボトルがペコンと音を立てた。
液晶画面にフランスのエムバペが大きく映し出された。コーナーキックでプレイが中断しているとき、わずか10メートル歩いただけですれ違った相手選手全員に肘や肩で小突かれる。
頭に血がのぼる。なんて卑劣な。こんなこと許されていいのか。奥歯を強く噛み、大型テレビを睨みつけた。
遠い異国のショッピングモールで歯ぎしりする私をよそに、当のエムバペは笑顔を絶やさない。アンガーマネジメントだろうか。笑っている。
とはいえ隠しきれない違和感が表情の端にうっすらと滲む。本当は殴りつけたい気分だろう。
蹴り出されたコーナーキックが弧を描きゴールキーパーに弾かれたあと、拾った中盤の選手がエムバペに鋭いパスを通した。
信じられない柔らかなトラップで簡単に一人かわし、緩急で二人目を抜いてシュート体勢にはいる。
相手ディフェンスが飛び込んできたところを分かっていたと言わんばかりにフェイントでかわしてゴール右隅にズドンと決めた。
ひゅーっと喉が鳴って呼吸が止まっていたことに気づく。
ソファをバンバンと叩きペットボトルを床に投げつけた。
「よっしゃ!ナイスエムバペ!ざまみろ、卑怯なことするけんたい!」
よっしゃよっしゃと繰り返し吠えたあと、液晶画面のワールドカップ会場から現実のエーテルモール博多に意識が戻る。
あ、と思ってまわりを見渡すと休憩中の人が口をぽかんと開けて私を見ていた。
すいませんと頭を下げてソファに座りエミを見るとシシシと笑う。
「やっぱ小春はサッカー好いとるとね」
エミが笑いながらささやいた一言に、そうだったのかと息を呑む。私はまだ引きずっていたのか。高2の夏のことを。
私はサッカーが大好きだった。
メッシに憧れて小学校からサッカーをはじめ、中学では県の選抜選手に選ばれたこともある。
相手ディフェンダーの動きを読んでドリブルからシュートにつなげることに喜びを感じていた。
動画で世界のストライカーを検索し感動し、何度も動きを真似た。
「今のメッシっぽくない?」
「ぽいぽい。小春は博多のメッシかも」
「なにそれディスってる?」
みんなで笑って、「でもマジで良かったからもう一回やろう」と、ひたすらにサッカーボールを追いかけた。
高校1年でレギュラーをつかみ肌を真っ黒に焦がした高校2年の夏。
37度を超える猛暑の中、練習試合に挑んだ私たちはボロボロになった。
足をつって木陰に休んだ私は嘔吐を繰り返し、ほかの選手も同じように倒れた。
救急車に運ばれすぐに退院したものの、私はもうピッチで走れなくなっていた。
気がついたら鼻をすすっている自分に気づく。エミがバッグからティッシュを取り出して「小春」と渡してくれた。
そんな昔のことで泣くなんてバカみたいと思いながら、まだ自分に泣けるような感情が残っていたことに驚き、そして嬉しくて止まらなくなった。
エミは体を寄せて泣き止むまで私の背中を撫でてくれた。
お昼を過ぎてフードコートに向かった。財布と相談しながらどれにしようかと迷っているとエミが「三階行ってみよう」と言う。
大きな本屋の隣にある『coffee kabutomushi』
ここに喫茶店があるのは知っていた。でも。
「ねえエミ、ここ高いんじゃないの」
エミはうーんと言いながら店先に置かれたブラックボードを見る。
『本日のメニュー 明太子パスタ 800円(学生半額)』
「今日は明太子パスタか。800円だって。どう?」
「うーん800円か。高くはないんだけどね」
「学生は半額なんだけどね。うーん、おいしいんだよここ」
二人でしゃがみ込みブラックボードの前でうんうん唸っていると、喫茶店から薄茶色のエプロンを付けた中年女性が出てきた。
「あんた、エミちゃんじゃなかと?そうやろ、やっぱりエミちゃんたい」
その女性はエミにうちのお母さんのようなこてこての方言で話しかけ、久しぶりに姪っ子に会ったかのような笑顔をうかべる。
「え?おばちゃん覚えとっと?」
「覚えとるさ。高校の時よう来てくれたたいね。そこでなんしよっと。明太子パスタは気分じゃなかと?」
エミと私は顔を見合わせてうーんとうなる。
私たちが首を傾げながら渋い顔をするさまを見て、その女性ははっとした表情になった。
「もしかしてエミちゃん、うちは不味かった?そいけん最近は来てくれんと?よかとよ、正直に言うてお願い。エミちゃんの気持ちば聞かせて。うちの料理とかコーヒーは不味か?」
「違うとおばちゃん!おいしかさ!高校のとき、こがんおしゃれでおいしかとばこがん安うで良かとかねって思うとったとよ!」
エミは慌ててこてこての方言で答える。思わず吹き出しそうになる。
「……じゃあ久しぶりに入ってくれてもよかたいね」
「おばちゃん、うちら無職っさね」
エミは舌を出した。ほら小春と肘でつつかれて私もそろりと舌を出す。
おばちゃんはあきれたような顔をしたあとプッと笑って、「しょうがなかね。久しぶりにエミちゃんの来てくれたっちゃもん。学生価格なら持っとるとね?」
エミがうんうんと目を潤ませるので私も真似をする。
おばちゃんは私たちの耳元に顔を寄せる。
「エミちゃんまだ二十歳なっとらんやろう?大学生って最初から言えばよかたい」
そう言ってウインクした。私とエミは顔を見合わせる。
「大学生です!」
「いらっしゃい。どうぞ」
エヘヘと笑いながらエミの後ろについて行き、私たちは店内に入る。
見回して「うわぁ」と声が漏れた。
壁の一面は大きなガラス張りで外の光を取り込んだ店内は明るい。窓の外には博多の大通りや立ち並ぶビルが見える。
白い壁と白い木材で統一された内装は清潔感があり、ソファやクッションの濃い青が可愛らしい。
「いらっしゃいませ。あれ、エミちゃん?エミちゃんよね?」
カウンターから声が聞こえ、視線を向けてはっとした。
まっすぐに伸びた背すじに柔らかな笑顔を浮かべた金髪女性店員がエミに「久しぶりね、元気だった?」と微笑む。
背が高いその人はキラキラと輝いて見えた。
「え、嘘!紬さん私のこと覚えてるの?ちょっと、嬉しすぎる!相変わらず紬さん綺麗。いいなぁ」と返したエミの瞳もキラキラしている。
「覚えてるよー。当たり前じゃない。本当?嬉しい。でもエミちゃんもめっちゃかわいいよ。隣のお友達も可愛い。いいなあ、まだ二十歳前だよね?肌プルプルじゃない」
後ろから「何ば言いよっとね」とおばちゃんの声がする。
「紬ちゃんもエミちゃんもそがん歳変わらんたいね。私からしたらみんなキラキラしてうらやましかよ。紬ちゃん、この子小春ちゃんって言わすとよ」と続けたおばちゃんは、「あー羨ましか。よかねー」と言って厨房に入っていく。
自己紹介したっけ?なんでおばちゃんは私の名前を知っているのか分からずに、ついさっきの記憶をたどったがやっぱりよく分からなかった。不思議と怖いと感じなくて、すでに出来上がっているコミュニティに私も混ざれたような嬉しさが湧く。
紬さんが「松田さんも肌きれかじゃなかですか。そいにエネルギーって感じのするけん一番長生きするかもしれんですよ」とキラキラした顔でこてこての方言になったことに唖然としつつ、全くそのとおりだと思い、おもわず「そうそう」と声が出た。
紬さんとエミがあははと笑う。
「そっか。小春ちゃんか。私、ここで働いてる如月紬って言います。よろしくね」
私とそう変わらない歳に見える紬さんはそう言って微笑む。スラリとした立ち姿に柔らかな笑顔が神々しく光って見えておもわず「うわっ」と声が漏れた。
小さく首を傾げた紬さんにはっとして、慌てて「佐々木小春です」と頭を下げた。
喫茶店に入ってすぐ自己紹介してるこの状況が可笑しくて「なにこれ」と心のなかでつぶやく。
「席はどこにする?丸テーブルは埋まってるから、窓際かカウンター席しかないけど」
エミが「私はいつもカウンター席やったとけど小春はどこがいい?」と私に聞く。
私はこてこてなエネルギーで満ちたおばちゃんと、キラキラしながらもこってりする紬さんが気になってしょうがなくなっていた。一体この二人はこの喫茶店でどんなふうに仕事をするのか見たい。
「私もカウンターがいい」
紬さんがニコッと頷き、「どうぞ」と案内され白木にブルーのクッションでできた椅子を引いた。
紬さんは柔らかな笑顔をたたえたまますぐにグラスに氷を入れ、私たちの前に置いてお冷やを注ぐ。お冷やが入ったガラス製のピッチャーにはレモンが入っていた。
「パスタでしょ?」注文はまだ聞いていないはずの紬さんがそう言ったことに驚き、コクンと頷くと「松田さんが今作ってるから待っててね」と笑い、丸テーブルを見て手を挙げる。
なんだろうと振り返ると中年男性が手を挙げていた。
今度はゴリゴリとカウンターから音が聞こえて視線を戻すと紬さんが豆をひいていた。
ハンドドリップを始めた紬さんは赤子をあやすようなほほ笑みを浮かべ、優雅にお湯を落としていく。今度は厨房からおばちゃんが出てきて窓際の若い女性のもとへ速足で歩く。
二往復ぐらいのやりとりで女性を笑わせたおばちゃんはそのまま速足で戻り、紬さんに「紬ちゃん抹茶フラッペおねがい」と声をかけさっとメモ用紙に書き込み厨房に戻る。
ハンドドリップをしながら「はい」と答えた紬さんは、丸テーブルにホットコーヒーと笑顔を届ける。
カウンターに戻ると取っ手の大きなピッチャーのような容器に、幼稚園の時芋掘りで使った小型のスコップを思い出させるおそらくプラスチック製のそれで、氷やその他諸々を残像が残るほどのスピードで左手で握ったピッチャーに放り込みカウンター奥の機械に容器をセットしたと同時に、控えめではあるが確実にそれらを砕き撹拌しているであろう音が私の鼓膜を揺らす。
その間にグラスを棚から取り出し白木のテーブルに用意し、撹拌終了とともに機械から容器を取り出しグラスに注ぐ。
生クリームを添えて窓際の女性にキラキラと届けた後ろ姿に「すいませーん」と声がかかり、丸テーブルのカップルからの「明太子パスタ二つ」との注文に「かしこまりました」と紬さんはキラキラしたままカウンターに戻る。
その時私たちに「お待たせ、明太子パスタです。エミちゃんに小春ちゃん。本当に来てくれてありがとうね」とおばちゃんが明太子パスタを真っ白な皿で持ってきてくれた。
つやつやとしずる感を放つ美しく盛られたパスタには満遍なく明太子がまぶされていて、中央の頂には刻んだ海苔とそして大葉。さらに眩しいピンク色の明太子の塊が明太子パスタの頂上を美しく色付けている。
差し出された明太子パスタを前におもわず鼻でスーッと肺に空気を流し込むと、明太子とガーリックの香りに食欲を揺さぶられ、あとから届いたマイルドなバターの匂いにお腹がグゥーっと鳴る。
おばちゃんが一瞬視線を動かし「ゆっくりしていってね。ホント久しぶりでうれしかー」と言いながら手を挙げてオッケーサインを送る。
振り返ると窓際の若い男性が青いマグカップを掲げていた。
背中からまたゴリゴリと音が聞こえた。今度はおばちゃんが豆を挽いている。
すれ違いざまにニコッと笑った紬さんが「厨房入ります」とおばちゃんに声をかけ、「おねがい紬ちゃん」と返しハンドドリップをゆっくりと優雅に始めた。
注文のたびにレジ横のメモ用紙がさっと積み重なる。
二人の動きはスペインのパスサッカーを思い出させた。
1ミリのズレもない精度はもちろん、計算されたスピードで蹴り出されたボールを数手先まで読み切ったトラップで受け、また同じように完璧に蹴り出されていく。
選手個人がハイレベルなのは当然だが、そこに一つの生き物のような統一された意識が共有されることで、まるでテレビゲームのように試合を掌握していく。
鳥肌が立った。
アイコンタクト?それとも音で状況判断しているのか。そもそもポジション分担どうなってるの?
二人の動きに見入っていると「うまっ!」っとエミの声が隣から聞こえた。
「ねえ、小春、うまくない?って何ボーってしてるの?ほら、食べてみて」と微笑むエミに「あ、いただきます」と返し、こんなの美味いに決まってるじゃんと思いながら口に運ぶとそれ以上にうまくて悶絶した。
「なにこれうっま!」
「でしょ?良かった小春がそう言ってくれて」
と会話したあと、私たちはひたすらに明太子パスタと向き合った。
皿に残った明太子をスプーンでできるだけ掬ったあと、満足感に満たされている自分に気づく。
出来合いのパスタソースとは全然違った。特別な料理を食べたという幸福感が指先までじんわりと広がっていく。
顔を上げると今度はおばちゃんがフラッペを作っている。
「どうだった?明太子パスタ。エミちゃんと小春ちゃんのお口に合いましたか?」目の前のカウンターには紬さんが立っていた。さっきの丸テーブルのカップルは明太子パスタに悶絶している。
「めっちゃおいしかったです。こんな明太子パスタはじめて。私史上最高です」
紬さんが「小春ちゃんって大げさね。でも嬉しい。ありがとうございます」と笑う。
私は前のめりに紬さんに尋ねる。
「あの、すいません気になったんですけどこのお店スタッフはお二人だけなんですか?」
「え、うんそうなの。マスターの松田さんと私だけ」
「ちょっと感動しました。お二人の動きがスペインのサッカー見てるみたいで、流れるようでそれでいて優雅で」
「……スペイン?ワールドカップのことかな。ごめん私サッカー詳しくなくて」
「あ、そうですよね。すいません。私サッカー馬鹿で、いや、少し離れてたんですけどさっきエーテルモールのテレビで復活してちょっと熱くなってて。スペインすごいチームなんですよ。お二人の仕事ちょっと意味わかんないくらいすごかったんですけど」
「ありがとう」そう言って紬さんはあははと笑う。「小春ちゃん本当に大げさだなあ。私と松田さんはもう長いの。このカフェをやるずっと前からいっしょに働いてたからそう見えるのかもね」
「ずっとまえから……」
どういうことなんだろう。紬さんは私と変わらない歳に見えるのに、一体いつから働いてるんだろう。
「ねえ小春、なんか飲もうよ。私おごったげるから付き合って。ね」
エミの声を聞いてはっとした。物事に対してこんなに前のめりになったのはいつ以来だろう。空調が効いていて店内は心地良い温度なのに体が熱くなっていた。
テーブルに手をついて紬さんに詰め寄る姿になっていたことに気づき顔まで熱くなった。
エミはふふふと笑っている。
エミはダークモカフラッペを頼んで私はホットコーヒーにした。
ハンドドリップの優雅な動きをもう一度見たかった。
紬さんは私たちの耳元で「これ、私が奢ってあげる。内緒よ」と笑った。
エミと二人でキャーっとはしゃいでコーヒーに口をつける。
ホットコーヒーはマイルドで心がほどけるような味がした。シェアしながら飲んだダークモカフラッペの程よい甘みは私の活力にそっと火を灯すようだった。
レジで明太子パスタの支払いを済ませると松田さんが私たちに1枚ずつ紙を渡す。
「あんたたちもしよかったらうちで働いてみらん?来てくれたら助かるとよ。考えてみてね」
そう言ったあと松田さんと紬さんは私たちに「ありがとうございました」と深々と頭を下げる。
え?いや私たち迷惑な客でしかなかったでしょうと心で二人に突っ込み、エミと一緒に深々と頭を下げた。
エーテルモール博多を二人でキャッキャと歩く。
「明太子パスタヤバくない?」
「ヤバいヤバい。ってか紬さんもヤバくない?キラキラしてて」
「ホントそれ。金髪なのに清楚で凛としてるって何?好きすぎてヤバいんだけど」
「松田さんの無敵感何あれ?」
「ウケる。こてこてだし」
「いいわあ、coffee kabutomushi」
「ってかカブトムシってなんで?」
「ウケる」
「ね」
私たちはもらった紙を並べて見つめる。
『時給1300円 社員登用あり』
エーテルモール博多の自動ドアが開くとあっという間に外の熱気が私たちを包む。
歩道橋をのぼり、真ん中まで歩いてエーテルモール博多を眺める。
「どこだっけ」
「三階だから、えーと、あ、あそこだ。ほらあそこ」
「あーほんと。あそこだね」
私たちはしばらくそこで三階の大きな窓を見ていた。
