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短編小説 『母からの電話』 —coffee kabutomushi—

「さっきお母さんから連絡あってさ、お盆は帰ってこいだって」

「そうなの?でもダナンはどうするの?」

「うーん。キャンセルするしかないかなぁ。残念だけど」

私がそう言うと、昨日大学時代の友人数名と船釣りに行き釣ってきたらしいアジをキッチンで捌いていた涼介は手を止め「まじで?信じられない」といった顔で振り向いた。

「……どうにかならないわけ?」

涼介は穏やかに見せようと努める人だ。そして不器用な人でもある。自分の思い通りにいかないとき、すねた子供のように表情が硬くなる。

「私も海外旅行に行く予定があって無理って言ったんだけど、今年はどうしても帰れってお母さん引かないのよ。こんなこと今までなかったんだけど」

本当にそうだった。大学進学と同時に東京に出てきて十年以上経つが、博多に帰ったのは数回しかない。最初の数年の正月と父親が亡くなった三年前だけだ。

それでも「菜々子も忙しかやろうけんね。時間のできたら顔ば見せてね」とだけで小言を言われたこともない。

そんな母が「キャンセル料のかかるとやったらお母さんが出すけん。今年のお盆だけでよかけん帰ってきて」そこまで言ったのだ。

嫌な予感がしていた。父の葬式で漂っていたお焼香の香りを思い出した。

「……そう。だったらしょうがないね。まだお盆の連休までは時間あるから、キャンセル料もそんなにかかんないでしょう。そっか、菜々子が博多帰るんだったら俺は何しようかな」

硬い顔のままため息を吐き、涼介は束ねた金色の長い髪を揺らして、再びアジを捌きだした。

なにかあったのかな?とは聞いてこない。まだ二十代の涼介は故郷から連絡があっても何かあったのかもしれないとは思わないのだろう。私が全額払うダナン旅行のキャンセル料のほうがよっぽど心配らしい。

しばらくして鼻歌を歌い出した涼介に言うかどうか迷う。

でも私も今年で三十四歳だ。付き合い始めて三年。別におかしいこととは思わない。

「……涼介も来ない?」

「え?」

体をぴくっとさせたあと振り返った涼介は、まばたきを繰り返して私を見つめている。まるで想像もしていなかったのだろう。「なんで?」と顔に書いてある。

「ダナンに行けないのは残念だけどさ、せっかくだから来ない?博多。別に深い意味じゃないけど、私たちも付き合いだして三年だしさ。お母さんに涼介を会わせるのもいいかなって」

「うーん……」

「どうせ暇でしょう?バイトは休み取ってるし、ライブもないし」

視線を部屋の隅に合わせてうんうんと頷いたあと、涼介は「やめとくよ」と笑った。

「そう」

私はそれだけ返してスマホで博多行きのチケットを一人分予約する。

「菜々子、終わったよ。見て、すごく綺麗にできた」

捌き終えて微笑んだ涼介は、私が料理したアジのなめろうやフライを「すごい。新鮮だから全然違う」とビールを飲みながら嬉しそうに食べ、お冷やで口をすすぐみたいに私を抱いて帰った。

「時間ができたから富士山登ってみようかな」とか、「YouTubeの動画がはじめて二十万回超えて勢いが出てきた」とか、機嫌よく喋り続けた涼介の口から、博多の話がでることは一回もなかった。


成田で母が好きな東京ばな奈を買ったあと、スターバックスでラテを飲む。

母が気になっていた。

「なんで?なんかあったと?」

いくら聞いても母は「もう何年も会っとらんとよ。菜々子の顔ば見たかと」としか言わない。

ため息が出た。そんなはずはないだろう。父が倒れたときですら私が帰ると言うと、申し訳なさそうに「菜々子が忙しかとやったら無理せんでよかとよ」と言った人だ。何かあったに決まっている。

お母さん大丈夫かな?怖くなってカップを握る手が震えた。

やんちゃだった私が問題を起こしてもいつも笑って「菜々子は悪うなか」と言ってくれたお母さん。夜中までギターの練習してうるさいと怒った父に「菜々子が好きなことの邪魔だけはせんで!」とかばってくれたお母さん。

東京の大学に行くと恐る恐る告げた私に「菜々子は頭のよかけん絶対行ったほうがよか」と背中を押してくれたお母さん。

今、好きな仕事に就くことができて東京に染まることができたのは、お母さんのおかげなのだ。

なぜ今まで帰らなかったのだろう。今更ながらそんな後悔が浮かぶ。

テーブルに肘をついてそんなことを考えていたら涙が溢れてきた。

指で拭って、まだ何も聞いたわけじゃないのにと心を落ち着かせようとしても嫌な予感しかしなくて、また涙が溢れた。


飛行機に乗ることもないお母さんに見せようと、機内で上空から見た博多の街をスマホで撮り、福岡空港に着いた。

出迎えにくると言ったお母さんを、私は「よかけん」と断った。おそらく聞かされるであろう『何か』が怖くて仕方なかったのだ。

博多の地で心の準備がしたかった。

まず地下鉄に乗った。高校のとき以来だ。久しぶりに天神に向かう。学生のときよく遊んだ場所だ。

すぐにあの頃との違いに気づいた。韓国の人、中国の人、少し浅黒いアジアの人。とにかく外国人が多い。日本人より多いのではないかと思うほどだ。私がいた頃はそんなことはなかった。

初めてギターを買った楽器店に寄ってみた。店の雰囲気は変わり、あの時何もわからない私と一緒に悩んでギターを選んでくれた店員さんも、もういなかった。

少し寂しくなったけど、そりゃそうだよなと声にださずにつぶやく。あれから十年以上……違う、あのとき中学生だったからもう二十年か。そんな長い時間が過ぎたのだ。改めて時間の進む速さを実感する。

東京の生活ではそれをまるで感じない。

大学を出て音楽業界に滑り込み、プロモーションする立場となり、まばゆい才能と共に毎日を過ごしている。あのころのバンドメンバーに、私があのアーティストと当たり前のように仕事をしていると言えばさぞかし驚くだろう。

ちょうどお昼になりお腹がすいたので定食屋に寄ってみようと思い立つ。高校生の時バンドメンバーとよく行った店だ。

大通りはまるで変わっていたが、少し外れたらあの頃と変わっていない。近づくにつれ当時の記憶が蘇ってくる。

バンドがすべてだった。景子がいれば、私たちもチャットモンチーになれるって本気で思ってた。景子の歌声の足を引っ張らないよう、ひたすらにギターをかき鳴らした。

初めてライブハウスに行って、本物がうようよいることを知った。その人たちが必ずしも売れるわけではないことも。
それでも私は景子こそが本物なんだと疑わなかった。けれど、景子は違った。少しずつ自信をなくしていった景子は、「歌手なんてなれるわけないよ」と笑って歌うことをやめた。

ラーメン屋を通り過ぎて角のコンビニを曲がる。そこにあるはずの定食屋は、ネイルサロンに変わっていた。


お母さんが休日によく行くというエーテルモール博多の喫茶店に行ってみようと地下鉄に乗る。日替わりメニューがあるらしく、それが絶品で通っているとたまに写真付きのLINEがはいるのだ。

店内の案内図を見てその喫茶店は三階にあると分かる。その隣にある大型書店が気になった。

人混みに紛れながらエスカレーターを乗り継ぐ。

書店に入り、CDコーナーに向かう。涼介の音楽グループのCDが置いてあるのか見たかった。

新しくできたショッピングモールだから音楽コーナーは小規模なものだろうと思っていたら違った。

ポスターやポップはもちろん、視聴スペースも広く確保してあり何台もヘッドホンが置かれ、CDが平積みしてある。

そこに涼介のグループのCDがあって驚いた。学生らしい女の子がヘッドホンをして小さくリズムを取っている。

私は担当していないが、同僚から最近学生を中心に熱心な女性ファンがついてきたと聞いていた。私もまた、涼介が作り出す音楽にセンスを感じている。

だからこそまだデビュー前の涼介が、子犬のように怯えながら「付き合ってください」と言ってくれたことが嬉しかったし、何よりも可愛らしかった。ずっと子犬のように「菜々子さん、菜々子さん」と頼りなかった彼もファンがついて自信が出てきたようで「菜々子ちゃん」になり、最近「菜々子」に変わった。

涼介には可能性がある。何かを掴む未来があるかもしれない。

そして、そんな彼にとって、母親に会わないかと言ってくる女はもう邪魔なのかもしれない。

ため息をついたあと本を見て回り、隣の喫茶店に向かう。白い壁にさりげなく書かれた『coffee kabutomushi』。

カブトムシ?昆虫好きのオーナーだろうか。

店先に置かれたブラックボードには、
『本日のメニュー ほろほろほほ肉のビーフシチュー 1200円(学生半額)』と綺麗な文字で書かれている。

学生半額という文字に定食屋を思い出した。あの店もそうだった。おじいちゃんとおばあちゃん夫婦とパートのおばちゃんがひとり。自分たちには子供がいないから学生さんの喜ぶ顔が見たくて半額にしたと話を聞いた記憶がある。

考えてみたらあのとき、ご夫婦はすでにかなりの歳だった。もう引退して店をやめたのかもしれない。

白木の扉を開き店内に入る。予想以上に広い。白を基調にした清潔感のある空間に、大きなガラス窓から光が注ぐ。丸テーブルが数台と窓際席。それにカウンター席もある。

お母さんが気に入るのもわかる。本を読む人。パソコンをたたく人。子供を連れた母親。ノートを広げた学生。明るいだけじゃなくて落ち着いた空気が店内に漂っている。

「いらっしゃいませ!」

声がして目が合って、お互いの顔が同時に「あっ!」となった。

「うそ?菜々子ちゃん?」

「え?松田のおばちゃん?」

「やっぱり菜々子ちゃんたい!東京に行ったとよね?帰ってきたと?」

「そうそうお母さんから帰って来いって言われてさ。っていうかなんで東京に行ったってわかると?言うたっけ?定食屋で」

「聞いとらんよ、あんたたち急に来んごとなったたいね」

「あははっ。そう。いろいろあってね。でも、じゃあなんで知っとると?」

「お母さんから聞いとると!和子ちゃんから」

「ああ、そうか。お母さんか。いや、和子ちゃんて名前呼び?あれ?前からお母さんのこと知っとったっけ?」

「ここによう来てやらすとよ、和子ちゃん。そいでいろいろ話すと。菜々子ちゃん、東京で偉くなったとってね?」

「えー?お母さん、うちのことばなんて言うたと?そがんことなかよ。全然偉くなか!」

「偉くなかとね?でもほら、あの人のプロモーションばしよるとは菜々子ちゃんってお母さん嬉しそうに言いよらしたよ」

そこまで話してふと視線が気になった。

カウンターの中にいる二人の若い女性店員が私たちをぽかんと見ている。

「ほら、おばちゃん、店員さんの困っとらすよ。どこに座ったらよかと?」

松田のおばちゃんはカウンターの二人に「ちょっと、紬ちゃん、エミちゃん!きてきて」と手招きする。

「ほら、この人ね、菜々子ちゃん。うちが昔働きよった定食屋でよう来てくれらしたと。もう、十年?十五年?そんくらい前。バンドマンよ、かっこよかっちゃけん」

「おばちゃんそれ学生の時の話!遊びよ、遊び!」

「え、菜々子さんて、もしかして和子さんの娘さんですか?」

「そうそう、和子ちゃんの娘さん。偉かとよ東京でね……」

「おばちゃんやめて!ほんとに偉くなかとやけん」

「そうね?偉かって思うとけどね……」

「っていうか、松田のおばちゃん、ここで働きよっと?」

「そうよ、ここはうちの店」

「……え?」

なんと、学生の時通っていた定食屋でパートとして働いていた松田のおばちゃんは、新しくできたショッピングモールのなかにあるおしゃれな喫茶店のオーナーになっていたのだ。

「偉くなっとると松田のおばちゃんたいね!」

みんなでゲラゲラ笑ったあと私は窓際の席を選んで座った。

ほほ肉のビーフシチューはほんとにほろほろで、高級レストランにも見劣りしない。お母さんのことであまり食欲がなかったのに夢中で食べた。
食べながら思い出した。そもそもあの定食屋は異常に美味しかったのだ。東京で星がつくような店に行くこともあるが、あの食堂に学生時代通ってしまった私はリアクションに困ることが多い。

コーヒーもふわっと漂う香りでいい豆を使ってることがわかり、飲むと優しい苦味が心地よかった。

松田のおばちゃんにお母さんのことをそれとなく聞いたら、ここ最近は来ていないらしく心配しているらしい。やっぱり何かあったのだ。

支払いをするときに気になっていたことを松田のおばちゃんに聞いてみた。

「おばちゃん、なんでカブトムシ?虫好きやったっけ?」

松田のおばちゃんと若い女性があははっと笑った。

「ほら、aikoの『カブトムシ』、好きやっけん」



博多駅から地下鉄に乗って三十分。そこから十分歩き実家に着いた。

扉の向こうにお母さんがいる。会った瞬間、世界が変わりそうで怖い。でも早く聞きたい。私とお母さんはこの世でたった一人の家族であり、親子なのだ。

「ただいま」

奥から足音が聞こえる。

「おかえり」

にっこりと笑うお母さんは夏なのにニット帽をかぶっていた。

嫌な予感はやっぱり当たっているのだとわかった。

「……お母さん、ごめん」

鼻がつんとして涙が流れた。頬をぬぐった手が震えた。

「帰って来てくれてありがとう、菜々子。無理言ってごめんね」

そう言って抱きしめてくれたお母さんの身体は細く、なんだか三年前より小さく感じた。

お母さんは乳がんだった。一年くらい前の健康診断で再検査となり精密検査をしてがんと確定したらしい。

「なんで教えてくれなかったの」

「早期発見で命に別状はないって言われたけんさ。言わんほうがよかかなって」

「言ってよ」

違う。お母さんが言わなかったんじゃない。言わせなかったのはきっと私だ。

電話があるたびに東京での暮らしの邪魔をされたくないと、言葉が強くなっていた。着信画面に表示される『お母さん』に面倒だと思った。いつだって一番応援してくれたのはお母さんだったのに。いつも電話の最後には「ごめんね」って言わせていた自分が情けなくなる。

手術には親戚が立ち会ったらしい。私に連絡は何もなかった。きっとお母さんが口止めしたのだろう。

「全摘したとよ。右の胸、なくなっちゃった」

母は胸をそっと撫でて笑う。

なんと言っていいのかわからず、ただ俯いた。自分の胸に触れる。この片方がなくなる。恐ろしくなった。どれほど勇気のいる決断だったのだろう。私だったらその選択肢を選べただろうか。

涼介の顔が浮かんだ。私がそうなったら涼介はどうするだろう。それでも好きだと私を抱くだろうか。


夜は二人で寿司を食べに行った。細くなったお母さんがどのくらい食べられるのかわからず心配したが、食欲旺盛でむしろ私よりたくさん食べたので笑ってしまった。

一番きつい抗がん剤の治療は終わり、今は飲み薬を飲むだけらしい。

「これからいっぱい食べて取り戻さんば!」

そう言って大トロをぱくっと一口で食べる。

「奢るけん遠慮せんで」

私がそう言うと、お母さんは「ほんと?」と目をキラキラさせて、本当にいっさい遠慮しないで高いものを頼みまくった。
そんなお母さんが嬉しかった。

「お風呂でもいく?」

アジの握りを食べながらお母さんが言った。「帰りにコンビニ寄ってく?」みたいに軽い言い方だった。

「そうね。いいかも」

私も軽く返したが本当は怖かった。お風呂に入るのであれば当然服を脱ぐし、帽子も取るだろう。

胸を取ったお母さんの体と髪の抜けた頭を、私は不安にさせないように平気な顔で見ることができるだろうか。

それとなく「家族風呂にしようか」と言って、お母さんは「いいね。一緒に入るって何年振り?楽しみ」と本当に楽しそうに笑う。

帽子を「じゃーん」といって取ったお母さんは思いの外可愛かった。

「え、なんか少女みたい」

思ったことが口に出た。

「ね、意外といいよね」

お母さんは両手で頭を撫でた。

胸の傷はまだ痛々しかった。術後そんなに経っているわけではないので、腕をあげたり下げたりすると痛むらしく、リハビリ体操を毎日やっているらしい。

「怖くなかった?」

「怖かったさ。でも今はすっきりしとるよ。なるべく再発のリスクは減らしたかったけんさ」

「そうよね」

当たり前だ。怖くないはずがない。
再発という言葉が胸に重く響いた。また怖くなったが、お母さんは私の何倍も怖いだろう。今もお母さんは小さな体に恐怖を抱えて戦っているのかもしれない。

でも少しもそれを見せない。隣で目をとじて気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。
もしかしたら私を不安にさせないためなのかもしれない。

そんなお母さんを見て私もそうありたいなと思い、鼻歌を一緒に歌った。


coffee kabutomushiに行ったことを話すと「お母さんも行きたい!」と言ったので、次の日私たちはエーテルモール博多へ向かった。

ブラックボードは昨日と打って変わり、隅から隅まで何色も使って彩られている。

……これはスプーンで、これはマグカップ。これはなに?UFOかな?ゴキブリみたいなのもいるけどそんなわけはないだろう。

『本日のメニュー 親子丼700円(学生半額)』

思わず唾を飲み込んだ。あの定食屋で食べた親子丼は絶品だったのだ。

扉を開けると昨日の金髪の女性が「いらっしゃいませ!和子さんと菜々子さん」と柔らかく微笑む。

すぐに厨房から松田のおばちゃんが走ってきて「いらっしゃい、和子ちゃん、久しぶり!嬉しか!」と、昨日と同じように笑う。

お母さんと私は親子丼を頼んだ。


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