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神や仏がいながら、なぜ善人が苊したなければいけないのか  を考える

䞖の䞭は理䞍尜に満ちおいたす。

䜕も悪いこずをしおいないのに、なぜ、こんな酷い目に遭わなければいけないのか。自分が䜕をしたずいうのか。
この䞖には、神も仏もいないのか 

この䞖を生きる私たちにずっお、少しでも平穏無事に、幞せに暮らしおいきたいずいうのは、誰もが願うこずだず思いたす。
日本人は信仰心が薄いず蚀われるこずもありたすが、倚くの人は初詣や墓参りなどで、手を合わせおいるのではないでしょうか。

しかし、昚今頻発する倩灜や、䞍慮の事故などを芋おいるず、なぜこの人達がこんな蟛い目に ず思わざるを埗たせんし、地震などで神瀟や寺院が酷い被害を受けおいるのを目にするず、信仰心の節い人ほど、よりいっそう悲しい思いをしおいるのではないかず思いたす。

人智を超えた倧きな力に頌りたい気持ちず、珟実ずの間で、気持ちをどのように敎理すれば良いのでしょうか

今回はそのあたりを考えおみたした。

「神も仏もいないのか」に察する答え

人生には、どうしおも受け入れ難い出来事がありたす。

䜕の眪もない子どもが病に倒れ、誠実に生きおきた人が事故や灜害に遭い、人を欺き傷぀けおきた人が䜕事もなかったように成功しおいる。そんな珟実を目にするず、「神も仏もないものか」ず思わずにはいられたせん。

叀今東西、倚くの宗教や哲孊はこの問いに向き合っおきたした。

そんな䞭、ベストセラヌずなった著䜜「なぜ私だけが苊しむのか 珟代のペブ蚘」ずいう本は、倚くの人に衝撃を䞎える考え方を瀺したした。

既に読たれおいる方もいらっしゃるかず存じたす。

著者のH.S.クシュナヌ氏は、1935幎生たれのナダダ系アメリカ人で、ラビナダダ教の教えを指導する人ずしおの経隓から、旧玄聖曞に曞かれおいる「ペブ蚘」を題材にしお、「神は人を深く愛しおいる。しかし、党胜ではない」ずいう考えを瀺したした。

ペブ蚘に぀いお

この「ペブ蚘」は、なぜ善良な人にも苊難が起こるのか、そしお苊難の䞭で人間は神ずどう向き合うべきかを描いた物語です。

ペブは、財産にも家族にも恵たれ、神を敬う正しい人でした。あるずき神ずサタンの間で、ペブが神を敬うのは、圌が恵たれおいるからではないか、ずいう議論になりたした。圌らは実隓ずしおペブが財産を倱い、子どもたちを亡くし、さらに重い病に苊しむ様にしお、ペブを詊したす。

突然悲惚な境遇に芋舞われたペブは神を呪わずに耐えたすが、次第に「自分には眪がないのに、なぜこんな苊しみに遭うのか」ず神に激しく問いかけたす。

䞉人の友人たちは、「これほど苊しむのは、ペブが䜕か悪いこずをしたからだ」ず説きたす。しかしペブは、自分にそのような眪はないず反論し、神に説明を求めたす。最埌に神自身が嵐の䞭から珟れ、人間には理解できない䞖界の深さず壮倧さを瀺したす。

神はペブの問いに盎接的な答えを䞎えたせん。しかしペブは、自分の知識や理解の限界を悟り、神の前にぞりくだりたす。
物語の最埌では、ペブの境遇は回埩し、再び豊かになりたす。

神は党胜か吊か

著者のクシュナヌ氏は、ペブ蚘を説明するには察立する぀の呜題があり、いずれかが間違っおいないず善良な人に起こる䞍幞が説明できないず提瀺したす。

神は党胜であり、党おの事象をその意志によっお動かす
神は善であっお決しお悪に味方しない
ペブは善人である

このうち、人の友人達は呜題ずを守る為に最終的にを吊定したす。これは絶察神を信仰する立堎に基づくものだず思われたす。

しかしペブ蚘では、の呜題は最初に神自身が保蚌しおいたすし、この立堎をずるず、善良な人々が灜難に遭った時、自らの䞭に䜕らかの萜ち床を探しお自分を責めるずいうこずが起こっおしたいたす。

ペブは自分が䞍幞のどん底に萜ずされる皋の悪人だずは思えないものの、神は党胜であるず信じおいるので、呜題を疑わざるを埗ず、神に説明を求めたす。

教矩の䞭では神の党胜に疑いを挟むこずはありたせんが、䞀方で党胜を有しながら自身の理屈で倚くの人に䞍幞・䞍条理を感じさせるのであれば、それは、独裁的・独善的で暪暎な神ずいうこずになっおしたいたす。

そこで著者は、神は人々の䞊に䞍条理が起きないこずを望んでいるものの、この䞖の基本的な構造や物理法則を捻じ曲げおたで止める様なこずはしないず考えたす。この䞖に起きる䞍条理は自分のせいでも神のせいもなく、起こっおしたったこずを乗り越える際に、神は寄り添っおくれるのだず説明したす。

クシュナヌ氏はナダダ教のラビですが、この本は党胜の絶察神を信じる教埒の倚数意芋ではないかもしれたせん。ただ、苊しんでいる人ず接する時、たた自分が苊しんでいる時にどう考えるか、瀺唆に富む内容であるこずは確かです。

聖曞は難解ですが、私のようなドシロりトでもわかるように面癜く曞かれた阿刀田高さんの本がありたす。もし良ければ参考にしおください。

日本人にずっおの神は

さお翻っお、叀来神道に芪しんでいる私たち日本人に぀いおはどうでしょうか。
日本神話はいろいろな圢で語られおいたすが、河合隌雄先生が卓越した芖点で曞かれた本がずおも興味深いです。読たれおいない人はご参考たでに。

ナダダ・キリスト教においおは、人間は神の「創造物」です。ずころが日本神話では、人間は気が付くずい぀のたにか自然の䞭で発生しおおり、神の䜏む高倩原ず人間の䜏む葊原䞭囜は䞊行しお存圚しおいたす。

「実存が本質に先立぀」ずいう実存䞻矩に合臎するストヌリヌで、既に存圚しおいた人間は、高倩原から降臚した神に埓いたすが、はじめから決たっおいるずいう立お付けではありたせん。神も個性に富む倚くの神々が存圚するので、どこに祀られおいるどの神を信仰するかに぀いおは、かなり自由床が高いず蚀えたす。

聖曞に基づいお3000幎前の「創造䞻ずの玄束」に思いを銳せお祈り続けおいる民族ず比べるず、日本人の神ぞの信仰は、そこたで匷く拘束力のあるものではない様にも感じられたすね。

日本人の神ぞの信仰ずいうのは、神話に登堎する擬人的な名称のある神に察しおず蚀うより、叀来もっず挠然ずした存圚、すなわち山や岩、朚などの自然に察する「畏れ」に近いものの様な気がしたす。

䟋えば危ない堎面に遭遇し、手を合わせお「神様助けおください 」ず唱えるずき、頭にアマテラス神やオオクニヌシ神などを具䜓的に思い浮かべる方は少ないのではないでしょうか。

いずれにせよ、私たち日本人も、幞犏や幞運を願うために、やはり足繫く神瀟に行っお手を合わせおいたす。皋床の差はあれ、神のご加護にあずかりたいずいう、敬虔な気持ちから発しおいるものには違いがないず思いたす。

ずころが神様は、私たちの願い事を叶えおくれる時ず、そうでないずきがありたす。そしお、これだけ䞀生懞呜に信仰しおいるのに、身を枅くしお正しい生掻を行っおいるのに、なぜ神様は私をこんな目に遭わせるのだろう、ず思いたくなるこずが、実際には起こっおしたいたす。

日本人は恐らく、聖曞に埓う人たちず比べるず「神が党胜でない」ずいうこずは受け入れやすいのではないでしょうか。䞍幞にしお灜難が降りかかった際も、「なぜ神は私をこのような目に 」ず思い悩むこずは倚くないのではず思いたす。

ただ、䜕か䞍幞な事件が起こった時に、ペブ蚘で挙がった぀の呜題のうちに盞圓する「自分があんなこずをしおしたったから、こんなこずになっおしたったのだ」ず自分を責めおしたう人がいるのを芋るず、蟛くなりたすよね。

実際には殆どの䞍幞事は、自らの行いに起因するものではありたせん。
その事象が起こったのは、たたたた䞍運なタむミング、巡り合わせが生じただけで、倧自然の摂理、物理法則に埓っお起こっおしたったにすぎたせん。

問題は、そこからの考え方で、先述のクシュナヌ氏は、神はあなたず共にいおくれるのだずいうこずを説いおいたす。神は事象をコントロヌルするこずはできないが、愛ず善の心をもっお、あなたを支えおくれる。あなたは神に愛されおいるのを感じながら生きおいけば良い、ず。

これは掋の東西を問わず、ずおも心匷い考え方ではないかず思いたす。

では仏教に぀いおはどうなのか

日本人にずっお、神道ず䞊んで銎染みの深い仏教ですが、本来は「願いをかなえおもらう」ものではなく、「自分自身の苊しみ、執着をどう超えるか」が根本にあるものです。

仏教には倚圩な宗掟があっお党おを䞀蚀では衚せたせんが、基本的には珟䞖での幞犏な事象を埗るこずが目的ではなく、茪廻ず苊からの解攟、すなわち悟りや解脱が最終の目暙ずなっおいたす。

因果ずいう考え方はありたすが、珟実に起こった䞍幞事に察しおは、過去を詮玢するこずよりも、「この苊しみに察しお、今、自分はどう生きるか」ずいう方向性が重芖されたす。


仏教では、人々は業カルマによっお生たれ倉わる䞖界が六぀に分類され、良い方から順に倩道、人道、修矅道、畜生道、逓鬌道、地獄道ずなりたす。

生前に悪い行いをした人は、その皋床が酷ければ地獄道に萜ずされ、そこで眰を受けるこずになりたす。䞀方で非垞に善い行いをした人は、その善い業の結果ずしお倩道に生たれるこずがありたす。 倩道は人間界よりはるかに楜しく、長寿で、苊しみの少ない䞖界です。

聖曞においおも死埌の䞖界に぀いおの蚘茉はあり、裁きを受けお神ずずもに氞遠の生呜を埗る者ず、眰を受ける者に分かれたす。
仏教が違うのは茪廻転生の考え方で、六道の䞭にもさらに寿呜があっお、たずえ倩道に入っおもたたどこかに生たれ倉わるずいう点です。

芁するに、仏教における究極の目的は、六道のどこに行くかずいう問題自䜓を終わらせるこず、すなわち六道そのものから抜け出す茪廻からの解脱悟り・涅槃です。 ぀たり「珟䞖の事象に察する利益ではなく、悟りによる悩みからの解攟」ずいうこずになりたすね。

善人が苊しんでいるずきに、神や仏は䜕をしおくれるのか

なぜ敬虔に信仰しおいる善良な人でさえ、理䞍尜ずも思える蟛い状況におかれおしたうのか、ずいう問題は、昔から続く倧きく深刻なテヌマです。

旧玄聖曞の「ペブ蚘」の䞭にも単玔で明快な答えは䞎えられおいたせん。
むしろ、人間には理解しきれない苊難の前で、それでも神ず向き合い続ける姿を描いた物語ずいえたす。

私たち日本人も、善人が謂れのない苊しみを受けるずいう事象を芋るこずは珍しくありたせんが、「党おは神の埡心のたたに」ずいう聖曞信仰のある人ず比べるず、珟実の事象に察しおは神の圱響を倧きく捉えおいないのかも知れたせん。

ただ、それでも人々が神や仏を信じ、幞犏を願っお祈り続けるのは、やはり信仰に倧きな圹割があるからだず思いたす。

善良で敬虔な人は、正しく枅い心で神仏に向き合っおいたす。

神や仏は、誰が善良で正盎な人かを知っおいたす。

ですから、私たちが苊境に立ち、慰めや助けを求めたずきには、きっず私たちの偎に立っお芋守り支えお䞋さるこずでしょう。

理䞍尜な䞖界ず、それでも良い人生を送るために

「善人が苊しみ、悪人が報いを受けない」ずいう䞖界は、あたりにも残酷です。善人が䞍幞のどん底に萜ずされ、䞀方で人を傷぀け、人生を狂わせた人が、最埌たで責任を負うこずなく人生を終えるこずも珟実にはありたす。

倚くの日本人には経隓的に、「珟䞖だけでは善悪の垳尻が合わない」ずいう、ある意味醒めた共通認識があるのではないでしょうか。

ここで思い出されるのが、仏教の因果の教えです。
理䞍尜で䞍平等な䞖の䞭を考えるず、せめお生きおいる間、善い行いをした人ず、悪い行いをした人が、死埌に仏教でいう六道に分けられお、信賞必眰がかなえられるこずを信じたくもなりたすよね。

私たちは、珟䞖の事象に぀いお神仏の力に限界があるこずを、自分の目で芋お知っおしたっおいたすが、䞀方で、死埌に裁きの䞖界がないずは誰も確認できおいたせん。

きっず、死埌には六道の様な䞖界がありたす。
もちろん蚌明は困難ですが、ないずいう蚌拠もありたせんので、どう思うかは人それぞれでしょう。

善も悪も、目には芋えないずころで決しお倱われるこずなく、それぞれにふさわしい結果ぞず぀ながっおいくのだずしたら、理䞍尜に苊しむ人の心を支える倧きな垌望になりたす。


ただし、この垌望は、悪人ぞの埩讐を願うためのものではありたせん。
むしろ、「自分たで悪人にならずに枈む」ための垌望です。

ひどい仕打ちを受けた人ほど、人を憎みたくなりたすよね。
しかし、「最埌の裁きは自分がしなくおも良い」ず思えるなら、その憎しみを少しだけ手攟すこずができたす。
憎しみに人生を支配されないための知恵ずも蚀えるかも知れたせん。


人類が䜕千幎にもわたっお神や仏を求め、信仰を続けおきたのは、「この䞖界は理䞍尜だけで終わっおほしくない」ずいう切実な願いの衚れだったのではないかず思いたす。

たずえ結末をこの䞖で芋るこずができなくおも、宇宙のどこかで正矩は完成するこずを信じ、理䞍尜に傷぀いた人が、それでも善良であり続けようず思えるなら、その垌望には十分な䟡倀があるのではないでしょうか。


宗教家でもなく、敬虔な信埒でもない、ごく平凡な䞀般人の私が、思うたたを勝手に綎っただけの文章です。

的倖れで無責任な内容ずなっおいる郚分も倚々あるかず思いたすが、ご寛容いただけるず幞いです。
お付き合い有難うございたした。






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