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理系にも分かる「文系・理系」区分ーーその費用は誰が負うているのか


0.本稿の主張

本稿は、日本社会に根づいた「文系/理系」という区分について、二段階の議論を行う。

第一段階は記述的な仮説である。すなわち、文理区分は知性に二つの自然種(natural kinds)が存在することを発見した分類ではなく、多次元的な能力・関心・方法・将来希望の空間に対して、高校・大学入試・学部組織・教育統計・採用制度が共同で引く「準行政的な進路区画(quasi-administrative zoning)」である、という仮説である。

第二段階は、この仮説をさらに一歩進める規範的な分析である。準行政区画としての文理区分の最大の問題は、境界線が人工的であることではない。分類によって得られる便益と、分類によって発生する費用の帰着先が一致していないこと──すなわち、分類する側(大学・高校・企業・行政)が運営上の便益を内部化し、分類の粗さが生む誤差・適応・機会損失・訂正費用を、分類される側(生徒・学生・家庭)へ外部化していること──である。

さらに本稿は第三の要素として、この区画がなぜ強制なしに維持されるのかを説明する動学的メカニズムを組み込む。シェリングの分居モデルが示すように、境界とラベルと移動費用さえ設計されていれば、分類された者の局所的に「合理的な選択」だけで、分類境界は自動的に再生産される。行政区画論が「誰が盤面と境界線を作ったか」を問うのに対し、シェリング動学は「盤面が作られた後、なぜ誰も望んでいなくても分離していくのか」を説明する増幅器である。

一文に圧縮すればこうなる。

分類とは、分類者が処理できない複雑性を、分類される者が生きなければならない制約へ変換する権力である。

以下、制度史・社会理論・実証データ・簡単な数理モデルを用いて、この二段階の議論を順に展開する。


1.なぜ「行政区画」という表現が比喩以上のものなのか

行政区画には、一般に次の性質がある。複雑で連続的な地形に離散的な境界を引くこと。住所によって受けられるサービスが変わること。境界を越える際に手続きや費用が発生すること。入域条件があること。住民登録や統計コードが作られること。区画内に地域文化が生まれること。境界地域が扱いにくいこと。そして、境界は人工的であっても境界効果は現実になることである。

日本の文理区分は、この各性質と一対一で対応する。多次元的な能力・関心が「文/理」に二分される。コースによって履修できる数学・理科・地歴等が変わる。文転・理転には未履修科目の補習という「越境手続き」が必要になる。入試科目・履修要件・推薦条件という「入域条件」がある。学籍・学部・学科系統という「住民登録」が作られる。「理系は論理的」「文系はコミュ力」という「住民像」が生まれる。経済学・心理学・情報学・建築・デザインは「境界地域」として扱いにくくなる。そして、区分自体は便宜的でも、履修差・進路差・自己認識差という境界効果は現実に生じる。

ただし、現在の日本に、全国民を法的に「文系住民」「理系住民」へ登録する単一の制度があるわけではない。国立教育政策研究所の調査によれば、文理コース分けを実施している高校は約3分の2(66%)であり、すべての高校に一律強制されているわけではない[1][2]。そのため本稿は、これを「法定区画」ではなく、国家・高校・大学・入試制度・予備校・家庭・企業が共同運営する分散型の「準行政的ゾーニング」と呼ぶ。


2.理論的基盤──可読性・分類インフラ・ループ効果

この仮説は、少なくとも三つの社会理論と接続できる。

2.1 行政的可読性(legibility)

ジェームズ・C・スコットは『Seeing Like a State』において、統治機関は複雑な現実をそのまま扱うことができないため、測定・記録・介入しやすい単純なカテゴリーへ現実を変換すると論じた[3]。度量衡の標準化、姓の強制、地籍簿の作成はいずれも、現実を忠実に写すためではなく、現実を統治可能(legible)にするための操作である。

文理区分も同型である。学校は、一人一人の数学的推論・言語能力・空間能力・歴史的関心・対人関心・実験技能・美的関心・将来希望・家庭環境・学習意欲を完全に個別最適化して時間割を作ることはできない。そこで、多次元の人間を「文系/理系」という低解像度のコードへ圧縮する。

2.2 分類インフラ(classification infrastructure)

ボウカーとスターは『Sorting Things Out』において、分類体系を単なる説明用ラベルではなく、社会的活動を支えるインフラとして捉えた[4]。分類は、記録・資源配分・組織間連携・評価を可能にする一方で、カテゴリーに収まらないものを不可視化する。

文理区分も、単なる言葉ではない。「理系」というコードがあるからこそ、学校は数学III・物理・化学のクラスを編成でき、大学は入試科目を定め、予備校は講座を商品化し、企業は採用枠を作れる。文理とは、教育システムの諸組織を相互接続するAPIのようなものである。

2.3 ループ効果(looping effects)

イアン・ハッキングは、人間に関する分類(human kinds)は、分類される人間自身の行動や自己理解を変え、その結果としてカテゴリーの中身まで変化させると論じた[5]。「あなたは文系だ」と分類された生徒は、単に記述されるだけではない。数学の履修を減らし、文系学部を調べ、文系の友人と情報交換し、「自分は数字が苦手だ」と自己説明し始める。その行動の結果、本当に数学経験の少ない人になる。

したがって文理区分は、人間の違いを「発見する分類」であると同時に、人間の違いを「生産する介入」でもある。


3.歴史──文理はまず法令上の区分として設置された

日本における制度的な文理二分の系譜は、少なくとも1918年(大正7年)の第二次高等学校令に明示的に確認できる。同令第八条は「高等学校高等科ヲ分チテ文科及理科トス」と定めた[6]。旧制高等学校の高等科は文科・理科に大別され、第一外国語によって文科甲類・乙類・丙類、理科甲類・乙類・丙類へ細分された[7]。

重要なのは順序である。まず「文系型人間」と「理系型人間」が心理学的に発見され、その後に制度が追認したのではない。教育課程を運営し、帝国大学への接続を管理するために、法令上、文科と理科がまず設置されたのである。隠岐さや香が示すように、文系・理系の分岐は知的必然というより、近代日本の高等教育制度の編成史──官僚養成・技術者養成・大学予備教育の管理──に由来する[8]。

言い換えれば、「理系」という語の原型は、心理学的診断名ではなく教育上の「住所」であった。もちろん、現代の文理区分が1918年から不変のまま直線的に続いているという単純な歴史観は採れない。しかし、その有力な制度的起源が人格類型論・神経科学・知能心理学ではなく、学校組織・履修編成・大学への接続であったことは、行政区画説の歴史的基礎をなす。


4.現在──高校の文理区分は大学入試への「行政的適応」である

この点について、文部科学省の資料はかなり率直である。

文部科学省が中央教育審議会関連資料で引用した国立教育政策研究所の調査によれば、高校の約66%が文理コース分けを実施し、コース選択の時期は高校1年の秋、実際の分離は高校2年4月からが中心である[1][2]。同資料は、早い段階での選択により特定教科を十分に学習しない傾向が生じることを指摘し、高校の文理コース分けを、大学入学者選抜に対する高等学校教育の「適応」として位置づけている[1]。

さらに、文部科学省・中央教育審議会が近年問題視してきたのは、経済系・情報系など数理的手法を実際には多用する分野の入試において、個別学力検査で数学を必須とする募集区分がごく一部にとどまるという実態である。分野で必要とされる技能や実践は数学を要求しているのに、その分野が「文系」に割り振られた歴史的経緯のために、そこで学ぶ学生たちは十分な数学の経験を持たないまま進学してくる。その弊害はもはや無視できるほど小さくない。この問題意識のもと、2023年には中央教育審議会大学分科会が「教学マネジメント指針」に大学入学者選抜に関する追記を行い、データサイエンス系・情報系・経済系学部について、入学後の学修に必要な数学を入試で適切に課すよう促した[9]。

ここには、典型的な行政区画形成の連鎖がある。

  1. 大学が入域条件(入試科目)を決める。

  2. 高校がその条件に適応してコースを作る。

  3. 生徒がコースを選ぶ。

  4. 履修内容が変わる。

  5. 卒業時の能力差が拡大する。

  6. その差が「文系と理系は元々違う」という人間観として再解釈される。

因果と説明が反転している。本当は「入試制度が履修差を作った」可能性があるのに、事後的には「能力差があるから入試制度が違う」と理解されるのである。


5.「文系・理系」の一語に混在する五つの変数

日常語の「文系」「理系」は、少なくとも次の五つの異なる変数を無差別に指す。

第一に、高校の履修コース──どの授業を多く受けるかという時間割上の区分。第二に、入試方式──どの科目の組合せで受験するかという選抜上の区分。第三に、大学の組織所属──文学部・法学部・工学部・理学部といった大学内部の管轄区分。第四に、職業分類──技術職・研究職・営業職・事務職といった労働市場における配置区分。第五に、人格・認知スタイル──論理的、感情的、機械に強い、言葉に強い、といった人物像である。

最初の四つは制度上のカテゴリーであり、第五だけが人間の内的性質に関する主張である。ところが日常の推論では、「文系入試を受けた」→「文系学部に入った」→「文系の人である」→「数学的に考えられない」→「論理的に考えられない」という連鎖が、ほとんど無意識に行われる。

無論、これらの矢印は自明ではない。特に「ある入試科目を選ばなかった」から「ある思考能力を持っていない」への移行は、明白なカテゴリー錯誤である。これは「北海道に住んでいる」から「寒さに強い遺伝子を持っている」と推論するのに似ている。住所は経験を変えるため統計的な傾向は生まれ得るが、住所そのものは遺伝子ではない。


6.因果モデル──分類は説明変数であると同時に介入変数である

生徒の時点 $${t}$$ における状態を、数学力・言語力・空間力・興味・意欲・自己効力感・家庭環境・将来希望などからなる多次元ベクトル $${z_t}$$ とする。文理分類を $${c_t}$$、学校や入試の制度条件を $${r_t}$$、分類後に与えられる履修・資源・機会を $${a_t}$$ とすると、概念的には次のように書ける。

$$
c_t=q(z_t,r_t),\qquad a_t=\pi(c_t,r_t),\qquad z_{t+1}=F(z_t,a_t,\text{周囲の期待},\text{自己認識})
$$

重要なのは、分類 $${c_t}$$ が単に現在の $${z_t}$$ を要約するだけでなく、配分 $${a_t}$$ を通じて将来の $${z_{t+1}}$$ を変えることである。したがって、卒業時点で観測される文理間の差は、概念的には次のように分解される。

$$
\Delta_{\text{観測}}=\Delta_{\text{選抜前の差}}+\Delta_{\text{履修による差}}+\Delta_{\text{自己認識の差}}+\Delta_{\text{評価方法の差}}
$$

これは厳密な推定式ではなく因果構造の模式化だが、この区別をしない限り、「理系だから数学ができる」という文が、(1) 元々数学が得意だったから理系を選んだのか、(2) 理系を選んで数学を多く学んだから得意になったのか、(3) 「理系だからできるはず」という期待が努力を促したのか、(4) 数学を評価する制度の中で理系が選抜されたのか、を識別できない。

実証的には、文理選択は中学3年から高校1年の時期に集中し、教科の得意・不得意が大きな選択要因になっていることが調査で示されており、事前差(選抜効果)は確かに存在する[2]。一方で、文部科学省資料はコース分け後に特定科目を十分学ばなくなること(教育効果)も指摘している[1]。したがって観測差は、選抜効果と教育効果の合成だと考えるのが妥当である。さらに、教師・家族・友人の発言や「女性は文系」といったステレオタイプが本人の選択と相互作用することも示唆されている[2][10]。

最も重要な命題はこうなる。文理区分は説明変数であると同時に、介入変数である。


7.では文理の違いはすべて虚構なのか──実在する傾斜と人工的な境界線

行政区画説は「文系と理系の違いは全部でっち上げだ」という説ではない。より正確には、「地形には実在する傾斜があるが、どこに・いつ・何本の境界線を引くかは制度的選択である」という説である。

認知能力研究では、異なる認知課題の成績が全般に正の相関を持つ「正の多様体(positive manifold)」が一貫して観察されている[11]。つまり「数学能力が高いほど言語能力は低い」というゼロサム関係が人間の基本構造なのではない。他方で、個人内の相対的な得意方向、いわゆる能力の「傾き(tilt)」は専攻選択と関連する。米国の縦断データを用いた研究では、数学優位の傾きはSTEM専攻と、言語優位の傾きは人文学専攻と関連し、また数学・言語の双方が高い者はむしろ非STEMを選びやすい──能力の欠如ではなく選択肢の広さが専攻を決める──ことが示されている[12][13]。これらは日本の文理制度を直接検証した研究ではないが、「相対的な適性プロファイルは存在し得る」ことを示す。

学術分野そのものも「二つの島」ではない。書誌情報を用いたUCSDの学術地図は、研究領域を13の大分野・554の下位分野からなる連続的ネットワークとして構成している[14]。OECDのフラスカティ・マニュアルも、自然科学、工学・技術、医学・保健、農学・獣医学、社会科学、人文学・芸術という複数分野分類を採用しており、二分法ではない[15]。

知識世界の実態は「文系島|海|理系島」ではなく、「多数の地域が連続し、複数の橋と境界領域を持つ大陸」に近い。文理二分は、その大陸を二色で塗りわけた、極めて低解像度の地図である。


8.情報理論的定式化──1ビットへの非可逆圧縮

人間の能力・関心を $${d}$$ 次元のベクトル $${z}$$ とすれば、文理区分はそれを $${q(z)\in{\text{文},\text{理}}}$$ という1ビット程度の情報へ圧縮する操作である。

圧縮には利点がある。学校は時間割を作りやすくなり、大学は入試を設計しやすくなり、生徒は進路選択を簡略化でき、企業は応募者を粗く仕分けできる。しかし当然、情報は大量に失われる。数学が得意で歴史も好きな人、文才のある物理学者、統計学や数理モデルを駆使する社会科学者、倫理や社会制度を扱う技術者、デザインと工学を横断する人は、1ビットでは表現できない。

制度設計を抽象化すると、分類制度は次の問題を解いていると考えられる。

$$
q^{*}=\arg\min_{q}\left[D(q)+\lambda C(q)\right]
$$

ここで $${D(q)}$$ は誤分類・機会損失・ミスマッチによる損失、$${C(q)}$$ は時間割・教員配置・入試・進路指導の運営複雑性、$${\lambda}$$ は行政コストの重みである。二分法は $${C(q)}$$ を劇的に小さくできるが、$${D(q)}$$ まで最小化する保証はどこにもない。つまり文理区分は、人間の本質を最も正確に表現するから存続しているのではなく、制度運営上安価だから存続している可能性が高い。

問題は圧縮すること自体ではない。非可逆圧縮された1ビットのラベルを、元の人間全体だと思い込むことが問題である。

──と、ここまでが記述的な「行政区画説」である。しかし、ここまでの定式化には決定的な欠落がある。上の目的関数には、「誰の損失を $${D}$$ に数えるか」が書かれていない。以下、本稿の第二段階として、この欠落こそが文理区分の核心問題であることを論じる。


9.深化──分類は「複雑性の削減」ではなく「複雑性の移転」である

制度はしばしば「人間は複雑すぎるので、分類によって単純化する必要がある」と自己説明する。しかし、分類しても人間の複雑性そのものが消えるわけではない。数学も歴史も好きな生徒は、文理選択後も数学と歴史の両方が好きかもしれない。本人の性質が単純になるのではなく、制度がその複雑性を扱わなくなるだけだ。

すると、制度から追い出された複雑性は、次の形で本人の側へ戻ってくる。未履修科目を独学する。塾や予備校に通う。進学可能な学部を諦める。文転・理転のために追加年数を費やす。自分の関心を「本当の適性ではない」と再解釈する。制度に合わない自分を、能力不足として理解する。それらすべてのコストと責任は本人が負う。

学校にとっての時間割上の単純化が、生徒にとっては人生上の複雑化になる。すなわち、

$$
\text{中央の簡素化}=\text{周辺への複雑性移転}
$$

である。この意味で分類は、単なる情報圧縮ではなく、処理費用の転嫁装置である。


10.二つの損失関数──誰の損失で最適化されているのか

人間の本来の状態を $${x}$$、分類を $${q(x)}$$、分類に基づく処遇を $${a(q(x))}$$ とする。分類する制度は、概念的には次の目的関数を最小化する。

$$
\min_{q,a}\left[K(q)+\mathbb{E},L_C\bigl(x,a(q(x))\bigr)\right]
$$

ここで $${K(q)}$$ は分類制度の運営費用、$${L_C}$$ は分類する側が被る損失である。大学入試なら、問題作成・採点の費用、入学後に授業についてこられない学生を入れるリスク、選抜結果を説明する費用などが $${L_C}$$ に含まれる。

しかし社会全体として考えるなら、本来の目的関数は次でなければならない。

$$
\min_{q,a}\left[K(q)+\mathbb{E},L_C\bigl(x,a(q(x))\bigr)+\mathbb{E},L_S\bigl(x,a(q(x))\bigr)\right]
$$

$${L_S}$$ は分類される側の損失である。本当は適性があるのに排除される損失。必要な教育機会を失う損失。分類に適合するための費用。将来の選択可能性の喪失。ラベルによる能力・人格の誤認。誤りを訂正するための時間と費用。

問題は、多くの分類制度が事実上 $${L_S\approx 0}$$ として設計されていることである。分類される側の損失が本当にゼロなのではない。制度の会計上、ゼロとして扱われているという意味である。学校の予算書には、文系を選んだため医学部受験を断念した生徒の機会損失も、理転のために家庭が払った予備校費用も、「自分は数学ができない」と形成された自己概念も、専攻変更による追加在学年数も計上されない。そのため制度の内部では「効率化」に見える。しかしそれは、費用を削減したのではなく、会計主体の外へ出しだされただけだ。


11.分類レントと分類税

ここで便宜的に、分類する権限から得られる利益を「分類レント」、分類されることで負担する費用を「分類税」と呼ぼう。

分類する側が得る分類レントには、判断件数の削減、時間割・人員配置の単純化、選抜・採用コストの削減、対象者の予測可能性、リスク管理、標準化・大量処理、組織間の情報共有、責任のルールへの転嫁、分類結果を用いた統計作成が含まれる。これに対応して分類される側が払う分類税には、個別事情の捨象、履修機会の喪失、受験・就職可能性の縮小、ラベルに合わせた自己改造、誤分類による機会損失、例外申請・証明・異議申立ての労力、文脈を無視したラベルの再利用、責任追及先の不明化、そして分類が生んだ差を本人の属性とみなされることが含まれる。

この構図は、行政学における「行政負担(administrative burden)」研究に対応する。ハードとモイニハンは、市民が制度との接触において負う費用を、制度を理解するための「学習費用」、手続きに従う「遵守費用」、スティグマや自律性喪失などの「心理的費用」に分類し、これらの負担の大きさが技術的必然ではなく制度設計上の政治的選択であると論じた[16]。分類者は「ラベルを付ける」という一回の処理をする。分類された者は、その後何年も、そのラベルを前提に設計された世界を生きる。


12.最大の非対称性──誤りの費用が違う

分類する側と分類される側では、同じ誤分類でも損害の帰着が違う。

大学入試を例にとると、「適性の低い学生を合格させる誤り」の費用は、補習・退学・教育負担等として大学側に可視化される。一方、「適性の高い学生を不合格にする誤り」の費用は、原則として大学にはほとんど観測されず、進路・所得・職業・人生設計への影響として志願者側が負う。しかも、不合格になった人が入学していればどれほど成功したかは反実仮想であり観測できない。したがって制度は、大学にとって安全な方向へ選抜閾値を設定できる。

これは単に統計学上の第一種・第二種過誤の技術問題にとどまらない。どちらの誤りを重く評価するかを、片方の当事者だけが決めているという政治的問題である。

計算機科学における「戦略的分類(strategic classification)」の研究でも、特定のモデルの下で、制度側の効用を高める分類境界が、分類される人々の「社会的負担(social burden)」──分類基準に適合するために人々が支払う適応コスト──を増大させ、しかもその負担が不利な集団へ偏り得ることが形式的に示されている[17]。また、静的な時点での「公平な」分類基準が、分類後のフィードバックを通じて長期的には対象集団の状態を悪化させ得ることも示されている[18]。これらは普遍定理ではないが、制度効用と被分類者負担を別々の項として置かなければならないことを明確に示す。


13.正確な分類であっても、不公正になり得る

ここが決定的である。多くの議論は「文理分類が正確なら問題ない」「適性検査が正しく適性を測れば問題ない」と考える。しかしこれは誤りである。というのも、分類には少なくとも四種類の害があるからである。

誤分類の害。本当は理系/文系的能力を持つ人が文系/理系と分類される、通常の意味でのエラー。

配分の害。分類自体は現在の状態を正しく記述していても、そのラベルに基づいて過剰に機会が制限される場合。「現在、数学の成績が低い」が正しいとしても、「だから今後、高度な数学を学ぶ機会を与えない」ことまでは正当化しない。現在の状態を記述する分類と、将来の機会を配分する判断は別である。

適応の害。人間が分類基準に合わせて自分を変えざるを得ないこと。成績・履修科目・資格・面接上の自己表現を分類制度の要求に合わせて改造する労働。分類制度にとっては「適性の確認」でも、本人にとっては制度にとって「読解可能」な人間になるための労働である。

構成的な害。分類が、分類対象の性質そのものを作り出すこと。「文系」とされた生徒が数学を履修しなくなり、数年後に数学能力が低下する。その結果を見て「やはり文系は数学が苦手だ」と制度が自己確認する。ハッキングのループ効果[5]と機械学習の長期影響研究[18]が交差する地点である。

したがって、分類の正確性は、分類処遇の正当性を意味しない。予測的妥当性と配分的正当性は別物である。


14.なぜ費用転嫁が見えなくなるのか──四つのメカニズム

14.1 利益は集中し、費用は分散する

学校が文理2コースに分ければ、時間割編成の利益は学校組織に集中し、予算・教員配置・合格実績という数字として可視化される。一方、その結果生じる機会損失は生徒一人一人の人生に分散し、「本人の努力不足」「家庭の進路選択」「個人的な後悔」「適性の問題」として私事化される。制度上は「学校が100の運営費を節約した」ことは見えても、「生徒1000人がそれぞれ1ずつ選択可能性を失った」ことは見えない。社会的には両者の総額を比較すべきだが、制度は前者しか記録しない。

14.2 分類者が、証拠の形式も決める

分類者はカテゴリーを決めるだけでなく、何を能力と呼ぶか、何を証拠として認めるか、いつ測定するか、どの誤りを重く扱うか、例外をどう証明させるかまで決定する。本人が「私はこのカテゴリーに適合しない」と訴えても「主観的感想」とされ、制度が付けたラベルは「客観的データ」とされる。ここでは分類権と事実認定権が同じ側にある

14.3 誤りの訂正費用まで本人が負う

分類者が間違えた場合でも、多くの制度では、間違いに気づき、情報を集め、窓口を探し、証明書を提出し、再審査を待ち、不利益を受けていた期間を耐えるという費用を、ほぼすべて本人が負う。分類者は一件の誤判定を低コストで出せるのに、分類された側は高コストで覆さなければならない。行政負担研究でも、行政上の誤りそのものだけでなく、その誤りを発見・説明・訂正させるための労力が追加的負担になることが報告されている[16]。文理を扱うのは、単に誤り得る制度ではなく、誤りの訂正責任をほぼ必ず被害者へ転嫁する制度である。

14.4 時間の非対称性

分類者が得る利益は即時である──今年の時間割が組める、採点科目を減らせる、応募者を絞れる。これに対して、分類された者が負う費用は遅れて現れ、しかも長期的な(時に一生涯にわたる)ものになる──数年後に学びたい分野が変わる、就職後に数学を学び直す、専攻を移ろうとして未履修が障壁になる。即時的で可視的な利益と、長期的で反実仮想的な損失を比較するとき、分類者はもちろん、我々のほとんどは前者を過大評価する。


15.誰も設計していないのに強固である──分散型費用外部化均衡

文理制度の厄介さは、誰か一人が利益を独占しているというより、複数の制度主体がそれぞれ利益を得ながら、誰も全体費用に責任を持たないことにある。

大学は入試科目を限定することで選抜設計を簡略化し、「高校で必要な科目を学んでくればよい」と言う。高校は入試科目に応じて生徒をまとめることで時間割・受験指導を効率化し、「大学入試がこの科目構成なので対応している」と言う。企業は学部名や文理ラベルで応募者を粗く推定し、「大学の専攻を参考にしているだけだ」と言う。行政は学科系統別に定員・統計・補助金を管理し、「学校や大学の自主性を尊重している」と言う。

それぞれの局所的判断は合理的である。しかし全体としては、生徒に費用が集中する。文科省資料が描く連鎖──大学が選抜を単純化する、ゆえに高校が履修を二分する、ゆえに生徒が未履修・進路制限のコストを負う[1]──は、まさにこの費用転嫁の連鎖である。

これは誰かの陰謀ではない。むしろ陰謀でないからこそ強固である。誰も全体を設計していないのに、各主体が他主体の分類を前提として合理的に行動するため、分類制度が自己維持される。これを分散型費用外部化均衡と呼ぶことができる。平たく言えば、みんなが少しずつ便利になるが、その総費用は一人一人の生徒が人生単位で払う仕組みである。


16.増幅器としてのシェリング動学──境界は、なぜ住民自身の選択によって自己増殖するのか

前節の「分散型費用外部化均衡」は、誰も全体を設計していないのに制度が維持されることを述べた。しかしそこには、なぜ被分類者自身の選択が境界を再生産するのかというミクロ的基礎が欠けている。それを与えるのが、トーマス・シェリングの分居(residential segregation)モデルである[26][27][28]。

シェリング・モデルは「分類利益の私有化/分類費用の外部化」という本稿の議論を置き換える理論ではない。行政区画論が「誰が盤面と境界線を作ったか」を問うのに対し、シェリング動学は「なぜ誰も全体的分離を望んでいないのに、個々人は分離していくのか」を説明するものである。

16.1 ミクロな動機とマクロな結果の非対応

シェリングの中心的発見は、社会全体に現れた強い分離から、個々人の強い分離願望を逆算してはいけない、という点である。1971年論文は、個々人の誘因と集合的結果には単純な対応関係がなく、移動の動学が個々人の要求以上に強い分離を生み、集計結果から個人の動機を推論することは通常できないと明記している[27]。個々人が混合状態そのものを好む場合でさえ、極端な少数派になることを避ける条件があれば、同じ動学から分離が生じ得る。さらに、複数の安定状態がある場合、初期条件や移動速度が結果を決め、別の安定状態へ移るには大きな攪乱または協調行動が必要になる[27][28]。

この接続は後世の勝手な拡張ではない。シェリング自身が「境界のある近隣」モデルについて、居住を文字どおりの住宅だけでなく、職業・職場・大学・教会・投票集団・クラブへの所属や参加として解釈できると述べている[27]。シェリングのモデルは、次のように文理制度への対応づけることができる。可視的な二群は文系/理系というラベルに、格子上の場所はコース・学級・学部に、近隣住民は同級生・教員・先輩・情報源に、満足閾値は安心して選択できる最低限の仲間・資源に、空きマスは定員・授業枠に、引っ越しはコース選択・文転・理転に、移動可能距離は未履修科目・学費・留年・補習コストに対応する。

教材でよく使われる「同類3割の要求でも高度な分離が生じる」という数値は、二群同数・8近傍・両群同一要求という特定条件下の結果であり、普遍的閾値ではない。シェリング自身、試行数の少ない人工的な盤面の数値を現実社会へそのまま移せないと注意している[27]。正確な表現は「比較的弱い同類要求でも、条件によっては個人の要求を大きく上回る集団的分離が生じ得る」である。また、以下は文理制度への理論的拡張であって、日本の文理分離の因果効果がシェリング・モデルによって実証済みだという意味ではない。

16.2 文理の区分では「同類選好」より「少数派になる費用」が重要である

文理制度に適用するとき、「人は同じ種類の人と一緒にいたい」とだけ考えるのは心理主義的すぎる。より重要なのは、人は異質な人が嫌いなのではなく、自分が孤立した少数派になることで発生する費用を避けるという点である。

文系コースで一人だけ高度な数学を履修する生徒には、同じ問題集を使う友人がいない、質問できる相手が少ない、時間割が衝突する、教員がその選択を例外として扱う、受験指導の標準経路から外れる、「なぜ文系なのに数学をするのか」を説明させられる、という費用が生じる。本人は文理混合を好んでいてもよい。しかし、混合環境が好きであることと、混合環境の中で自分一人だけ少数派になることを受け入れることは同じではない。

ここから決定的な帰結が出る。学際性を望む人が多いことと、学際的な制度が自発的に成立することは別問題である。各人が単独で越境しなければならない制度下では、越境者は「先駆者費用」を負う。そのため、全員がある程度の混合を望んでいても、誰も最初の一人になりたがらず、結果として分離均衡が維持される。これは選好の問題ではなく協調失敗の問題である。

16.3 二重のフィードバックと「自己執行的な分類」

シェリング動学を導入すると、文理制度の自己強化過程は次のように書ける。

$$
\text{分類}\rightarrow\text{履修・人員・情報の集中}\rightarrow\text{少数派費用の上昇}\rightarrow\text{局所的に合理的な同類選択}\rightarrow\text{さらなる集中}
$$

ここには二種類のフィードバックがある。第一は個人内フィードバック──「文系」とされた→数学を学ばなくなった→数学経験が減った→「自分は文系だ」という自己認識が強まった──であり、これは第6節のループ効果[5]に対応する。第二は集団構成フィードバック──文系で数学を取る人が減った→学校が文系向け数学を用意しなくなった→文系で数学を取る費用が上がった→さらに履修者が減った──であり、シェリングが特に説明するのはこちらである。二つが結合すると、制度が最初に作った小さな区分が、時間とともに大きな能力差・文化差・職業差へと成長する。

費用転嫁論との接点で特に重要なのは、この動学によって分類者が分類の強制・監視・維持費まで負担せずに済むようになることである。大学は入試科目を分ける。高校はそれに合わせてコースを分ける。生徒は合格可能性を考えてコースを選ぶ。先輩や予備校は「この学部ならこの進路」と助言する。企業は学部名を職種適性の代理変数として使う。これだけでいい。その結果、誰も「文系と理系は混ざってはいけない」と命令しなくても、分離が再生産される。しかも制度側は「本人が自分で選んだ」と説明できる。そしてそれは事実である。

ここで「選択」は、自由の証明であるより、制度が設定した費用構造を、本人の意思決定として表示する装置になる。分類権力にとって最も安価なのは、外から人を押し込む制度ではなく、人々が自らから区画へ入ったように見える制度である。シェリング・モデルは、この自己執行的な分類が成立する仕組みを説明する。

16.4 「分類者対被分類者」から「境界維持連合対境界住民」へ

シェリングの視点を入れると、利益と費用の分布は単純な二者関係ではなく三者関係になる。第一にルール設定者(学校・大学・企業・行政)は、時間割・入試・採用・統計・予算配分の簡略化という利益を得る。第二に区画の典型的住民──典型的な理系生徒や文系生徒──も一定の利益を受け得る。同じ前提知識を持つ人が集まれば、専門授業を効率よく受けられ、情報交換もしやすいからである。第三に、最大の費用を負うのは境界住民である。これは例えば、数学と歴史の両方が得意な人、後から関心が変化した人、二分法に適合しない学際的な人、そして少数派として先に越境する人である。

したがってより厳密には、「分類利益を分類者だけが独占する」というより、分類者と区画内の典型的住民が形成する「境界維持連合」が便益を受け、その費用が境界的・非典型的・後発的な人へ集中すると表現すべきである。分類が長く続くほど、区画ごとに専門教員・教材・予備校講座・学部組織・採用枠・同窓ネットワーク・アイデンティティーが蓄積する。すると、最初は行政上の便宜にすぎなかった区分が、既得権益と住民文化を持つようになる。行政区画が、後から「地域共同体」になっていくのと同じである。

16.5 管理されたシェリング・モデル

古典的モデルを文理制度向けに拡張すると、学生 $${i}$$ が区画 $${j}$$ を選ぶ効用を概念的に次のように書ける。

$$
U_{ij}=F(x_i,j)+\alpha P_{ij}+\beta R_j(N_j)-K_{ij}(q)
$$

ここで $${x_i}$$ は本人の連続的・多次元的な能力や関心、$${F(x_i,j)}$$ は本人と区画の適合度、$${P_{ij}}$$ は同じ進路の仲間・先輩・ロールモデルの存在、$${R_j(N_j)}$$ は在籍人数 $${N_j}$$ に応じて供給される授業・教員・情報、$${K_{ij}(q)}$$ は制度 $${q}$$ が作る移動・越境費用である。重要なのは、$${N_j}$$ の増加が $${P_{ij}}$$ と $${R_j(N_j)}$$ を高め、$${U_{ij}}$$ を高め、さらに $${N_j}$$ を増やすという正のフィードバックである。人数が増えるほどその区画へ入ることが有利になり、逆に少数派の区画や越境経路は、人数が減るほど授業・情報・支援が減り、ますます選ばれなくなる。

一方、制度側は区画 $${q}$$ を選ぶとき、自分の時間割・採点・採用・管理費用 $${C_I(q)}$$ を主に最小化する。しかし社会的に必要なのは次の最小化である。

$$
\min_q\left[C_I(q)+\textstyle\sum_i C_i^{\mathrm{越境}}+\sum_i C_i^{\mathrm{機会損失}}+\sum_i C_i^{\mathrm{誤分類}}\right]
$$

制度側の計算に後三項が十分入っていなければ、制度側にとっては最適だが社会全体では過度に早く、粗く、固定的な分類が選ばれることになる。そしてシェリング的増幅が加わると、分類者が最初に作った小さな差が被分類者の選択によって拡大し、最終的には分類者自身も容易に変更できない安定状態になる。これは第10節の二つの損失関数の議論に、動学と均衡選択の次元を加えるものである。

16.6 モデルの限界──「誰も悪くない」ではなく「意図だけを見ても責任を捉えられない」

ここで重要な限界を明記する。古典的なシェリング・モデルでは、赤と青というカテゴリー、その可視性、格子や近隣の定義、移動可能な空き場所、満足・不満足の規則、そしてカテゴリーが二つであることが、あらかじめ与えられている。しかし文理制度について本当に問うべきなのは、誰が赤と青を定義したのか、なぜ二色なのか、誰が格子を作ったのか、なぜ越境費用が高いのか、誰が空きマスを制御しているのか、誰の満足条件に合わせて制度が設計されているのか、である。これらは前半の行政区画論・分類権力論の管轄であり、シェリング・モデルの外部にある。

シェリング自身も、1971年論文が組織的行動や経済的分離を主たるモデルから除外していることを明記し、それらが個人的選択による分離より重要でないという主張ではないと断っている[27]。したがって「シェリング・モデルは強い差別がなくても分離が起こり得ることを示した、ゆえに現実の分離に制度や権力は関係ない」という推論は成立しない。モデルが示すのは十分可能性──弱い局所的選好だけでも分離を生み得ること──であって、現実に観察された分離が弱い局所的選好だけで生じたという因果同定ではない。この区別を怠ると、シェリング・モデルは構造的責任を免責する物語として誤用される。

むしろ制度論的には逆である。発生や維持に誰かの悪意が必要となる制度より、各人の普通の適応行動だけで不公正を再生産する制度の方が、構造として強固であり悪質である。重要なのは個人の内心ではなく、誰が選択肢を設計したか、誰が移動費用を設定したか、誰が局所的便益を配分したか、誰に制度変更能力があるか、誰が結果を予見でき、誰が結果から利益を得ているか、である。意図が分散していても、権限は均等に分散していない。生徒一人には文理制度を変更できないが、大学・学校・行政には、程度の差はあれ、入試科目・履修要件・コース構造・転向手続を変更する能力がある。したがって責任は、結果を意図した程度ではなく、ルールを設定・変更できる能力と、外部化された費用を内部化できる能力に応じて配分されるべきである。


17.学校は分類機械であり、分類は生活機会を作る

教育社会学では、学校は単に知識を教える場所ではなく、人を学年・成績・コース・能力群・専攻へ分類し、そのカテゴリーが後の機会格差の基盤になる「選別機械(sorting machine)」として論じられてきた[19]。経済社会学でも、信用スコアのような分類は既存の差を表すだけでなく、価格・サービス・機会へのアクセスを変え、人々の生活機会そのものを形成する「分類状況(classification situations)」として分析されている[20]。

この観点から見ると、文理区分は「人間の能力を読み取るラベル」というより、その後にどの能力を獲得できるかを決める機会配分装置である。分類後に、どの教師に教わるか、どの教科を何時間学ぶか、どの大学を受けられるか、どの仲間集団に入るか、何を自分の得意分野だと思うかが変わる。学校は分類してから教育しているのではない。分類そのものを通じて教育している

さらに、分類者には運営上の利益に加えて認識論的利益がある。文系コースの生徒に高度な数学を教えない。数年後、理系コースの生徒のほうが数学成績が高くなる。そこで「理系の生徒は元々数学的能力が高い」と結論する。制度が生産した差が、自然な差として再解釈される。この過程は、分類→資源配分の差→成果の差→分類の正当化、という自己強化ループであり、分類者は運営の単純化と、その単純化が生んだ差による自己正当化という二重の利益を得る。一方、分類された側の損失は「本人の適性」「本人の選択」「努力不足」として処理される。これは費用の外部化であると同時に、原因と責任のアウトソーシングである。


18.ジェンダー秩序の重畳

文理区画は、性別に中立な地図として機能するとは限らない。横山広美らのグループによる日英比較調査では、「論理的思考力」「計算能力」は男性的、「社会のニーズを捉える能力」は女性的なイメージを帯びており、こうしたジェンダー化された能力イメージが日本で特に強いことが示されている[10]。社会がすでに持っている男性性/女性性の区分が「理系/文系」という進路区分へ投影され、その結果生じた進路分布が再びステレオタイプの証拠として読まれる循環が生じる。行政区画説の言葉で言えば、ジェンダーは区画への入域条件を非公式に変更する「見えない関所」として機能している。

なお、「非理系の人々」という単一集団が存在するわけでもない。大学生42名へのインタビューに基づく岡本の研究では、理系・文系の定義やイメージは興味の対象、技能、知識生産の性質、思考過程など複数の観点に分かれ、本人の進路経験や周囲の影響を通じて個別に形成されており、万人に共通する固定的イメージは確認されなかった[21]。また、科学者への社会的評価に関する米国の研究では、科学者は「高能力だが相対的に温かさが低い」職業群として知覚され、尊敬は得ても同程度の信頼を得るとは限らないこと[22]、さらに近年の研究では、科学者への信頼を説明するうえで親しみやすさ以上に道徳性と能力の評価が重要であること[23]が示されている。外部が問うているのはしばしば「この人は正しい計算ができるか」ではなく、「この人は誰の利益を考えているか」「不確実性を正直に説明するか」である。理系側が「能力の問題」と考える場面で、外部は「目的・利害・責任の問題」を見ている──これは文理対立が認知様式の戦争ではなく管轄権争いであることの傍証である。


19.検証可能な予測と、現時点の証拠

行政区画=費用転嫁説は、気の利いた比喩にとどまらず、反証可能な予測を生み出す。

予測1:入域条件(入試)が変われば、上流の区画も再編される。 文理が自然適性だけで決まるなら、入試制度の変更は高校のコース編成を大きく変えないはずである。実際には、文科省自身が高校の文理分けを入試への「適応」と表現しており[1]、また東洋大学経済学部が一般入試に数学必須方式を導入した事例では、入学者の学修行動・進路実績・出身校構成が変化したことが中教審ヒアリングで報告されている[24]。入試という「関所」の変更が、川上の履修行動と川下の成果を動かすのである。

予測2:選択前の能力を統制しても、異なるコースに入った生徒は後に異なるものとなる。 同程度の初期能力・関心を持つ生徒が、学校事情等で異なるコースへ進んだ場合、後の技能・自己認識・専攻選択に差が生じるはずである。確定には縦断研究・自然実験・制度変更前後の比較が必要であり、これは今後の実証課題である。

予測3:同じ内容でも、所属区分が自己認識を変える。 同じ統計・プログラミング・実験手法を学んでいても、「文学部」「総合政策学部」「情報学部」「理工学部」のどこに所属するかで、文理自己認識や応募先が変わるはずである。

予測4:選択を遅らせ、越境科目を保証すると、二群差の一部が縮小する。 早期の履修分断が差を増幅しているなら、共通基礎教育を長く維持する制度では数学忌避・科学忌避が弱まるはずである。

予測5:境界領域ほど、分類が内容より制度に依存する。 経済学・心理学・情報学・認知科学・建築・デザインでは、実際の研究方法より、所属学部・受験科目・大学内組織によって文理ラベルが変動しやすいはずである。これが支持されれば、文理は学問内容の自然分類ではなく組織上の管轄分類だという証拠になる。

予測6:個別の呼びかけより、少数派費用を集団的に下げる介入のほうが越境を増やす。 シェリング動学が働いているなら、「学際的になろう」という個人向けの啓発はほとんど効かず、越境者を一定人数の集団として受け入れる枠、少数履修でも閉鎖されない科目、制度側が負担する補習など、先駆者費用を直接下げる設計のほうが履修分布を動かすはずである。逆に、啓発だけで分布が動くなら、分離の主因は費用構造ではなく選好だったことになる。

現時点で、文理選択が早期に行われること、入試制度と高校のコース分けが連動すること、コース分け後に履修内容が異なること、文理ラベルが自己認識や進路選択に関係すること、ジェンダー等の社会的期待が選択に関与することは、比較的強く支持されている[1][2][10][21]。一方、文理区分そのものが卒業時の能力差の何%を作るのか、どの年齢での区分が最適か、二分法を廃止した場合の行政コストと教育効果、自己ラベルの独立効果は、まだ十分に因果推定されていない。また「理系は全員コミュニケーションが苦手」「文系は全員数学的に考えられない」といった人格一般化に強い実証的根拠はない[21]。行政区画説は、文理の制度的実体を説明する仮説としては強い一方、個人の人格を二分する理論として用いるべきではない。


20.規範的含意──分類者負担原則と移行費用

分類制度をすべて廃止することは、現実的でも望ましくもない。医療診断・福祉給付・障害者支援・教育上の個別支援のように、分類によって初めて資源や権利が配分される場合もある。高度な数学・物理・実験には順序立った履修・設備・教員が必要であり、ある程度の専門化は合理的である。分類には経路制御・資源配分・情報圧縮・シグナリングというプラスの機能がある。

したがって問題は、分類の存在ではなく、利益と費用の不一致である。正当な分類制度には、少なくとも次の条件が必要だと考えられる。

第一に、分類による限界費用を分類者に内部化させること。例外対応・移行支援・補習・誤判定訂正・異議申立ての費用を制度側の予算に含める。学校が早期の文理分けを行うなら、文転・理転のための十分なサポートを制度として保障する。

第二に、誤りの訂正責任を分類者に置くこと。本人に「自分が例外であること」を全面的に証明させるのではなく、重大な不利益を与える側に分類の必要性と妥当性を説明させる。

第三に、分類を可逆的にすること。一度の分類が将来の全場面へ持ち越されないようにする。分類の正確性を上げるより、間違っても容易に変更できる制度にするほうが重要である。

第四に、分類目的を限定すること。高校の履修上の便宜で付けられた「文系」というラベルを、採用時の人格・論理力・職業適性の判断にまで再利用しない。ある目的に有効な分類が、別の目的にも妥当とは限らない。

第五に、分類による利益を分類対象へ還元すること。分類が専門教育や個別支援を可能にするなら、その利益が本人へ届かなければならない。単に組織の選別コストを下げるだけの分類は、正当化が弱い。

要するに、分類によって利益を得る主体が、分類によって発生する移行・訂正・救済費用を負担するという原則である。環境政策における「汚染者負担原則(Polluter-Pays Principle)」[25]の分類版として、これを分類者負担原則(Classifier-Pays Principle)と呼ぶことができる。

さらに、第16節のシェリング動学は、この原則にもう一段の拡張を要求する。シェリング型の問題では、個人に「文理を越境しよう」「学際的になろう」と呼びかけるだけでは不十分である。最初の越境者ほど高い費用を負うからである。越境者が少ない段階では

$$
\text{個人の越境便益}<\text{個人の越境費用}
$$

であっても、一定人数が同時に越境すれば

$$
\text{集団としての越境便益}>\text{集団としての越境費用}
$$

となり得る。これは意欲の問題ではなく協調失敗の問題であり、必要なのは個人の勇気ではなく協調失敗を解く制度設計である。具体的には、越境者を一人ずつ扱わず一定人数の集団として受け入れること、文転・理転の補習費用を制度側が負担すること、共通基礎科目を長く維持すること、少数履修でも科目を閉鎖しないこと、複数の入試経路を用意すること、越境者の履修衝突を学校側が解決すること、区分を変更しても卒業年限が延びないようにすること等である。シェリング自身、複数の安定状態の間を移るには個別行動ではなく大きな攪乱や協調行動が必要になり得ると論じている[27][28]。

つまり分類者負担原則は、誤分類の補償だけでなく、望ましい混合均衡へ移るための初期移行費用を制度側が負担するところまで拡張されなければならない。悪い均衡は個人の善意では抜けられない。均衡を選ぶ力を持つ者が、均衡を移す費用を払うべきである。


21.結論

「日本の文系・理系は準行政区画である」という仮説は、次のように、より精密に表現できる。

日本の文系/理系は、知能の自然分類ではなく、教育資源・履修科目・入試機会・学部所属・職業導線を配分するための準行政的ゾーニングである。その最大の特徴は、人間の差を分類するだけでなく、分類した後に人間の差を作ることにある。

そして、この記述的仮説の先にある規範的命題は次の通りである。

分類制度の本質的問題は、現実を粗く表現することではない。分類者が、現実を粗く扱うことで得られる便益を内部化し、その粗さによって生じる誤差・適応・機会損失・訂正費用を、分類対象へ外部化できることである。

日本の文理区分について言えば、それは大学・高校・企業が負うべき調整の複雑性を、生徒個人の履修制限と人生の経路依存へ変換する制度と表現できる。

そして、行政区画論とシェリング動学を統合した最終命題はこうなる。

日本の文理区分は、学校・大学・企業が多次元的な人間を処理するために引いた行政的境界である。その境界は、履修資源・仲間・情報・入試可能性・職業経路を区画ごとに集中させる。その結果、各人が局所的な費用を避けて合理的に行動するだけで、文理分離は自己強化される。分類者は行政上の便益だけでなく、境界を強制・維持する費用まで節約し、その費用を越境者・少数派・境界的人間へ転嫁する。

圧縮すれば、行政区画説は誰が境界を引くかを説明し、シェリング動学はその境界がなぜ住民自身の選択によって自己増殖するかを説明する。そしてここから導かれる最も重要な帰結は、「本人が選んだ」という事実は制度側を免責しないということである。問われるべきは、本人がその選択をするような局所的費用構造を誰が設計したか、である。

したがって、本当の対立軸は「文系か理系か」でも「二分法が正確か不正確か」でも「自然な違いか社会的構築か」でもない。本当の問いは次の四つである。

  1. 誰のために単純化しているのか。

  2. その単純化の残差を誰が引き受けているのか。

  3. 誤ったとき、誰が訂正費用を払うのか。

  4. 分類から利益を得る者が、その費用を負担しているか。

文系/理系の区別を、「部族」と呼ぶよりも「行政区画」と見ることが適切なのは、文化的同質性より先に制度的配分があるからである。「カースト」よりも行政区画が適切なのは、境界が一応は越えられ、機能的合理性も存在するからである。そして単なる「地図」より行政区画が適切なのは、この地図が、道路・学校・関所・住所・住民意識まで実際に作ってしまうからである。

本稿では、最も単純な二分法(文系/理系)を前提に分析を行った。文理区分が自然種でなく行政区画なのであれば、研究領域との齟齬や、もっと具体的には、数学を必要とする「文系」学部・学科の問題を考えるなら、二分法をやめ、せめて3つまたは4つに分類することは当然考えられる。その際、コスト負担の増大を理由に分類する側の抵抗が予想されること、それに対抗して「ではそのコストはこれまで誰が負担させられてきたか」という反論が可能であることは、本稿の仮説と分析から導き出される。3or4分類が採用された世界でも、行政区画説とシェリング動学は有効だと思われる。しかし本稿では軽く触れるにとどまった分類される側のアイデンティティの問題は別途検討が必要である。

最後に結論をまとめる。

文系/理系は自然種ではなく、制度上の「住所」である。
境界は人工的だが、境界効果は現実である。
そして文理区分の最大の不正は、人間を二種類に分けることそのものより、二種類に分けることで制度が節約した費用を、分けられた人間の人生に請求していることにある。


文献注

[1] 文部科学省「高等学校教育の現状について」(中央教育審議会関連配付資料、2021年)。高校の3校に2校(66%)が文理コース分けを実施していること、高校3年で理系コース履修者が約32%であること等のデータを掲載。https://www.mext.go.jp/content/20211207-mxt_koukou02-000019354_01.pdf

[2] 国立教育政策研究所『中学校・高等学校における理系選択に関する研究 最終報告書』2013年3月。文理選択の時期、選択要因(教科の得意・不得意、周囲の影響等)に関する全国調査。

[3] Scott, J. C. (1998). Seeing Like a State: How Certain Schemes to Improve the Human Condition Have Failed. Yale University Press.

[4] Bowker, G. C., & Star, S. L. (1999). Sorting Things Out: Classification and Its Consequences. MIT Press.

[5] Hacking, I. (1995). "The Looping Effects of Human Kinds." In D. Sperber, D. Premack, & A. J. Premack (Eds.), Causal Cognition. Oxford University Press; Hacking, I. (1999). The Social Construction of What? Harvard University Press.

[6] 高等学校令(大正7年12月6日勅令第389号)第八条「高等学校高等科ヲ分チテ文科及理科トス」。文部科学省ウェブサイト掲載の条文による。https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318057.htm

[7] 旧制高等学校高等科における文科・理科および甲類・乙類・丙類の編成については、第二次高等学校令とその運用に関する教育史記述を参照。

[8] 隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社新書、2018年。

[9] 中央教育審議会大学分科会「教学マネジメント指針(追補)」2023年1月。データサイエンス系・情報系・経済系学部等における入学者選抜での数学の取扱いに関する記述。関連して、経済系学部の一般選抜で個別学力検査の数学を必須とする募集区分が1割に満たないとする調査結果が審議資料で示されている。

[10] 横山広美『なぜ理系に女性が少ないのか』幻冬舎新書、2022年。および Ikkatai, Y., et al. による日英比較調査(「論理的思考力」「計算能力」等の能力イメージのジェンダー化に関する一連の研究)。

[11] Spearman, C. (1904). "'General Intelligence,' Objectively Determined and Measured." American Journal of Psychology, 15(2), 201–292. 正の多様体に関する古典的出発点。

[12] Coyle, T. R., Snyder, A. C., & Richmond, M. C. (2015). "Sex differences in ability tilt: Support for investment theory." Intelligence, 50, 209–220. ほか、tilt と専攻・職業選択の関連に関する一連の研究。

[13] Wang, M.-T., Eccles, J. S., & Kenny, S. (2013). "Not Lack of Ability but More Choice: Individual and Gender Differences in Choice of Careers in Science, Technology, Engineering, and Mathematics." Psychological Science, 24(5), 770–775.

[14] Börner, K., Klavans, R., Patek, M., Zoss, A. M., Biberstine, J. R., Light, R. P., Larivière, V., & Boyack, K. W. (2012). "Design and Update of a Classification System: The UCSD Map of Science." PLoS ONE, 7(7), e39464.

[15] OECD (2015). Frascati Manual 2015: Guidelines for Collecting and Reporting Data on Research and Experimental Development. OECD Publishing.(研究開発分野分類 Fields of R&D)

[16] Herd, P., & Moynihan, D. P. (2018). Administrative Burden: Policymaking by Other Means. Russell Sage Foundation.

[17] Milli, S., Miller, J., Dragan, A. D., & Hardt, M. (2019). "The Social Cost of Strategic Classification." Proceedings of the Conference on Fairness, Accountability, and Transparency (FAT*), 230–239.

[18] Liu, L. T., Dean, S., Rolf, E., Simchowitz, M., & Hardt, M. (2018). "Delayed Impact of Fair Machine Learning." Proceedings of the 35th International Conference on Machine Learning (ICML).

[19] Domina, T., Penner, A., & Penner, E. (2017). "Categorical Inequality: Schools as Sorting Machines." Annual Review of Sociology, 43, 311–330.

[20] Fourcade, M., & Healy, K. (2013). "Classification Situations: Life-Chances in the Neoliberal Era." Accounting, Organizations and Society, 38(8), 559–572.

[21] 岡本紗知(2021)「文系・理系の壁の生成過程の解明──大学生42名のインタビュー調査より」『科学教育研究』45巻。大学生の文理観・文理イメージの多様性と形成過程に関する質的研究。

[22] Fiske, S. T., & Dupree, C. (2014). "Gaining trust as well as respect in communicating to motivated audiences about science topics." PNAS, 111(Supplement 4), 13593–13597.

[23] Gligorić, V., van Kleef, G. A., & Rutjens, B. T. (2024). 45種類の科学者に対する信頼を、能力・道徳性・親しみやすさ等の社会的評価から説明する研究。PLOS ONE 掲載。

[24] 児玉俊介「東洋大学経済学部経済学科における数学必須入試」中央教育審議会大学分科会振興部会ヒアリング資料、2022年7月。数学必須入試導入後の学生の学修状況・進路・出身校構成の変化に関する報告。https://www.mext.go.jp/content/20220711-mxt_koutou01-000023957_3.pdf

[25] OECD (1972). Recommendation of the Council on Guiding Principles concerning International Economic Aspects of Environmental Policies.(汚染者負担原則)

[26] Schelling, T. C. (1969). "Models of Segregation." American Economic Review, 59(2), 488–493.

[27] Schelling, T. C. (1971). "Dynamic Models of Segregation." Journal of Mathematical Sociology, 1(2), 143–186. ミクロ動機とマクロ結果の非対応、境界近隣モデルの職業・大学等への拡張可能性、組織的・経済的分離の除外に関する留保、複数均衡間の移行に協調行動が必要となり得ることを含む。

[28] Schelling, T. C. (1978). Micromotives and Macrobehavior. W. W. Norton.(邦訳:シェリング『ミクロ動機とマクロ行動』勁草書房、2016年)

[29] The Royal Swedish Academy of Sciences (2005). スヴェリエス・リクスバンク経済学賞(アルフレッド・ノーベル記念)授賞理由。オーマンとシェリングに対し「ゲーム理論分析を通じて対立と協力への理解を深めた」ことを理由とする。分居モデル単独への授賞ではない。


本稿の実証的記述のうち、日本の制度データ(コース分け実施率、選択時期、入試科目の実態)は文部科学省・国立教育政策研究所の公表資料に依拠する。理論的枠組み(可読性・分類インフラ・ループ効果・行政負担・戦略的分類・選別機械・分類状況)はそれぞれの原典に依拠するが、それらを「準行政区画」および「分類者負担原則」として統合する構成は本稿の提案である。海外研究(能力の傾き、科学者への信頼等)は日本の文理制度を直接検証したものではなく、メカニズムの存在可能性を示す傍証として引用している。シェリング・モデルの文理制度への適用(第16節)も同様に理論的拡張であり、日本の文理分離の因果構造を同モデルが実証済みであることを意味しない。

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