生きた証は、関係の中に残り続ける|映画『ブルームーン』考察
「ブルームーン」はロレンツ・ハートという実在の人物を描いた作品だが、いわゆる伝記映画とは違う感触がある。
大きな事件が起こるわけでもなく、場面転換もほとんどない。レストランでの会話が延々と続いていく。嵐のような会話の文字量、表情、仕草にすべてが詰まっていて、気づいたら舞台を観ているように、この映画を浴びていた。
とにかくロレンツ・ハート(ラリー)は喋り続けている。バーテンのエディ、弟子(というかミューズ)のエリザベス、元相棒のリチャード・ロジャース、たまたま居合わせたE.B.ホワイト、ピアノを演奏しているモーティ、ロジャースの今の相棒オスカー・ハマースタイン2世。誰彼構わず物怖じせず話しかける。
歓迎されているわけでもなく、みな「ちょっとめんどくさいやつだな」という顔をする。それでもラリーは構わない。下卑た下ネタさえも「ユーモア」として織り交ぜていく。それでも誰も彼の話を遮らない。むしろ、なんだかんだ最後まで聞いてしまう。
これは、ラリーが成功してきた人間であること、その成功を裏付ける知性と才能、そして言葉のユニークさを持っているからだろう。また自分の強いスタンスをそのまま差し出せる人間であり、自負の表れでもある。
ただし、唯一無二のエリザベス、元相棒のロジャースはラリーにとって特別な存在であり、例外だ。彼はこの二人に対してだけは「どう受け取られるか」を無視できず、彼らの反応に「一喜一憂」するのである。
ラリーはロジャースに対して、成功への嫉妬や羨望、駆け出し時代を共に過ごした仲間意識を抱いている。一方のロジャースも「僕の今日の成功は、君と組んでいた過去があるからだ」と強い恩を感じている。
ただし、その関係は過去のままではいられない。「君が深酒で昼まで寝ているから、僕は仕事の電話を君のママにしなければいけなかった。もうごめんだ。僕は仕事がしたいんだ。」という言葉には、彼の率直な線引きがある。
だからこそロジャースは、ラリーにもう一度仕事の機会を提案する。しかしその形は完全な新作ではなく「新曲をいくつか追加した『コネチカット・ヤンキー』の再演」である。そこにはロジャースの優しさと同時に、「どうすれば成立するか」を見極める現実的な目がある。ロジャースはラリーに「何をやりたいか」ではなく、「どうすれば作品として世に出せるか」という現実的な視点で手を差し伸べている。
一方でラリーは、自分の美学を手放せない。「無害な芸術なんて誰が欲しがるんだ!」という言葉にそれがよく表れている。彼にとって芸術は「知性とウィットに富むものであるべき」であり、自分の感性を理解できる者にだけ伝わればいいと思っている。
しかし戦時中という時代の中で、人々が求めていたのはロジャースの言うような「分かりやすく前向きな物語」だった。「オクラホマ!」の成功は、その事実を決定づけている。
自分の美学と時代がもとめるものがズレてきている。ラリー自身もそれを理解している。それでも認めることができない。なぜなら、それは自分の価値を否定することに等しいからだ。
エリザベスとの関係は、この映画の核にかなり近い。
ラリーは彼女のことを「唯一無二のエリザベス」と呼ぶ。そこには、自分が求めている「唯一無二で特別な愛」を、そのまま返してほしいという願いがある。
ここでもまたズレが起きる。エリザベスは同級生との恋に傷ついている最中で、それでもなおその相手に恋をしている。そしてラリーに対しては「愛しているけど、そういう意味ではない(not that way)」と言う。これはかつてのミューズであるヴィヴィアンにプロポーズした時に言われた「僕の愛を終わらせたたった三つの単語」と全く同じ「not that way」だったのだ。ラリーにとっては、繰り返される拒絶でもある。
またエリザベスが「母があなたのことを男性しか愛せないと言っている」というと、ラリーは「君のママは僕の心まで理解しているのか」と返し、その表情には怒りと同時にどうしようもない落胆が滲む。
それでもラリーはエリザベスと関係を築きたい。だからこそ、ラリーはエリザベスに紹介してほしいと言われて、本当は紹介したくないであろうロジャースを紹介するし、ラリーにとっては些末なことだが、彼女が紹介してきた友人に挨拶をしサインに応じるのである。
エリザベスはラリーを大切に思っているが、ラリーが望む形ではない。
ロジャースにも同じことが言える。彼はラリーを尊重しているが、「今を共に進む相手」としては見ていない。
ラリーは常に人に囲まれている。それでも満たされないのは、「大衆に受け入れられること」ではなく、「特別だと認めた一人に選ばれる関係」を求めているからだ。これは前述した通り、まさに彼の仕事へのスタンス(自分の感性を認めてくれる者だけにわかれば良いし、そういった者と関係を築きたい)と同じであり、美学そのものなのである。
ラリーの言葉は決して誰にも届いていないわけではない。
E.B.ホワイトは、ラリーが語った「19階に何度も戻ってくるネズミ」の話に興味を示し、それがのちに「スチュアート・リトル」へとつながっていく。またエリザベスの友人であるジョージ・ロイ・ヒルも、ラリーの「恋愛ものはやめておけ、友情の話にしろ」という助言を受け、のちに「明日に向かって撃て!」を生み出す。
ラリーの言葉や発想は、他者の中に残り形を変えて生き続けていく。ただしそれは、ラリー自身が望んでいた「特別な関係」の中で返ってくるものではない。
しかし、意図していない関係性の中に残るものでさえ「生きた証」と言えるのではないだろうか。ラリーに関わった人々が、それぞれに作品を生み出し、その作品は時代を超える。そして「ブルームーン」もまた、色褪せずに歌い継がれていく。
ラストに店内で「ブルームーン」の演奏と歌声が重なっていく中で、ラリーはまた語り出す。その姿はどこかいつも通りで、何かが解決したようには見えない。
ラリーを取り巻く人々もまた、彼を変えることも救うこともできない。ただその場で見守り続ける。
その距離感は、どこか「ブルームーン」という存在にも重なる。そしてこの作品を見守る我々もまた、「ブルームーン」の視点で彼を見つめているのである。
ねえ ブルームーン 君は見ていたんだね
Blue moon, you saw me standing alone
僕が独りたたずんでいた夜を
Without a dream in my heart
心に抱く夢もなく 愛する人もいない
Without a love of my own
ねえ ブルームーン 君は知っていたんだね
Blue moon, you knew just what I was there for
僕がそこにいたわけを 聞いていたんだね
You heard me saying a prayer for
心から大切に思える特別な人のための祈りを
Someone I really could care for
余談
この作品では、レストランで行われているパーティー中、ピアノ演奏をしている設定なので、作中ずっと往年のジャズナンバーや有名なミュージカル曲が流れているのだが、これがまた自然で非常にいい。昨今の映画において、過剰な音楽演出による感情の扇動がちょっとしんどくなっていたので、感情面でもフラットな状態で鑑賞できたのが良かった。また繋ぎ目のない音楽がワンロケーションと重なることで、舞台を観ているような、自分がその場にいるような、そんな不思議な感覚が得られ稀有な体験となった。
また冒頭のラリーの訃報のニュースがあるが、これがラストであれば「過去の成功者が時代や友人、そして恋にも取り残される悲しい話」で終わってしまう。構成が作品の印象や余韻に大きく寄与しているなと思う。
ラリー自身は決して満たされていないが、観客からすれば「これだけのものを残している」と思える。このズレが「成功者の斜陽」のような悲壮感を拭い去り、心地の良い余韻を我々に残していくのであろうと思う。
4/19 8:00 加筆 17:00 引用タグ追加
