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『帰る場所を決めるまで』 第16話 本当の家を見る

退院前訪問の日。

病院の玄関前には、いつもより少し多い人数が集まっていた。

隆三。

美和。

悠真。

奈緒。

慎吾。

高田。

隆三は一本杖をつき、腰にはコルセットを着けている。

外へ出るのは、入院してから久しぶりだった。

「寒ないか」

美和が聞く。

「大丈夫や」

「ほんまに?」

「何回聞くねん」

「家着いてからしんどい言うても知らんで」

「言わん」

悠真が横で聞きながら、少し笑った。

「疲れたら言ってくださいね」

隆三が振り返る。

「お前までか」

「はい」

「分かっとる」

高田が、手元の資料を確認する。

「では、今日は無理せずいきましょう」

隆三が言う。

「家帰るだけや」

慎吾が笑った。

「西岡さんにとっては、そうですよね」

けれど、悠真たちにとっては、今日が大きな確認の日だった。

これまで、日常生活訓練室で何度も家に近づけてきた。

段差。

トイレ。

浴室。

台所。

布団。

夜間の移動。

杖の使い方。

疲労した時の変化。

できるだけ多くのことを、病院の中で考えてきた。

それでも、今日見るのは、その再現ではない。

隆三が、長く暮らしてきた本当の家だった。

車が住宅街へ入る。

隆三は、窓の外を見る時間が少しずつ長くなった。

「あそこ」

隆三が指をさす。

「昔、酒屋あったんや」

美和が言う。

「もうないで」

「知っとる」

「ほな何で言うん」

「昔あったって言うただけや」

車内に、小さな笑いが起きた。

角を一つ曲がる。

その先に、隆三の家が見えた。

古い二階建ての家。

特別大きくはない。

けれど、隆三が長く暮らしてきた場所だった。

「着きましたよ」

慎吾が言う。

隆三は、しばらく窓の外を見ていた。

返事はしなかった。

車が止まる。

美和が先に降りる。

悠真も車を降り、隆三の側へ回った。

「どうです?」

「何がや」

「疲れてないですか?」

「まだ何もしてへん」

「そうですね」

隆三が車から立ち上がる。

一本杖をつく。

姿勢を整える。

悠真は、すぐに手を出さなかった。

隆三自身が、足元と身体の位置を確認する。

そして、玄関へ向かって歩き始めた。

病院とは違う地面。

わずかな傾き。

道路から敷地へ入る小さな段差。

隆三は、一度足元を見る。

歩幅を少し小さくする。

美和がすぐ後ろにつこうとした。

悠真が、小さく手で合図する。

少し距離を取る。

美和は、そこで止まった。

隆三は、自分のペースで玄関まで進んだ。

「ここや」

誰に言うでもなく、隆三が言った。

玄関の前には、病院で聞いていたより少し高い段差があった。

奈緒がメジャーを出す。

「測らせてもらいますね」

「もう始まるんか」

隆三が言う。

「はい」

奈緒が笑った。

高さを測る。

幅を見る。

横にある下駄箱の位置も確認する。

悠真が、下駄箱へ軽く手を添えた。

少し力をかける。

下駄箱が、わずかに動いた。

悠真が顔を上げる。

隆三も見ていた。

「動くな」

「少し」

「前は動かんかったぞ」

美和がすぐに言う。

「前から動くで」

「何やそれ」

「お父さんが気づいてへんだけや」

隆三が、不満そうな顔をする。

悠真は、もう一度下駄箱を見る。

病院では、隆三が玄関で支持物として使っている可能性があると聞いていた。

実際に来てみると、固定されたものではなかった。

「ここは」

悠真が言った。

「支えとしては、ちょっと考えた方がいいですね」

「使ったらあかん?」

「今すぐ、あかんとは言いません」

悠真は答えた。

「でも、これだけを頼りにするのは少し心配です」

隆三は、下駄箱を見る。

それから、一本杖を少し近くについた。

奈緒が言う。

「じゃあ、上がってみましょうか」

隆三がうなずく。

段差の前で止まる。

杖の位置を決める。

足元を見る。

病院で何度もやった動き。

けれど、高さも、幅も、床の感触も違う。

一歩。

身体が少し前へ傾く。

悠真が半歩近づく。

隆三は、

一度止まった。

杖をつき直す。

もう一度。

ゆっくり、玄関を上がった。

靴を脱ぐ。

家の中へ、一歩入る。

その瞬間、隆三の動きが止まった。

廊下の先。

居間。

棚。

壁にかかった写真。

病院にはなかったものが、そこにある。

隆三は、一枚の写真へ目を向けた。

若い頃の隆三と、隣に立つ妻。

美和も、それに気づいた。

誰も、すぐには声をかけなかった。

隆三は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「変わっとらんな」

美和が言う。

「そら、そんな変えてへんもん」

隆三はすぐに聞く。

「勝手に動かしてへんやろな」

「着いて一言目それ?」

「大事や」

美和が、呆れたように笑った。

そのやり取りで、少しだけ空気が戻った。

悠真たちは、そこで長く立ち止まらなかった。

確認したいことは多い。

奈緒が、隆三に声をかける。

「まず、いつもの寝る場所から見せてもらっていいですか?」

「こっちや」

隆三が先に歩き始める。

病院では一本杖を使っていたが、家の中は思ったより狭い。

家具も多い。

廊下の幅も、杖をつく位置によっては、少し気をつかう。

隆三は、数歩進んだところで、杖を身体に近づけた。

悠真は、その動きを見ていた。

杖があるから安全。

そう単純ではない。

環境によっては、杖のつく位置そのものが変わる。

寝室へ入る。

床には、布団を敷く場所が空いていた。

壁際に、低いタンスがある。

奈緒が近づく。

「これですね」

「そうや」

「普段、布団はこの辺ですか?」

「ここ」

隆三が指をさす。

奈緒が床を見る。

タンスとの距離。

通路。

立ち上がった時に、足を広げられるスペース。

悠真が、タンスへ軽く手をついた。

大きくは動かない。

ただ、高さは病院で想定していたより低い。

「思ってたより低いですね」

奈緒が言う。

「そうか?」

「はい」

隆三は、自分のタンスを見る。

毎日使っていたものほど、高さなど意識したことはない。

美和が言う。

「布団、敷こか?」

隆三が首を振る。

「今日はええやろ」

悠真は、少し考えた。

病院では、床からの立ち上がりを何度も確認している。

今日は、その動作をまた全部やらせることが目的ではない。

その動作が、実際の環境で成立しそうか。

どこにつかまるのか。

どこに杖を置くのか。

その方が大事だった。

「そうですね」

悠真は答えた。

「今日は、場所を中心に見ましょう」

隆三が少し得意そうな顔をする。

「ほら」

「何がです?」

「何でもやらせるわけちゃうんやな」

「疲れますから」

「分かっとるやん」

奈緒が笑う。

「疲れる前に、次行きましょう」

次は、寝室からトイレまでの動線だった。

隆三が歩き始める。

寝室を出る。

廊下へ出る。

少し進む。

曲がる。

その途中に、小さな段差があった。

病院で聞いていたとおりだった。

けれど、実際に見ると、思っていた以上に目立ちにくい。

床材の色も近い。

昼間でも、一瞬分かりにくい。

奈緒がしゃがむ。

「ここですね」

隆三が言う。

「こんなん、段差いうほどでもないやろ」

悠真が、立った位置から見る。

「確かに小さいです」

「ほら」

「でも」

隆三が顔をしかめる。

「またや」

美和が笑う。

悠真も少し笑った。

「小さいからこそ、気づきにくいんですよね」

奈緒がメジャーを当てる。

高さを確認する。

慎吾が、隆三と美和へ聞いた。

「ここ、写真撮らせてもらっていいですか?」

隆三がうなずく。

「そこだけやぞ」

「必要なところだけです」

写真を一枚撮る。

次に、照明を見る。

スイッチは、寝室を出て少し進んだ位置にあった。

悠真が、寝室の入口へ戻って立つ。

「これ」

奈緒も位置を見る。

「寝室から出た時点では、まだスイッチに届かないですね」

隆三が言う。

「そやけど、慣れとるから」

美和がすぐに言う。

「それで転んだんやろ」

隆三が黙る。

美和も、言ったあと少し表情を変えた。

悠真は、二人を見る。

「ここは、照明のつけ方も含めて持ち帰って考えたいです」

美和が聞く。

「センサーみたいなんもあるん?」

高田が答える。

「方法はいくつかあります」

「じゃあそれにしたら」

「今日はまだ決めません」

隆三が笑う。

「またや」

高田も笑った。

「今日は、どこが暗くなるのかを確認する日です」

隆三は、少し考えてからうなずいた。

トイレへ入る。

便座の高さ。

壁までの距離。

扉の開き方。

手をつけそうな場所。

隆三が、一本杖を持ったまま中へ入る。

向きを変える。

その時、杖が少し邪魔になる。

隆三自身が止まった。

「ここ、杖邪魔になるな」

悠真がうなずく。

「そうですね」

「病院より狭いやろ」

「狭いです」

「ほら」

隆三が言う。

「家来たら分かるやろ」

悠真は、少し笑った。

「ほんとですね」

隆三は、杖の位置を変える。

壁際へ立てかける。

それから、ゆっくり向きを変えた。

奈緒が聞く。

「その置き方、普段もできます?」

隆三が壁を見る。

「どうやろな」

「そこも考えましょう」

奈緒は、杖を置けそうな場所を確認する。

その場で、答えは決めない。

必要なことだけを、一つずつ集めていく。

次は、台所だった。

美和が先に扉を開ける。

「ここは、ちょっと狭いで」

「知っとる」

隆三が言う。

冷蔵庫。

流し。

小さな作業台。

食器棚。

病院で再現していたものより、ずっと生活感がある。

物もある。

通路も、思っていたより狭い。

奈緒が、歩ける幅を確認する。

悠真も横から見る。

「椅子置くなら」

奈緒が言う。

「ここかな」

隆三がすぐに言った。

「そこ置いたら冷蔵庫開かんぞ」

奈緒が止まる。

実際に冷蔵庫を開ける。

確かに、椅子を置けば邪魔になる。

奈緒が少し笑った。

「ほんとですね」

隆三が得意そうな顔をする。

「住んどる人間の方が分かっとる」

奈緒は、そのままうなずいた。

「そういうこと、もっと教えてください」

隆三が少し驚いた顔をする。

「怒らんの?」

「何でです?」

「せっかく考えたのに、ちゃう言うたから」

奈緒は笑った。

「違ったら、考え直します」

悠真は、その横で聞いていた。

退院前訪問の準備をしていた時、奈緒と話していたことと同じだった。

予想を当てに来たのではない。

実際の家を見て、考え直すために来た。

美和が、台所の端に立つ父を見る。

「お父さん」

「何や」

「そこで料理するん?」

「前からしとる」

「座る場所ないやん」

「別に立ってやったらええ」

奈緒が聞く。

「最近、病院では座ることもありますよね」

隆三が、少し黙る。

「疲れた時だけや」

美和が父を見る。

「座っとるん?」

「たまにな」

「前は絶対座らんかったやん」

隆三が、少し面倒そうな顔をする。

「今は今や」

美和は、それ以上何も言わなかった。

けれど、父を見る目が少し変わった。

高田が台所を見る。

「椅子は、置くなら場所を考えないとですね」

「置かんでもええぞ」

隆三が言う。

「それも含めて」

高田は笑った。

「病院でまた考えましょう」

隆三は、もう反論しなかった。

最後に、浴室を確認した。

入口。

洗い場。

浴槽。

病院で聞いていたとおり、浴槽はやや深い。

悠真は、中を見てすぐに思った。

ここで、無理に浴槽をまたがせる必要はない。

隆三はすでに、玄関から寝室、トイレ、台所と歩いている。

ここまででも、十分に動いている。

疲労も考えなければならない。

「ここは」

悠真が言った。

「今日は、無理に浴槽をまたがなくていいと思います」

隆三が浴槽を見る。

「やらんの?」

「はい」

「できるか見んでええんか」

奈緒が答える。

「病院では確認していますから」

「今日は、家の浴室そのものを見たいです」

奈緒が、メジャーを出す。

浴槽の高さ。

洗い場との位置関係。

入口の幅。

壁までの距離。

手すりをつけるなら、どこが候補になりそうか。

高田も、その位置を確認する。

慎吾が、もう一度許可を取ってから写真を撮る。

隆三が、浴槽を見ながら言う。

「ここ、手すりあったら違うやろな」

悠真が答える。

「そう思います」

「つける?」

「候補ですね」

「まだ決めん?」

「はい」

隆三が笑った。

「分かっとったわ」

一通り確認を終えたあと。

悠真は、少し離れたところから家の中を見回した。

玄関。

寝室。

夜間のトイレ動線。

台所。

浴室。

病院で聞いていたことは、大きく外れてはいなかった。

けれど、同じでもなかった。

玄関の段差は、思っていたより高かった。

下駄箱は、思っていたより動いた。

夜間の段差は、思っていたより見えにくかった。

照明のスイッチは、思っていたより遠かった。

トイレは、思っていたより狭かった。

台所は、椅子を置けば別の動線を邪魔した。

浴槽は、やはり深かった。

一つ一つは、小さな違いだった。

けれど、生活ではその小さな違いが重なる。

奈緒が、記録を見ながら言う。

「来てよかったね」

悠真がうなずいた。

「はい」

隆三が聞く。

「何がや」

悠真は、少し笑った。

「病院で考えてたことと、同じところもあったんですけど」

「うん」

「違うところもありました」

隆三が、家の中を見る。

「そらそうや」

「はい」

悠真は答えた。

「家ですから」

隆三は、少しだけ笑った。

病院では、家に近づけることはできた。

高さを変える。

幅を想定する。

家具を置く。

手すりを使う。

何度も試してきた。

それでも、実際の家にはその家にしかない狭さがあり、その家にしかない段差があり、その家にしかない物の置き方があった。

そして、そこで暮らしてきた人にしか分からない使い方もあった。

だから、来て見る意味があった。

答え合わせをするためではない。

違っていたところを見つけて、また考え直すために。

悠真たちは、ようやく隆三が帰りたいと言っていた場所を、本当の意味で見始めていた。

第17話へつづく。

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