『帰る場所を決めるまで』 第17話 帰りたいと言えるまで
一通り家の中を見終えた頃、隆三は居間の椅子に座っていた。
一本杖は、右手を伸ばせば届くところに置いてある。
家に着いた時より、身体の動きは少しゆっくりしていた。
悠真は、少し離れたところからその様子を見ていた。
玄関。
寝室。
トイレ。
台所。
浴室。
歩いた距離だけなら、それほど長いわけではない。
それでも、普段とは違う場所で一つ一つ動きを確認しながら歩く。
立ち止まる。
向きを変える。
話を聞く。
自分の家とはいえ、
入院してから久しぶりの環境だった。
身体だけでなく、頭も使っている。
「西岡さん」
悠真が声をかける。
「疲れました?」
隆三が、椅子の背にもたれたまま答えた。
「ちょっとな」
「腰は?」
「だるいくらいや」
「痛みは強くない?」
「そこまではない」
「足は?」
隆三が、一度自分の太ももをさすった。
「少し重いな」
「息苦しさは?」
「ない」
悠真はうなずいた。
呼吸。
表情。
姿勢。
言葉の速さ。
ここまで見てきた動作も含めて、今の隆三をもう一度見る。
家に着いた時とは、少し違う。
けれど、隆三は自分から椅子に座っている。
「誰かに言われて座ったんですか?」
悠真が聞いた。
隆三が顔を上げる。
「何でや」
「いえ」
「疲れたから座っただけや」
「そうですか」
「何や、その顔」
悠真は少し笑った。
「いいと思います」
「座っただけやぞ」
「はい」
「そんなんで褒めるな」
「褒めてないです」
隆三が、疑うような顔をする。
「最近そればっかりやな」
美和が、少し離れたところで二人のやり取りを聞いていた。
そして、父の横へ来た。
「お父さん」
「何や」
「自分から座るようになったんやな」
隆三が、少し嫌そうな顔をする。
「疲れたからや」
「前やったら、疲れてても座らんかったやろ」
「そんなことない」
「ある」
「ない」
「あるって」
隆三は、面倒そうに顔をそらした。
美和は、少しだけ笑った。
でも、その笑い方は、いつもの父娘の言い合いだけではなかった。
病院で何度も聞いていた。
疲れたら休む。
必要なら杖を使う。
一度止まる。
無理なら方法を変える。
けれど、それは美和にとってどこか病院の中の話だった。
今日、実際の家で父を見た。
狭いトイレでは、自分で杖の位置を変えた。
台所では、以前なら拒んでいた椅子の話にも最初から怒鳴ることはなかった。
玄関では、一度止まって杖をつき直した。
そして今、疲れたからと自分から座っている。
美和が、父の顔を見た。
「病院で何言われとるん?」
「何がや」
「前とちょっと違うから」
隆三は、しばらく答えなかった。
「無理して」
ゆっくり言う。
「あとで動けんようになるくらいやったら」
一度、足元を見る。
「休んだ方がええって」
美和は、黙って聞いていた。
「杖も」
隆三が続ける。
「使った方がええ時は使えって」
「お父さんが?」
「何や」
「聞いたん?」
隆三が眉を寄せる。
「聞いとるわ」
美和は、少し笑った。
「へえ」
「何や、その言い方」
「別に」
「腹立つな」
「でも」
美和は、少しだけ声を落とした。
「よかった」
隆三が、娘を見る。
美和は、父から目をそらさなかった。
「何でも一人でやるって言うてた時より」
少し間を置く。
「今の方が、ちょっと安心する」
隆三は、すぐには返事をしなかった。
部屋には、時計の音だけが聞こえた。
高田と慎吾は、少し離れたところで、
撮影した写真と記録を確認していた。
奈緒は、台所から戻ってくる。
誰も、父娘の会話に割って入らなかった。
やがて隆三が、小さく鼻で笑った。
「ちょっとだけか」
「全部安心したとは言うてへん」
「言うと思ったわ」
「だって怖いもん」
隆三の表情が、少し変わる。
美和は続けた。
「玄関も」
「うん」
「夜の廊下も」
「うん」
「お風呂も」
「うん」
「まだ怖い」
隆三は、今度は反論しなかった。
美和も、父が反論しないことに気づいた。
「でも」
美和が家の中を見る。
「思ってたより」
言葉を探す。
「何もできへんわけではないんやなって」
隆三が、娘を見る。
「当たり前や」
「すぐそれ言う」
「ほんまやろ」
「ほんまやけど」
美和は、少し笑う。
「病院で聞くだけやったら、分からんかった」
「何が」
「お父さんが変わってること」
隆三の眉が動いた。
「弱なったってことか」
「ちゃう」
美和はすぐに否定した。
隆三が、少し意外そうに見る。
「前より」
美和は言った。
「自分のこと見て動くようになったってこと」
隆三は、しばらく娘を見ていた。
それから、一本杖へ視線を落とした。
「面倒やけどな」
「何が?」
「いちいち考えるの」
美和が笑う。
「今まで考えなさすぎやったんちゃう?」
「うるさい」
二人の会話に、今度は悠真も少し笑った。
奈緒が近くへ来る。
「そろそろ、今日は終わりにしましょうか」
隆三が顔を上げる。
「もう?」
「もう、です」
「まだ見てないとこあるやろ」
慎吾が答える。
「あります」
「ほら」
「でも」
隆三が顔をしかめる。
慎吾が笑った。
「全部を今日、無理に確認する必要はないです」
「一日いうても、今日しか来んのちゃうんか」
高田が言う。
「今日見た内容で、かなり考えられます」
奈緒も続けた。
「それに、西岡さん、疲れてますよね」
「まだいける」
隆三が言う。
悠真は、すぐには返さなかった。
隆三の顔を見る。
座った姿勢。
足の位置。
声。
呼吸。
一時間ほど前とは違う。
「僕は」
悠真が言った。
「今日はここまでがいいと思います」
隆三が見る。
「まだできるぞ」
「はい」
「ほな」
「まだできるから、続ける」
悠真は、少し間を置いた。
「だけじゃないと思います」
隆三が黙る。
「ここまでで」
悠真は続けた。
「必要なことはかなり見られました」
「それに」
隆三の足元を見る。
「帰る時の動きも残ってますから」
「帰るだけや」
「玄関の段差ありますよ」
隆三が、少し口を閉じた。
奈緒が笑う。
「行きより疲れてる状態で、ですね」
隆三は、二人を見る。
そして、自分の足を見る。
しばらくして。
「……まあ、ええか」
誰も、その言葉を褒めなかった。
高田が、淡々と資料をまとめる。
慎吾が、写真を確認する。
奈緒が、メジャーを片づける。
それでよかった。
以前の隆三なら、「まだできる」と言ったあと、
本当に最後までやろうとしたかもしれない。
今は、できるかどうかだけで決めなかった。
悠真は、その変化を言葉にしなかった。
隆三自身が、もう知り始めているように思えた。
帰る準備をしている間、隆三は居間の中をゆっくり見回していた。
テレビ。
食卓。
食器棚。
柱。
壁にかかった写真。
妻と二人で写った写真が、
そこにある。
訪問を控えた病院で、窓の外を見ながら隆三は言った。
帰ったら、
嫁さんおらんのやな。
今、本当にその家にいる。
妻はいない。
でも、妻がいた時間は、
いくつも残っていた。
美和が、父の視線に気づく。
「それ」
写真を見ながら言う。
「まだそこに置いてるで」
「見たら分かる」
「掃除はしといたからな」
隆三が、娘を見る。
「勝手に触ったんか」
「埃取っただけや」
「ならええ」
美和が、呆れたように笑った。
「お母さんのは、触ったら怒るんやな」
隆三は、写真を見る。
「怒ってへん」
「顔が怒ってる」
「うるさい」
でも、声は強くなかった。
しばらくして、隆三が言う。
「こいつ」
美和が見る。
「何?」
隆三は、写真の妻を指した。
「物、捨てへんかったからな」
「お父さんもやろ」
「俺は必要なもんだけや」
「同じことお母さんも言うてたで」
隆三が、少し笑った。
「そうか」
「そうや」
短い会話だった。
けれど、悠真はその家にいる隆三を見ていた。
病院で聞いていた、
「妻との思い出がある家」。
それは、一つの情報だった。
今、目の前にあるのは情報ではなかった。
写真を見て、娘と昔の話をする隆三。
そこにあるものの置き場所を知っている隆三。
狭い台所で、椅子を置いたら冷蔵庫が開かないと即座に言える隆三。
それが、この家で暮らしてきた人の姿だった。
高田が、最後に確認する。
「西岡さん」
「何や」
「今日見たところは、病院に戻ってみんなで整理します」
「うん」
「手すりや照明のことも」
「うん」
「台所のことも」
隆三が少し笑う。
「まだ決めんのやろ」
高田も笑った。
「はい」
「分かっとる」
「でも」
高田が続ける。
「西岡さんが、変えたくないところも教えてください」
隆三が見る。
「変えたくないところ?」
「はい」
「危ないから変える、だけでは決めたくないので」
隆三は、少し考えた。
それから、部屋の中を見る。
「この家」
「はい」
「何でも変えられたら」
言葉を探す。
「帰った気せえへんからな」
高田がうなずいた。
「そこも大事ですね」
美和が父を見る。
「でも危ないとこは変えるで」
「全部変えるな言うとるだけや」
「分かってる」
「ほんまか」
「たぶん」
隆三が、少し笑った。
「お前が“たぶん”言うんか」
悠真も奈緒も笑った。
帰る前。
隆三は、玄関まで歩いた。
来た時より、歩幅は少し小さい。
一本杖をつく位置も、慎重になっている。
玄関の段差の前で止まる。
下駄箱には、手を伸ばさなかった。
杖を近くにつく。
一度、足元を見る。
悠真は、半歩後ろにいる。
隆三が、ゆっくり一歩下りる。
少し身体が揺れる。
止まる。
もう一度、
位置を整える。
そして、玄関を下りた。
美和が、父の後ろ姿を見ている。
家に着いた時とは、少し違う。
慎重になったのではない。
自分の状態を、自分で確かめながら動いている。
そんなふうに見えた。
外へ出たところで、隆三が振り返った。
家を見る。
誰も、急かさなかった。
悠真が、少しだけ待ってから聞いた。
「どうでした?」
隆三は、家を見たままだった。
「何がや」
「久しぶりの家」
少し間があった。
隆三が答える。
「ええな」
美和が、父を見る。
隆三は続けた。
「やっぱり」
一度、言葉を切る。
「帰りたいな」
美和は、すぐには何も言わなかった。
悠真も。
奈緒も。
慎吾も。
高田も。
その言葉は、入院した頃にも聞いていた。
帰りたい。
何度も、隆三は言っていた。
けれど。
今日の「帰りたい」は、あの頃の言葉とは少し違っていた。
玄関の危うさを知った。
夜の廊下の暗さを知った。
台所の狭さも、浴室の難しさも改めて見た。
自分が疲れることも知った。
休む必要があることも、杖を使う方がいい時があることも知った。
誰かの力を借りる必要があるかもしれない。
家の一部を、変える必要もあるかもしれない。
それらを知らずに、ただ帰りたいと言っているのではなかった。
知った上で、それでも帰りたい。
美和が、静かに聞いた。
「ほんまに?」
隆三が娘を見る。
「何や」
「いや」
美和は、家へ視線を戻す。
「今日、いろいろ見たやん」
「見たな」
「危ないとこもあったやろ」
「あった」
美和は、少し驚いたように父を見る。
以前なら、
「そんなん大丈夫や」
と言っていたかもしれない。
隆三は続けた。
「せやから」
「うん」
「考えたらええんやろ」
美和は、何も言わなかった。
「全部今までどおりにせんでも」
隆三は言う。
「帰れたらええ」
美和の表情が、ゆっくり変わった。
不安が消えたわけではない。
けれど、父が家へ帰りたいという言葉の中身が、以前とは違っていることを美和も感じていた。
「私も」
美和が言う。
「ちょっと考えるわ」
隆三が眉を上げる。
「何を」
「お父さんが帰る方法」
「帰らせへん方法ちゃうんか」
「違うって」
隆三が少し笑う。
「ならええ」
病院へ戻る車の中。
隆三は、少し疲れたのか窓側の席にもたれるように座っていた。
美和はその横にいた。
行きの車では家へ着くことばかり考えていた。
帰りの車には、写真がある。
寸法がある。
動作の記録がある。
そして、家で見た隆三の姿がある。
誰も、「帰れます」とは言わなかった。
誰も、「無理です」とも言わなかった。
その答えを、今ここで出す必要はない。
病院へ戻る。
今日見たことを、持ち帰る。
俊介に伝える。
玲奈に伝える。
真理にも。
病棟のスタッフにも。
それぞれの視点から、
もう一度考える。
何を変えるのか。
何を残すのか。
何を隆三自身がするのか。
どこを誰かに頼るのか。
そして、その組み合わせで、
一人の生活が続けられるのか。
悠真は、車の窓の外を見た。
今日、家を見に行ったことで、
答えが出たわけではない。
むしろ、考える材料は増えた。
けれど、一つだけ病院へ戻る前よりはっきりしたものがあった。
隆三は、帰れるかどうかだけを知りたいのではない。
あの家で、どう暮らすかを考え始めている。
そして美和も、父を止める方法ではなく父が帰る方法を、少しずつ考え始めている。
同じ家を見たことで、二人の見ている方向はほんの少し近づいていた。
帰りたい場所は、もう分かっている。
これから決めるのは、そこへ帰ったあとどう暮らし続けるかだった。
第18話へつづく。
