車
車だ。
それは、単なるアルミ合金と、ゴムタイヤと、複雑なピストン運動を繰り返すエンジン、あとガソリン。
大きな大きな工場。手を叩けば3回はこだまする。心が開放される鉄のホール。
暗くて静かだった。ノイズキャンセルのイヤホンを外しても、なお静かな空気が聞こえてくる。
もしも、天井に規則的に貼り付いた、電球を抱くような円錐のライトが光り、黄色くて底辺のない長方形の安全柵や、ホルンのように規則的に絡み合った工作機械の鉄があまねく照らされていれば、機械のように動く作業員や、ベルトコンベアを流れる「新しい車の可能性」が確実さを獲得していく様子と、その生き生きとした音を想像できたかもしれない。
しかし、私に見えるのは、研究室から漏れ出る光を、可能性のまま置かれた車の鉄や、環境としての機械の鉄が新しく照り返す様子だけだった。
心臓の音さえ聞こえないくらい静かで、新しいが、その目的のために、今は動いていない中途半端な状態。
私にはそれが美しいと思えた。
うっかりを装って、ここの環境評価のために持っている、タブレットのための電子的なペンを、工場の地面へ落下させたくなった。
高い場所からうっすらと見える、深い下の階の地面は、見つめていると、私を静寂と部分的な虚無にとどめおいてくれる。
もしこんな場所に、ペンを落としたらどうなるだろう。
この静寂の幾何学はなにも崩れない。音が響くだけ。
響いた音は消えていき、また静寂になる。
ところで、部分的な虚無とは?
それは、完全な虚無でない。底なしの、助けも、支えの可能性もない落下でもない、ということ。
落ちて行けば、完全に崩壊してしまうであろう深淵ではなく、それを覗く場所にいること。その深淵を忘れ去るのではなく、知っているということ。
それが、部分的な虚無だ。
私には、何故かそれが心地よい。
