統合失調症回想録:『神につかれた男の話』10
精神疾患である統合失調症を経験した私の回想録『神につかれた男の話』です。
今回掲載するものは、スマホでも読みやすいように文章を整えた改訂版です。
記事は順番に読めるよう、マガジンにまとめておきます。全13回になります。
もし続きが気になった方は、固定記事にあるKindle版を読んでいただけたら嬉しいです。
この物語が、誰かの心に小さな何かを残せたなら幸いです。
【前回の話】
神につかれた男の話
2部 日はまた昇る
(6)神の一手Ⅱ [3346字]
仕事を終え、家に帰ると、男は本を書き始めた。
自分はこの内なる神と契約しよう。
この本が、自分の初仕事なのだ。
この本は読まれるのだろうか。
いや、万人に受けなくてもいい。
たった一人の力になれば、それでいい。
出版さえすれば、必要としている人に届くだろう。
余裕の範囲でやるのだから、売れなくても問題ない。
まあ、夢くらいは見てもいい。
翌日も、翌々日も、男は仕事中に他人の視線や仕草から神を感じていた。
人にはそれぞれ神がついている。
自分はそれを感じ取るようになっただけだ。
人と触れ合う中で、まるで禅問答のように、心の中でそれぞれの神々と語っている。
だが、以前のように恐怖や戸惑いはない。
慣れてきたのかもしれない。
心は常に穏やかだった。
男は丁寧に仕事を終え、家に帰った。
夕食を終えると、妻が話しかけてきた。
「ねえ、聞いて。同僚がまたやらかしたの。何度言っても同じ間違いをして困っているわ。人はすごく良いし、フォローはしているんだけどね。職場でもその同僚の悪口が始まることがあるんだけど、参加すると罪悪感に駆られるし……。ホーム長に言っても、私に仕事を振るようになるだけだから、もう職場では誰にも話せない」
男は少し考えてから話し始めた。
「その出来の悪い同僚のような人も、社会に必要とされているように思うよ。もし、出来の良い人たちばかりがアクセル全開で際限なく効率を求めたら、頭がおかしくなりそうだ。その同僚は、言ってみれば社会のブレーキみたいな役割を果たしていると思う。無理のない範囲で助けてあげたらいいんじゃないかな」
男は続けた。
「持っている人は、それだけで恵まれている。持っている人は、持っていない人を助けてあげるのが役目のように思うんだ。もちろん、余裕のある範囲でね。その役目に責任を感じて疲れたら、休めばいい。休息は自由だよ。あとは、適当がいいと思う。適当で、ではなく、適当がね」
妻は少し興奮したように言った。
「そう! そうなの。イライラすることはあるけど、私は幸せだから我慢できているの。家でこんな話が出来て良かった。職場では絶対話せないから」
そう言うと、妻は楽しそうに部屋の片づけを始めた。
会話を終え、男は食器を洗い始めた。
社会が存続するために、神にとってすべての人間は必要とされているのではないだろうか。
突き詰めれば、善だけの社会も、悪だけの社会も存在しない。
それを目指す社会は、崩壊するだけだ。
すべての人間が存続していくうえで大切なのは、善と悪のバランスをどう取るかだ。
そして、そのバランスを取ることこそ、そこに生きる人間の仕事なのだろう。
神にとってすべての人間が必要なら、人間が人間の命を奪う行為は、自殺も含めて神に対する罪と言える。
なぜなら、人間の死を司る役目を担っているのは神なのだから。
そこまで考えて、男は違和感を覚えた。
すべての人間が必要なら、なぜ命を奪う必要があるのだろう。
本当に、それは神の役割なのだろうか。
一つの謎を解いたと思えば、また新たな謎が現れる。
その繰り返しに、男は辟易していた。
すると、男の心に言葉が繰り返された。
バランスは存在。
バランスは存在。
バランスは存在。
月に一度の診察の日がやってきた。
男は電車の中で、馴染みの精神科医に会ったらどんな話をしようか考えていた。
神とコミュニケーションを取っている感覚は続いている。
自分はまるで、神に会社の社長を任されているような気分だ。
人類を代表する一人として選ばれ、仕事を任されている。
今書いている本は、その決意表明のようなものだ。
だが、雇われ社長に過ぎない自分が、一体何を書けばいいのだろう。
ふふ。
こんなことを考えるのが、病気の証明なのかもしれない。
前回は薬の量が増えた。
今回はどうなるのだろう。
そこは確認しなければならない。
クリニックへ向かう途中、男は精神科医とすれ違った。
精神科医は言った。
「いやあ、何だか出会えるような気がしていました。ちょっとコンビニに寄っていくので、先に行っていてください。鍵は開けてありますから」
男は答えた。
「僕も以前、先生とこの道ですれ違ったことを思い出していました。先に行っていますね」
男はクリニックへ向かった。
クリニックのソファでくつろいでいると、電話が鳴り始めた。
同時に、精神科医がコーヒーを片手に入ってきた。
「ささ、どうぞ中へ」
精神科医は男を診察室へ招き入れた。
男が部屋へ入ると、精神科医は電話で話し始めた。どうやら診察の予約らしかった。
「時間が経つのは早いですね。一ヶ月なんてあっという間です。そういえば、コーヒーって私、好きなんですよ」
電話を切ると、精神科医は屈託なく話し始めた。
穏やかな会話が続いた。
しかし、また電話が鳴った。
男は思った。
今日はやけに電話が多い。
それはともかく、どうやって病気の再発の話に持っていこうか。
その時、精神科医が尋ねた。
「最近、睡眠はどうですか?」
男は、ここだと思って話を切り出した。
「それが、どうも寝不足気味で。実は、以前に病気を再発した時のような状況が、また目の前に繰り広げられているんです。しかも、本まで書き始めてしまって……」
男はそう話した。
しかし精神科医は、あまり興味がなさそうに見えた。
男は少し拍子抜けした。
それでも、なごやかな会話は続いた。
やがて精神科医が思いついたように話題を変えた。
「そういえば、最近よくテレビを見るんですよ。何だか気になって」
男も答えた。
「僕もテレビを見ます。そういえば、この症状も三月いっぱいかなと思っているんです。朝見るニュースにクイズのコーナーがあるのですが、そこで司会者が、そのコーナーは三月いっぱいだと嘘をついたんですよね。僕には、まるで自分に話しかけているように感じられて。これを聞いて、きっと私の神を感じる時間も、これで終わりなのかなと思ったんです。あるいは、本が仕上がるのが三月なのかもしれません」
そのタイミングで、次の患者が訪れた。
精神科医は突然話を打ち切り、急いで料金だけを告げた。
男は、今日は薬を処方してもらう日だと思い、確認したかったことを切り出した。
「私の薬の量は増えないのですか? このような話をしているのに。問題ないということですか」
精神科医は手短に答えた。
「薬を増やす必要はありません。症状は良くなってきていますよ」
そう言って診察を終えた。
男は、その光景に違和感を覚えた。
自分の腸が動いているのを感じた。
ストレスを感じているのだろうと思った。
自分のうかがい知れないところで、何かが動いている。
だが、それが何かは分からない。
薬が増えないなら、それはそれでいい。
薬が増えたら、テレビゲームでもやろうと思っていたのだが。
腸はずっと動いていた。
何かを知らせているようだった。
家に帰ると、男は自分の書いた本を読み返した。
神について書いてあるこの本は、どこか聖書のようでもある。
この本を読んで、共感し、生きる道標にする人がいたら嬉しい。
もしこの本が売れて大金を手にしたらどうするか。
宝くじのような夢ではある。
けれど、障碍者や引きこもりに代表される、職のない人たちが明るく働ける喫茶店を始めるのもいいかもしれない。
そう思った瞬間、大粒の涙が止めどなく流れてきた。
感情が急激に高ぶった。
男には、その感情をどうにも止めることが出来なかった。
妻が仕事から帰ってきた。
妻は男の異変に気づき、背中をさすり、優しく抱きしめた。
男の嗚咽が漏れた。
しかし男は、強い感情に突き上げられる自分を、冷徹に監視する黒い影の存在を感じていた。
男の心に言葉が浮かんだ。
虚無。
男は泣きむせびながら、妻に語りかけた。
「俺は人から優しいと言われることがある。でも、俺の心には、核のボタンがあったら押してしまうかもしれない虚無が棲みついている。でも、俺はその存在を確認した。鬼の目にも涙。存在する以上、虚無にも愛はある」
そう叫ぶと、男は泣きながら妻の胸に顔をうずめた。
男の心に、また言葉が浮かんだ。
意識と無意識。
人は死んで、人間の心に住まう神になる。
人間の無意識に神が住まう限り、すなわち人間が存在し続ける限り、神は在り続ける。
男は、心の奥底から呼び起こされる言葉を認めた。
そして、神の存在を信じた。
その身に愛を携える神を、男は信頼した。
