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不器用には、不器用なりの生き方がある

誰しもが、場面ごとに違う顔を持っているのだと思います。

家族の前の自分。職場の自分。友人の前の自分。意識しているかどうかは別として、人は少しずつ自分を使い分けながら生きています。心理学では、それをペルソナと呼ぶそうです。

私は昔から、その使い分けがあまり得意ではありませんでした。

人に合わせようとすると、自分に嘘をついているような気がして、どこか居心地の悪さを感じていました。それでも頑張って人と接しようとしますが、その姿勢は長く続きませんでした。

付き合いが長くなるほど、むしろ口数は少なくなっていきました。

今思えば、不器用だったのだと思います。

そんな自分ですから、自分をよく見せることもうまくできず、仕事にはあまり恵まれませんでした。

ただ、人間関係には少ないながらも恵まれていました。誰とでも付き合えるわけではありませんでしたが、自分を尊重してくれる人との縁はありました。

それでも、生きづらさのようなものはありました。

外に目を向けると、周りの人たちは本音と建前を自然に使い分け、軽やかに社会を生きているように見えました。私はそんな自分との違いに戸惑うことがありました。

そうした時期を経て、私は統合失調症になりました。

そして回復した今、少しずつ分かってきたことがあります。

社会の中で生きていくために必要なのは、必ずしも器用に自分を使い分けることだけではない、ということです。

相手との距離感。言葉の選び方。少し譲ること。無理をしないこと。

そうしたことを、不器用なりに少しずつ覚えていきました。

気づけば、昔ほど生きづらさは感じなくなっていました。

もちろん今でも器用な人間ではありません。人付き合いが得意になったわけでもありません。それでも以前ほど、人間関係に不安を感じることはなくなりました。これも、不器用なりに少しずつ社会との距離感を覚えてきたからなのかもしれません。

私にもペルソナはあります。ただ、無理している感覚はありません。どれも自分の延長線上にあるように感じています。

若い頃は、もっと器用にならなければならないと思っていました。

けれど振り返ると、必要だったのは器用な人間になることではなく、自分に合った社会との折り合いのつけ方を見つけていくことだったのかもしれません。

不器用には、不器用なりの生き方がある。

そうして今の、穏やかな生活があります。