言えなかった朝 第一話 寝坊(一話完結型短編全七話)
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
それは特別な言葉ではなかった。
毎朝、当たり前のように交わされる言葉だった。
だからこそ、失うなんて考えもしなかった。
*
「健太〜、コーヒー冷めるよ」
キッチンから聞こえる声に、佐藤健太は新聞から顔を上げた。
「今行く」
ダイニングテーブルには朝食が並んでいる。
焼いたトースト。
目玉焼き。
サラダ。
どれも特別ではない。
だが、それが幸せだった。
「今日も残業?」
向かいに座る美咲が尋ねる。
「たぶんな」
「最近ずっとじゃん」
「仕方ないだろ」
「身体壊さないでよ」
そう言いながらも美咲は笑っていた。
健太もつられて笑う。
そんな朝が続いていた。
*
翌日も。
その翌日も。
玄関では同じやり取りが繰り返される。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
たったそれだけ。
けれど、それは確かに二人の日常だった。
*
問題の朝は、何の前触れもなく訪れた。
前日の帰宅は深夜だった。
取引先とのトラブル。
終わらない資料作成。
帰宅した時には日付が変わっていた。
シャワーを浴びた記憶も曖昧なまま、ベッドへ倒れ込む。
美咲が何か話しかけてくれた気がする。
しかし疲労に負けて、そのまま眠ってしまった。
*
目を開ける。
眩しい。
カーテンの隙間から差し込む光がやけに強い。
健太はぼんやりと時計を見た。
九時十二分。
数秒、理解が追いつかない。
そして飛び起きた。
「やばっ!」
会社。
遅刻。
頭の中で警報が鳴る。
慌ててスマホを手に取る。
その時、美咲からのメッセージが届いていることに気付いた。
画面を開く。
そこには短い文章。
『お寝坊さん。朝ごはん冷蔵庫に入れてるからね』
思わず笑ってしまう。
怒っている様子はない。
むしろ少しからかうような文面だった。
「帰ったら謝るか」
健太はそう呟いた。
その時は、本当にそう思っていた。
帰れば会える。
今日の夜にでも謝ればいい。
明日の朝にはまた、
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
と交わせる。
そう信じて疑わなかった。
*
昼過ぎだった。
知らない番号から電話がかかってきた。
営業か何かだと思った。
しかし受話器の向こうの声は震えていた。
病院だった。
事故だった。
美咲が搬送されたという。
頭が真っ白になる。
何を言われたのかよく覚えていない。
気付けば健太は病院へ向かって走っていた。
*
間に合わなかった。
医師の言葉も。
看護師の表情も。
泣き崩れる義母の姿も。
何一つ現実に思えなかった。
ただ一つだけ理解できたことがある。
もう二度と会えない。
それだけだった。
*
数日後。
遺品が返された。
スマホ。
財布。
ハンカチ。
見慣れた物ばかりだった。
健太は震える手でスマホを開いた。
最後の送信履歴。
そこには、あの朝のメッセージ。
『お寝坊さん。朝ごはん冷蔵庫に入れてるからね』
たった二行。
たった二行なのに。
涙が止まらなかった。
美咲はいつも言っていた。
玄関で。
笑いながら。
少し急ぎながら。
毎日。
本当に毎日。
「行ってきます」
そして自分は。
「行ってらっしゃい」
そう返していた。
なのに。
たった一度。
たった一度だけ。
言えなかった。
*
季節が変わった。
朝の空気が少し冷たくなっていた。
健太は一人で朝食を食べる。
静かな部屋。
テレビの音だけが響く。
誰も話しかけてこない。
誰も笑わない。
食器を片付ける。
スーツを着る。
鞄を持つ。
玄関へ向かう。
いつもの朝。
けれど、もう違う朝。
靴を履き終えた健太は、小さく呟いた。
「行ってきます」
返事はない。
当然だ。
分かっている。
それでも耳の奥で、懐かしい声がした気がした。
――行ってらっしゃい。
健太は目を閉じる。
そして少しだけ笑った。
涙が零れないように。
ゆっくりと玄関の扉を開けた。
【第一話 寝坊編 終】
