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言えなかった朝 第一話 寝坊(一話完結型短編全七話)


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

それは特別な言葉ではなかった。
毎朝、当たり前のように交わされる言葉だった。
だからこそ、失うなんて考えもしなかった。


「健太〜、コーヒー冷めるよ」

キッチンから聞こえる声に、佐藤健太は新聞から顔を上げた。

「今行く」

ダイニングテーブルには朝食が並んでいる。
焼いたトースト。
目玉焼き。
サラダ。
どれも特別ではない。
だが、それが幸せだった。

「今日も残業?」

向かいに座る美咲が尋ねる。

「たぶんな」

「最近ずっとじゃん」

「仕方ないだろ」

「身体壊さないでよ」

そう言いながらも美咲は笑っていた。
健太もつられて笑う。
そんな朝が続いていた。



翌日も。
その翌日も。
玄関では同じやり取りが繰り返される。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

たったそれだけ。
けれど、それは確かに二人の日常だった。



問題の朝は、何の前触れもなく訪れた。
前日の帰宅は深夜だった。
取引先とのトラブル。
終わらない資料作成。
帰宅した時には日付が変わっていた。
シャワーを浴びた記憶も曖昧なまま、ベッドへ倒れ込む。
美咲が何か話しかけてくれた気がする。
しかし疲労に負けて、そのまま眠ってしまった。



目を開ける。
眩しい。
カーテンの隙間から差し込む光がやけに強い。
健太はぼんやりと時計を見た。

九時十二分。

数秒、理解が追いつかない。
そして飛び起きた。

「やばっ!」

会社。
遅刻。
頭の中で警報が鳴る。
慌ててスマホを手に取る。
その時、美咲からのメッセージが届いていることに気付いた。
画面を開く。
そこには短い文章。

『お寝坊さん。朝ごはん冷蔵庫に入れてるからね』

思わず笑ってしまう。
怒っている様子はない。
むしろ少しからかうような文面だった。

「帰ったら謝るか」

健太はそう呟いた。
その時は、本当にそう思っていた。
帰れば会える。
今日の夜にでも謝ればいい。
明日の朝にはまた、

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

と交わせる。
そう信じて疑わなかった。



昼過ぎだった。
知らない番号から電話がかかってきた。
営業か何かだと思った。
しかし受話器の向こうの声は震えていた。
病院だった。
事故だった。
美咲が搬送されたという。
頭が真っ白になる。
何を言われたのかよく覚えていない。
気付けば健太は病院へ向かって走っていた。



間に合わなかった。
医師の言葉も。
看護師の表情も。
泣き崩れる義母の姿も。
何一つ現実に思えなかった。
ただ一つだけ理解できたことがある。

もう二度と会えない。

それだけだった。



数日後。
遺品が返された。
スマホ。
財布。
ハンカチ。
見慣れた物ばかりだった。
健太は震える手でスマホを開いた。
最後の送信履歴。
そこには、あの朝のメッセージ。

『お寝坊さん。朝ごはん冷蔵庫に入れてるからね』

たった二行。
たった二行なのに。
涙が止まらなかった。
美咲はいつも言っていた。
玄関で。
笑いながら。
少し急ぎながら。
毎日。
本当に毎日。

「行ってきます」

そして自分は。

「行ってらっしゃい」

そう返していた。
なのに。
たった一度。
たった一度だけ。
言えなかった。



季節が変わった。
朝の空気が少し冷たくなっていた。
健太は一人で朝食を食べる。
静かな部屋。
テレビの音だけが響く。
誰も話しかけてこない。
誰も笑わない。
食器を片付ける。
スーツを着る。
鞄を持つ。
玄関へ向かう。
いつもの朝。
けれど、もう違う朝。
靴を履き終えた健太は、小さく呟いた。

「行ってきます」

返事はない。
当然だ。
分かっている。
それでも耳の奥で、懐かしい声がした気がした。

――行ってらっしゃい。

健太は目を閉じる。
そして少しだけ笑った。
涙が零れないように。
ゆっくりと玄関の扉を開けた。


【第一話 寝坊編 終】

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