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めざめよ、男たち(フラワーデモ2026.5.11)

 2026年5月11日、大阪・中之島で開催されたフラワーデモに参加した。
 大阪地検トップの検事正だった北川健太郎被告を準強制性交罪で告発した原告女性で検事だった”ひかり”さんが、4月30日に大阪地検に辞表を提出した。加害者を罰し被害者を保護しなければならないはずの検察が、ひかりさんを守ろうとはせず、北川をかばいつづけために、ひかりさんは居場所を失った。生命を守るために、仕事を辞めざるを得なかった。
 「勇気をもって訴えた人をひとりにはしない」と、多くの女性がフラワーデモに集った。
 男性は3、4人だろうか。私自身も男性がいるべき場所ではないような気もして参加を躊躇もしたけれど、性暴力は男性の問題なので勇気を出して参加することにした。

1,フラワーデモで語られた性暴力に接して感じたこと

 集会では、自分自身の身に降りかかった性暴力事件についての発言がいくつもあった。それはとても重たく、自分自身の性の加害者属性を突き詰める時間だった。前の前で自分自身の被害を告発している人は、ひょっとしたら男性がここにいるだけで、しんどい思いをしているのかもしれない。けれども男性が「性暴力を許さない」というプラカードを持って立っているだけで、意味があることと思う人もいるかもしれない。
 どうあっても、自分の行動をするしかない。苦しくても、受け止めたい。加害者の性を生きるとはそういうことだから。

 フラワーデモで感じた苦しみは、金学順さんの証言を聞いたときの苦しみに似ていた。1991年、23歳当時の私は、まだ性欲も旺盛で、男性である原罪を突き付けられたようで、最前列に座っていながら金学順さんの顔を正視できず、ずっと俯いていた。
 あれから35年も経ってそろそろ老いの準備を始めているというのに、あの日と同じような思いになるなんて。

 被害者の発言内容をここに書いて、すべての日本人男性に伝えたいくらいだけれども、それは語った被害女性の意図するところではないような気がするので、止すことにする。だからどこまでちゃんと伝わるのか自信がないのだけれど……。
 性暴力とは、性による直接的な暴力だけでなく、その人のすべてを破壊してしまうものなのだと、改めて実感した。被害に結び付くちょっとしたことでも耐え難くなってしまう。それが自分の中で大切なものであるなら、なおさらだ。耳に入るもの、目に映るもの、すべてが耐え難くなってしまうだろう。きっと自分自身さえ存在が耐え難くなってしまうだろう。壊されたものが自分自身なのだから。それはどれだけ辛いことだろう。
 被害で記憶が欠落していくために、加害者を不起訴とされた話を聴いた。つらい体験を思い出そうとしても、思い出せない。だから加害・被害が「なかったこと」になってしまう。精神的にそうなってしまうという症状はとても理解できるし、「だから立件できない」のではどれだけ世界は理不尽に構成されているのだろうと思う。まるで「仕方がない」が重なり合って、世界が構成されているかのよう。堪えがたい。
 二次被害の話は、たくさん聞いた。二次被害のない性暴力はない。「性暴力を許さない」という社会ではないから、性暴力によって傷つくというだけではなく、その傷のカサブタをはがされ、傷口に塩を塗り込まれ、いつまでたっても傷はいえない。どんどん傷は深くなる。「は?!」としか言えないような二次被害が山のようにある。多くの人が性暴力被害者に耳を貸さない。だからいつまでたっても被害者の尊厳が回復されない。

 なぜ性暴力が続いているのだろう
 どうすれば性暴力がなくなるのだろう

 そんなことを、集会解散後、考え続けた。いつも考えているけれど、いつも以上に考えた。

2,男性にとっての性暴力とは暴力なのか

 性暴力の敷居は低い。おそらく他の人を傷つける犯罪よりも、ずっとずっと低い。刑法上の量刑の話ではない。私たちの意識の中での話だ。
 男性だからわかる。
 力づくでの暴力は人によってはハードルが高いが、性暴力のほとんどは知っている人からによるもので、物理的な暴力を伴わないケースが多い。曖昧な「同意」や相手を酔わせて判断力を失わせての「同意」などは、多くの男性にとっては「恋愛」の延長戦上にある。
 仮にそれが不均衡な力関係のものであったとしても、男性にとっては力関係の不均衡は「あたりまえ」のことなので、「それを利用している」なんて自覚はまったくない。男性にとっての男女間の力関係の不均衡は、自分の価値を高め相手をその気にさせる武器だと勘違いするのがせいぜいといったところだろう。

 暴力と自覚していないところで、暴力は生まれない。
 男性にとって、性暴力とはそういうものだ。実際に性暴力加害者が「暴力ではなく恋愛だった」と証言しているが、加害男性の主観からすれば確かにそうなのだろうと、私は思う。複数によるレイプですら、そう認識していても不思議ではないと思う。
 女性はやられたがっている
 喜んでいたじゃないか
 そういう歪んだ主観を補強するだけのコンテンツが、街には溢れている。
 あわよくばやりたい
 そういう男性の身勝手な欲望を、曖昧な「同意」を取り付けることで暴力を恋愛に転換できてしまう仕組みがある。
 そして残念なことに、男性のひずんだ認知を助長するように、社会が出来上がってしまっている。

 大阪地検と同じような事件が、自分の会社で、あるいは自分の所属する組織で起こったとしてみよう。
 あの人は性暴力を働くような、そんなひとちゃうで
 あの子も先輩先輩って慕ってたじゃないか
 そういう声が場を支配することは、容易に想像できる。容易に想像できてしまうからこそ、絶望する。大阪地検が特別なのじゃない。どこの会社でも、どこの組織でも起こりうることだし、だからこそひかりさんは私たちだと、多くの女性が共感しているのだと思う。

 フラワーデモでたくさんの被害体験を聴いた。多くの女性がそれを聴いて涙を流し、励ましあった。
 私も涙を流した。彼女はこんなつらい体験をするために生まれてきたわけじゃない。踏みにじられていい尊厳なんて、あってはならない。
 けれどもその被害体験は彼女たちのもので、私のものじゃない。加害体験こそが、私の感覚に最も近い。残念ながら加害の感覚は、私にとってはあり得ないことではない。
 きっと多くの男性にとっても、それは同じだろうと思う。最悪なのだけれど、最悪の現実を認めるところからしか、始まらない。

3,性暴力をなくすためには

 どうすれば性暴力をなくすことができるのだろう。
 いくつも思うことがある。

 ひとつは教育。この国にはまともな性教育がない。教育指導要領では、性交を教えることを禁じられている。人権教育は道徳教育に置き換えられ、権利があるということを思いやりに転換させられている。性暴力についての教育を遅くても中学生くらいにはやるべきだと思う。それも性暴力一般についてではなく、まずは被害者の訴えを伝えるべきと思う。性暴力が人間の何を破壊しているのか、ちゃんと知らなくちゃいけない。

 ひとつは性の商品化をやめること。これは重要なことと思っている。
 暴力を恋愛に転換できるシステムが街にあふれている。私が若かった時は、雑誌には袋とじがあり、スポーツ新聞紙にもヌード写真がでかでかと載っていた。歓楽街や温泉街ではストリップ劇場があり、客とのホンバン行為を含む過激な演目も多かった。今では一見マシになったように見える。けれどもコンビニの少年誌の表紙は水着のグラドルだし、ネットでは簡単にAVが視聴できるようになった。性売買の店も多様化し、デリヘルなど自宅でも簡単に性を買うことができる。外見的にはマシになっているように見えて、性売買は以前よりもずっと身近なものになっている。
 性を買いやすい社会が、性暴力の敷居を限りなく下げている。

 もちろん本質的には、男性と女性の非対称的な関係が原因であることは間違いがない。性暴力の問題も性売買の問題も、根本原因はそこだと確信を持っている。男性のほうが体力があるから暴力で女性を支配できる、ではなく、男性のほうが権力を持っているから女性を支配できるというのが性暴力だ。
 性売買の起源は日本では9世紀後半、男性の政治的社会的地位の独占が進んだことにより生まれた。つまり家父長制が性売買を必要としたのであって、男性と女性の非対称的な関係が解消されれば性売買はなくなる。
 このことも昔からは幾分マシになってきたように、外見的には見える。昔はセクハラなんて言葉はなかった。ハラスメントという認識すら一般的ではなかった。けれども今は新自由主義社会で、非正規労働者は女性が多く占める。一億総中流はもはや遠い過去のことで、経済的格差は一層広がっている。私の職場にも、年収200万円台で子どもを育てるシングルマザーがたくさんいる。
 非対称な関係は、嫌でも目についてしまう。

 とりあえず思うことを3つ挙げてみたが、どれもハードルが高いように思える。しかし社会を変えるうえで、最初から低かったハードルなんてあっただろうか? 実現困難だからあきらめるなんていう選択も、ありえない。それは声を上げた人を後悔させてしまうことになるのだから。  
 実現する日を夢見て、一歩一歩働きかけていくしかない。

4,男性性を生きるということ

 性暴力加害を属性とする男性性は、持って生まれたものではなく、植え付けられたものだと思う。教育によって、そして社会で生活する中で。そうでなく男性性に生まれついたものだとすれば、こんなに救いようのない話はない。
 性暴力が再生産される仕組みが社会の中にあるのであれば、それを変えていかなければならない。そしてこれから大人になる男性たちが、性暴力を当たり前としない感覚を持つことができる教育と社会をつくらなければならない。
 水着のグラビアのない社会は、どれだけ人間が対等な関係を築くことのできる社会だろう。
 女性の裸がネットにない社会は、物質的にも精神的にもどれだけ豊かだろう。(アジアでAVが作られているのは日本だけだ。)
 女性の身体を力やお金で支配するのではなく、対等な関係で豊かな感情を育んでいける世の中であれば、どれだけ素晴らしいだろう。

 こういったことを徒然考えるだけでなく、言葉にしていかなくてはならない。隣の男性に話しかけなければならない。
 性暴力によって苦しめられている女性が多くいるのだということを、言葉にして、男性が男性の常識を変えていかなければならない。

 賛同者が少ないことは知っている。性売買は女性差別の最たるものだと主張すれば、「セックスワーカーを差別するな」と差別者認定される世の中だ。
 ひとりでできることなど、たかが知れている。
 けれども「微力だけど無力」じゃないとも言うしね。毎月神戸で水曜デモもやってるし。仲間だって増えるだろう。
 1991年に金学順さんと出会ったことで、あのときの重たい気持ちを引きずったまま、いまの自分がある。性暴力の話を聴いて一層重たい気持ちでいるのだから、あと20年くらい重たい気持ちでいることなんて、なんてことない。

 性暴力を暴力と男たちが自覚できる日まで、どれだけ時間がかかるのだろう。そんなに長くは待てない、待つ気もないと、きっと被害者たちは思っている。
 だからもう限界だよ。一刻も早く気が付こうよ、男たちよ。


#声を上げたことを後悔させない

[2026年5月11日 フラワーデモに参加して]


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