第九話 先の先
ピーーーッ!!
主審の笛が鳴った。
クラブワールドカップ決勝。
レアル・グラード対マクスエル・シティー。
世界一を決める戦いが始まった。
キックオフ直後から、レアル・グラードは前へ出た。
ボールを奪えば素早く広げる。
右。
中央。
左。
一度下げて、もう一度前へ。
マクスエル・シティーの守備が動けば、その逆を取る。
テンポが速い。
それでいて、雑ではない。
一つ一つのプレーが正確だった。
蒼真はベンチから、その光景を見つめていた。
「……すげぇ」
テレビでは何度も見てきた。
だが、この距離は違う。
パスの音。
選手同士の声。
スパイクが芝を削る音。
身体がぶつかる音。
そして何より。
プレーの速さ。
世界最高峰。
その言葉の意味が、嫌でも分かった。
「右だ!」
ベンチ前からアルベルトの声が飛ぶ。
右サイドの選手が一気に高い位置を取った。
相手DFが引っ張られる。
空いた中央へボールが入る。
ワンタッチ。
もう一度ワンタッチ。
そして――
シュート。
ゴールネットが揺れた。
「うおおおおおおおおお!!」
スタジアムが爆発する。
レアル・グラード、先制。
1―0。
ベンチの選手たちが立ち上がる。
コーチ陣が拳を突き上げる。
蒼真も思わず身体を前へ出していた。
「……うまっ」
完璧だった。
相手を動かし。
空いた場所を使い。
最後は迷うことなく仕留める。
アルベルトは小さく拳を握っただけだった。
その顔には、まだ笑顔はない。
試合は始まったばかりだ。
そして。
その視線の先には、もう一人の男がいた。
マクスエル・シティー監督。
ケビンJr.
若くしてプレミアリーグ最強クラブを率い、数々のタイトルを獲得してきた男。
選手の能力だけに頼らない。
相手の戦術を分析し、その弱点を徹底的に突く。
試合中の修正能力も極めて高く、アルベルトと同じく世界から「天才」と評価される監督だった。
ケビンJr.は失点しても慌てなかった。
ベンチ前に立ち。
ピッチを見ている。
そして。
数人の選手を呼んだ。
短く指示を出す。
それだけだった。
試合が再開する。
最初の数分。
何も変わっていないように見えた。
レアルがボールを持つ。
マクスエルが守る。
レアルが攻める。
だが。
蒼真は気づいた。
「……ん?」
何かが違う。
レアルのパスは繋がっている。
ボールも持てている。
なのに。
さっきまでのように前へ進めない。
右へ出す。
戻す。
中央。
左。
また戻す。
パスは繋がる。
だが。
ゴールへ近づかない。
「……持たされてる?」
蒼真が小さく呟いた。
その時。
アルベルトも動いた。
「中央に寄りすぎるな! 幅を取れ!」
指示が飛ぶ。
レアルの両サイドが大きく開く。
中央のスペースを広げる。
これなら。
そう思った直後だった。
マクスエルの守備も横へ広がった。
それだけではない。
レアルがサイドへボールを出した瞬間。
三人が一気に囲む。
逃げ道が消える。
「……!」
ボールを奪われた。
マクスエルが一気に前へ出る。
カウンター。
レアルの守備陣が戻る。
なんとか止めた。
アルベルトの眉がわずかに動いた。
「……なるほど」
すぐに次の指示を出す。
「中盤を一枚下げろ! 中央で数的優位を作る!」
選手が動く。
配置が変わる。
しかし。
数分後。
また。
同じことが起きた。
中央へ人数を増やした瞬間。
マクスエルは前線のプレスを弱めた。
レアルにボールを持たせる。
そして。
ある場所へパスが入った瞬間だけ。
一気に圧力をかける。
「……まただ」
蒼真の視線がボールを追う。
違う。
ボールではない。
選手の位置を見ていた。
誰が。
どこへ動いている。
誰が。
何を消している。
気づけば。
蒼真の視線はボールより先を追っていた。
アルベルトが再び指示を出す。
マクスエルが変える。
アルベルトが修正する。
また。
マクスエルが変える。
一手。
また一手。
その繰り返し。
やがて。
アルベルトの表情から余裕が消えた。
「……おかしい」
近くにいたコーチが振り返る。
「監督?」
アルベルトはピッチを見たまま答えた。
「偶然じゃない」
「何がです?」
アルベルトはケビンJr.を見る。
向こうも。
こちらを見ていた。
目が合う。
ケビンJr.は表情を変えない。
アルベルトの目が細くなった。
「読まれている」
「……え?」
「こちらが何をするのか」
アルベルトは言った。
「最初から分かっている」
コーチの表情が変わった。
「まさか……」
「今日の我々が使う形」
「攻撃の入り方」
「ボールの逃がし方」
「プレスの掛け方」
「そして――」
アルベルトはピッチを見る。
「私が試合中にどう修正してくるのかまで」
アルベルト自身。
気づいていた。
マクスエル・シティーは。
レアル・グラードと戦っているのではない。
アルベルト・グラシアと戦っている。
徹底的に研究してきたのだ。
レアルの試合。
アルベルトの戦術。
勝っている時。
負けている時。
先制した時。
追いつかれた時。
どこを変える。
誰を動かす。
どのタイミングで修正する。
その癖まで。
ケビンJr.は読み切ろうとしている。
「……面白い」
アルベルトが小さく呟いた。
焦ってはいない。
むしろ。
目つきが鋭くなった。
ならば。
その読みを超えればいい。
アルベルトが再び動く。
「前線の位置を変える!」
新たな指示。
選手が動く。
これまでとは違う形。
だが――
数分もしないうちに。
マクスエルが対応した。
「……!」
アルベルトがさらに変える。
ケビンJr.も変える。
また変える。
また。
対応される。
蒼真は黙って見ていた。
最初は。
ただ世界最高峰の試合を見ているだけだった。
それが今は違う。
二人の監督が。
ピッチの外から戦っている。
アルベルトが一手打つ。
ケビンJr.がその先へ。
さらにアルベルトが打つ。
また。
その先にケビンJr.がいる。
――監督って……。
蒼真はアルベルトを見る。
――こんなに戦ってるのか。
ピッチに立っていない。
ボールにも触れない。
走ることもない。
それでも。
間違いなく。
アルベルトは戦っていた。
そして。
そのアルベルトを。
ケビンJr.が追い詰めている。
前半二十八分。
レアルが中央へボールを入れた。
その瞬間。
マクスエルの選手が奪う。
速い。
一気に三人が走る。
レアルの守備が戻る。
右。
中央。
そして左。
最後はゴール前。
シュート。
ゴールネットが揺れた。
「うおおおおおおおお!!」
今度は。
マクスエル側のスタンドが爆発した。
1―1。
同点。
レアルの選手が悔しそうに芝を蹴る。
アルベルトはすぐに声を出した。
「まだ同点だ! 落ち着け!」
だが。
蒼真は気づいていた。
少しずつ。
レアルの選手たちが変わっている。
パスがずれる。
必要のないドリブルが増える。
味方への要求が強くなる。
「もっと早く出せ!」
「そこじゃない!」
「戻せ!」
互いの声が。
少しずつ荒くなっていく。
さっきまで。
ロッカールームで一つだったチーム。
あの巨大な炎が。
少しずつ。
崩れ始めている。
世界最高峰の選手たちでも。
何をしても上手くいかなければ。
苛立つ。
アルベルトの指示通りに動いている。
なのに。
その先に必ず相手がいる。
右へ行けば。
待っている。
中央へ行けば。
塞がれている。
下がれば。
そこを狙われる。
何をしても。
先回りされる。
「落ち着け!」
アルベルトが叫ぶ。
しかし。
選手たちの焦りは消えない。
前半三十七分。
一人の選手が強引に突破を仕掛けた。
本来なら。
一度戻す場面。
だが。
無理に前へ行く。
奪われる。
「戻れ!」
カウンター。
なんとか防ぐ。
「何やってんだ!」
味方同士で言い合う。
蒼真は眉を寄せた。
――こんなチームだったっけ……。
テレビで何度も見た。
レアル・グラード。
どんな状況でも。
冷静だった。
自分たちのサッカーを崩さない。
それが強さだった。
だが。
今は。
違う。
マクスエルと戦っているというより。
上手くいかない自分たち自身と戦い始めている。
アルベルトも気づいていた。
「まずいな……」
戦術だけではない。
選手の精神状態まで。
崩れ始めている。
アルベルトはもう一度ピッチを見る。
残り時間。
相手の配置。
自分たちの状態。
そして。
指示を出した。
「中盤を上げろ! 奪われても前で取り返せ!」
蒼真の目が動いた。
「……」
なぜか。
胸に引っかかった。
――それ……ちがう……
蒼真はピッチを見る。
マクスエルの前線。
レアルの最終ライン。
中盤。
スペース。
――まずくないか?
だが。
すぐに自分で否定した。
相手は。
アルベルト・グラシア。
世界最高峰の監督。
自分は十三歳。
しかも。
もう選手ですらない。
――何考えてんだ、俺。
アルベルトの指示通り。
レアルの中盤が前へ出た。
前線から圧力をかける。
一瞬。
マクスエルが下がった。
レアルが押し込む。
ベンチが立ち上がる。
「行け!」
だが。
蒼真だけは。
違う場所を見ていた。
マクスエルの一人の選手。
ゆっくり。
レアルの中盤の背後へ移動している。
誰も。
ついていない。
「……そこ」
次の瞬間。
マクスエルのGKから。
長いボールが飛んだ。
レアルの中盤を。
一気に越える。
「……!」
蒼真が身を乗り出した。
ボールが落ちる。
さっき見ていた選手。
完全にフリー。
ワンタッチ。
前を向く。
レアルの最終ラインが下がる。
もう一人が走る。
パス。
シュート。
ゴールネットが。
揺れた。
「…………」
蒼真は動かなかった。
マクスエルの選手たちが走っていく。
歓声が響く。
1―2。
逆転。
アルベルトは。
ベンチ前で立ったまま。
何も言わなかった。
自分が出した指示。
その裏を。
完全に突かれた。
蒼真はアルベルトを見る。
そして。
反対側。
ケビンJr.を見る。
ケビンJr.は。
静かにベンチへ戻っていった。
喜びを爆発させるわけでもない。
まるで。
こうなることを。
知っていたかのように。
蒼真はもう一度。
ピッチを見る。
――見えてた。
さっき。
確かに。
自分には見えていた。
失点する前に。
危ないと思った。
偶然なのか。
それとも。
「……」
蒼真は何も言わなかった。
ピーーーッ!
前半終了。
レアル・グラード 1。
マクスエル・シティー 2。
選手たちが。
ロッカールームへ戻っていく。
誰も喋らない。
苛立っている者。
俯いている者。
首を振っている者。
キャプテンのエスコットが。
必死に声をかけている。
だが。
試合前とは。
まるで違う。
蒼真もアルベルトとともに。
ロッカールームへ戻った。
扉が閉まる。
選手たちが座る。
「もっとサイドを使うべきだ!」
「いや、中央だ!」
「プレスがハマってない!」
「分かってる!」
「だったら――」
「全員、黙れ」
アルベルトだった。
一瞬で。
静かになる。
アルベルトは作戦ボードの前へ向かった。
コーチ陣も集まる。
話し合いが始まった。
「システムを変えましょう」
「いや、それも読まれます」
「前線を一枚増やすべきです」
「それでは中盤が――」
「守備の位置を下げれば――」
「ダメです!」
意見が飛び交う。
アルベルトは。
作戦ボードを見ている。
時間が過ぎていく。
一分。
二分。
三分。
ハーフタイムは。
永遠ではない。
後半開始の時間が。
刻一刻と迫ってくる。
それでも。
答えが出ない。
「これなら――」
一人のコーチが提案する。
「いや、それではケビンに――」
別のコーチが否定する。
「ならこちらは――」
「ダメです!」
声が。
少しずつ大きくなる。
世界最高峰のクラブ。
世界最高峰のスタッフ。
何百試合もの経験を持つ者たち。
その人間たちが。
答えを見つけられずにいる。
蒼真は。
少し離れた場所から。
その光景を見ていた。
――世界一のチームでも……。
コーチの一人が声を荒らげる。
――こんなに取り乱すんだな。
ただ。
その中で。
二人だけ。
ほとんど表情を変えていない人間がいた。
アルベルト。
そして。
一人のベテランコーチ。
二人は作戦ボードを見ながら。
静かに言葉を交わしている。
「……これしかない」
ベテランコーチが言った。
アルベルトは答えない。
別のコーチがそれを聞く。
「待ってください」
アルベルトが作戦ボードの駒を動かす。
「監督……まさか」
「……」
「それはダメです」
一人。
また一人。
コーチたちが止め始める。
「危険すぎます!」
「もし失敗したら試合が終わります!」
「まだ一点差です!」
「そこまでやる必要はありません!」
蒼真には。
何をしようとしているのか。
まだ分からなかった。
ただ。
世界最高峰のコーチたちが。
本気でアルベルトを止めている。
――何するつもりなんだ……?
蒼真が作戦ボードを見ようとした。
その時だった。
「蒼真」
突然。
名前を呼ばれた。
「……え?」
顔を上げる。
アルベルトが。
こちらを見ていた。
ロッカールームにいる選手たち。
世界最高峰のコーチ陣。
全員の視線が。
少しずつ。
車椅子に座る十三歳の少年へ向いていく。
蒼真は。
状況が理解できなかった。
「……何?」
アルベルトは。
蒼真の目を見た。
そして――。
