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第八話 世界最高の監督


スタジアムの中へ入った瞬間。

空気が変わった。

「……すげぇ」

蒼真は思わず呟いた。

外から聞こえていた歓声とは、まるで違う。

分厚いコンクリートの壁を突き抜けるように、何万人もの声がスタジアム全体を震わせている。

ドン――。

ドン――。

地鳴りのような音。

歓声。

歌声。

手拍子。

世界一を決める戦いを前に、巨大なスタジアムそのものが生きているようだった。

蒼真は車椅子に座ったまま、周囲を見渡した。

スタッフ。

警備員。

大会関係者。

クラブスタッフ。

誰もが慌ただしく動いている。

アルベルトはそんな人混みの中を、迷うことなく進んでいく。

蒼真もその後についていった。

しばらく進むと。

一般の観客が入ることのできない区域へ入った。

大きく書かれている。

――関係者以外立入禁止。

「……おい」

蒼真がアルベルトを見る。

「なんだ?」

「ここ入っていいの?」

「私が誰だと思っている」

「そういう問題かよ……」

アルベルトは気にすることなく進んでいく。

廊下を曲がる。

さらに奥へ。

その時だった。

「オオオオオオオオオッ!!」

突然。

奥から大きな声が聞こえた。

蒼真の手が止まる。

「……」

もう一度。

「オオオオオオオオオッ!!」

男たちの声。

何人もの声が重なっている。

蒼真には、すぐに分かった。

「……懐かしい」

試合前。

ロッカールーム。

選手たちが声を出し。

互いに身体を叩き。

最大限まで気持ちを高める。

緊張。

興奮。

恐怖。

闘争心。

そのすべてを。

試合へ向かうための力に変えていく。

蒼真も何度も経験してきた。

大きな試合になればなるほど。

ロッカールームの空気は異常なほど熱くなる。

U-13ワールドカップ決勝の日もそうだった。

あの日。

日本代表のロッカールームも。

こんな空気だった。

「……」

胸の奥が、わずかにざわついた。

アルベルトが立ち止まる。

目の前には、一つの扉。

その中央に刻まれている。

REAL GRADO

蒼真の目が大きくなる。

「……まさか」

アルベルトが扉へ手をかける。

「入るぞ」

「ちょ、待て――」

扉が開いた。

その瞬間。

熱気が押し寄せた。

世界最高峰の選手たち。

レアル・グラード。

そのトップチームの選手たちが、目の前にいた。

ユニフォームへ着替える者。

スパイクの紐を結ぶ者。

ストレッチをする者。

音楽を聴きながら集中している者。

チームメイトと声を掛け合う者。

テレビで何度も見た。

世界的なスター選手たち。

その全員が。

今。

目の前にいる。

「……マジかよ」

蒼真は思わず呟いた。

だが。

さらに驚いたことがあった。

誰も蒼真を見て驚かない。

十三歳の少年。

しかも車椅子。

そんな人間が突然ロッカールームへ入ってきたというのに。

誰一人。

動揺しない。

何人かの選手は。

蒼真を見ると軽く手を上げた。

「よう」

「来たな」

「調子はどうだ、少年」

まるで。

来ることを知っていたかのように。

蒼真はゆっくりアルベルトを見る。

アルベルトは何食わぬ顔で選手たちの中へ入っていく。

――この親父……。

蒼真は心の中で呟いた。

――どこまで根回ししてるんだよ。

一週間前。

病室へ来た時点で。

全部決めていたのではないか。

そんな気さえしてくる。

だが。

アルベルトはもう蒼真を見ていなかった。

表情が変わっていた。

先ほどまで。

車の中で話していた男とは違う。

レアル・グラード監督。

アルベルト・グラシア。

その顔になっていた。

アルベルトは、一人の選手へ近づく。

「調子は?」

「問題ない」

「本当に?」

「ああ」

アルベルトはその選手の顔を見る。

ほんの数秒。

そして肩を軽く叩いた。

「最初の十五分、飛ばしすぎるな」

「……分かった」

次の選手へ。

「昨日は眠れたか?」

「まあまあかな」

「何時間?」

「六時間くらい」

「少ないな」

「決勝だからな」

「アップを少し長めにしろ」

「了解」

また次の選手。

「膝は?」

「大丈夫だ」

「違和感は?」

「少しだけ」

「無理をするな。後半まで使う」

「分かった」

一人。

また一人。

アルベルトは。

全選手と言葉を交わしていく。

長い会話ではない。

ほんの数十秒。

時には。

数秒だけ。

だが。

必ず目を見る。

顔を見る。

声を聞く。

身体を見る。

蒼真は、その様子を黙って見ていた。

――何してるんだ?

ただの雑談ではない。

明らかに。

何かを確認している。

やがて。

最後の選手との会話が終わった。

アルベルトは何も言わず。

ロッカールームの前方へ歩いていく。

そこには。

大きな作戦ボードがあった。

ピッチ。

選手の配置。

相手チームのフォーメーション。

アルベルトはその前に立った。

そして。

腕を組む。

「……」

じっと。

作戦ボードを見る。

何も話さない。

ただ。

考えている。

蒼真は眉を寄せた。

――今?

試合開始まで。

もうほとんど時間がない。

世界一を決める試合だ。

当然。

戦術なんて何日も前から準備しているはず。

相手の映像も。

選手の特徴も。

セットプレーも。

プレスの形も。

すべて分析しているはずだ。

なのに。

アルベルトは。

今。

考えている。

――今日の作戦を、その日に考えるのか?

蒼真は作戦ボードを見る。

いや。

違う。

おそらく。

基本となる戦術はすでに完成している。

今やっているのは。

最後の調整。

先ほど。

一人ひとりの選手と話していた。

顔。

声。

身体。

精神状態。

疲労。

緊張。

怪我。

今日のコンディション。

それを全部確認した上で。

最後の最後に。

今日戦う十一人に合わせて。

戦術を調整している。

「……」

蒼真は無意識に。

アルベルトを見つめていた。

やがて。

アルベルトが顔を上げた。

その瞬間。

近くにいたコーチが声を張り上げる。

「集合!!」

その一言だった。

「……!」

蒼真の背筋に。

鳥肌が走った。

先ほどまで。

それぞれが別々のことをしていた。

スパイクを履く者。

音楽を聴く者。

ストレッチをする者。

話している者。

一人ひとり。

別々の場所で。

別々の感情を持っていた。

それが。

コーチの。

たった一言。

「集合!」

その瞬間。

空気が変わった。

選手たちが一斉に立ち上がる。

アルベルトの前へ集まる。

誰も喋らない。

誰も笑わない。

全員の視線が。

ただ一人。

アルベルトへ向けられる。

蒼真は。

その光景を見ていた。

――なんだ、これ……。

さっきまで。

バラバラだった。

一人ひとりから。

別々の闘争心が出ていた。

だが今は。

違う。

一つ。

まるで。

二十人以上の選手たちの闘争心が。

一つの巨大な炎になったようだった。

「……すげぇ」

蒼真の腕に。

再び鳥肌が立つ。

アルベルトは。

選手たちを見渡した。

そして。

作戦ボードを使いながら。

今日の戦い方を伝えていく。

守備の位置。

プレスをかけるタイミング。

ボールを奪った後。

サイドの使い方。

中盤の立ち位置。

相手が形を変えてきた場合の対応。

細かい。

だが。

難しくない。

必要なことだけを。

短く。

明確に伝えていく。

選手たちは誰一人として目を逸らさない。

全員が。

アルベルトの言葉を聞いている。

世界最高峰の選手たち。

誰もが自分の哲学を持つ。

誰もが自分の力に絶対的な自信を持つ。

そんな男たちが。

この瞬間だけは。

一人の監督の言葉へ。

すべてを預けている。

蒼真は。

それを不思議な感覚で見ていた。

そして。

戦術の説明が終わった。

アルベルトは。

作戦ボードから離れる。

選手たちの前に立つ。

そして。

全員の顔を見渡した。

「一年間」

静かな声だった。

「俺たちは今日のために戦ってきた」

誰も動かない。

「リーグ」

「カップ」

「欧州」

「すべてのタイトルを取る」

「それだけを考えて」

「このチームを作ってきた」

アルベルトの声が。

少しずつ強くなる。

「そして今日」

選手たちの目つきが変わっていく。

「最後の一つが」

「俺たちの目の前にある」

アルベルトが。

拳を握る。

「勝とうなんて考えるな」

選手たちがアルベルトを見る。

「証明しに行け」

一拍。

「世界に」

さらに一拍。

「俺たちが一番強いってことをな」

その瞬間。

「オオオオオオオオオオオッ!!!」

爆発した。

ロッカールームが揺れた。

選手たちが叫ぶ。

拳を突き上げる。

互いの身体を叩く。

肩を組む。

蒼真には。

本当に。

巨大な炎が爆発したように見えた。

――これが……。

蒼真はアルベルトを見る。

――世界最高峰のチーム……。

違う。

選手だけじゃない。

この男が。

まとめている。

世界中から集められた。

世界最高峰の才能。

それを。

一つのチームにしている。

アルベルトは出口へ立った。

選手たちが。

一人ずつ通っていく。

パンッ!

ハイタッチ。

「行ってこい」

パンッ!

「楽しめ」

パンッ!

「お前ならやれる」

一人ひとり。

声をかける。

そして。

なぜか。

選手たちは。

蒼真にも手を差し出してきた。

「……え?」

パンッ!

「行ってくるぜ、少年」

次の選手。

パンッ!

「世界一、見せてやるよ」

次。

パンッ!

「ちゃんと見てろよ」

蒼真は。

戸惑いながらも。

差し出される手へ。

一人ずつ。

タッチを返していった。

「……なんなんだよ」

口ではそう言いながら。

不思議と。

嫌ではなかった。

そして。

最後の一人。

男が。

蒼真の前で立ち止まった。

レアル・グラード。

キャプテン。

エスコット。

世界最高峰のセンターバック。

クラブの精神的支柱。

数々のタイトルを掲げてきた男だった。

エスコットは。

車椅子に座る蒼真を見る。

そして。

右手を差し出した。

蒼真も手を上げる。

だが。

エスコットはすぐにはタッチしなかった。

「少年」

「……?」

エスコットが笑う。

「君に」

「最高の景色を見せてあげよう」

蒼真の目が少しだけ開く。

「そして」

エスコットは言った。

「その目に」

「一生焼きつけなさい」

パンッ――!

強い音。

二人の手が重なった。

エスコットはそのまま。

ロッカールームを出ていった。

「……」

蒼真は。

自分の手を見た。

少しだけ。

熱かった。

選手たちは。

次々とピッチへ向かっていく。

ロッカールームが静かになった。

「さて」

アルベルトが蒼真の車椅子へ手をかける。

「我々も行こう」

「うん」

蒼真は頷く。

そして。

ふと気づく。

「……いや」

「どうした?」

「俺、観客席だろ?」

アルベルトは何も答えない。

「おい」

車椅子が動き出す。

「ちょっと待て」

アルベルトは進む。

「観客席、そっちじゃないだろ」

「知っている」

「じゃあどこ行くんだよ」

アルベルトは答えた。

「ベンチだ」

「…………は?」

蒼真の顔が固まる。

「いやいやいや」

「なんだ」

「俺は観客だろ!?」

「違う」

「違わねぇよ!」

アルベルトは歩き続ける。

「お前には」

通路の先。

光が見えてくる。

そして。

その向こうから。

凄まじい歓声。

「最高の席から」

アルベルトは言った。

「世界最高峰のサッカーを見せてやる」

「ちょっと待――」

視界が。

一気に開けた。

「……!」

巨大なピッチ。

緑の芝生。

埋め尽くされた観客席。

数万人のサポーター。

世界中へ中継されるカメラ。

そして。

世界最高峰の選手たち。

「うおおおおおおおおおおおお!!!」

歓声が。

身体を突き抜けた。

蒼真は。

言葉を失った。

久しぶりだった。

この距離。

この匂い。

芝生。

汗。

歓声。

緊張。

熱。

そして。

試合前にしか存在しない。

この異様な高揚感。

「……」

蒼真は。

もう文句を言わなかった。

言われるがまま。

アルベルトに車椅子を押される。

そして。

レアル・グラードのベンチ。

アルベルトのすぐ近く。

そこへ。

蒼真の車椅子が止まった。

「……マジかよ」

目の前には。

世界最高峰のピッチがある。

かつて。

テレビの向こう側で見ていた場所。

いつか。

自分も立つはずだった場所。

蒼真は。

静かにピッチを見つめた。

やがて。

スタジアムの照明が変わる。

選手入場。

大歓声の中。

二つのチームが姿を現した。

一方は。

スペインの絶対王者。

レアル・グラード。

前年の世界王者。

勝てば。

クラブワールドカップ二連覇。

そして。

対するは。

イングランド。

プレミアリーグ最強クラブ。

マクスエル・シティー。

世界最高峰の攻撃力を誇る。

もう一つの優勝候補。

世界王者。

対。

プレミア最強。

世界最高峰のクラブ同士が。

世界一の称号を懸けて戦う。

選手たちが配置につく。

蒼真は。

ピッチを見ていた。

数ヶ月前。

サッカーを見ることすら嫌だった。

病室から。

ユニフォームも。

スパイクも。

ボールも。

すべて消してもらった。

もう。

サッカーから離れたい。

そう言った。

なのに。

今。

目を逸らせなかった。

アルベルトが。

ベンチの前に立つ。

腕を組む。

その横顔は。

車の中にいた男でも。

病室へ来た男でもない。

世界最高峰の監督。

アルベルト・グラシア。

そのものだった。

主審が時計を見る。

選手たちが構える。

スタジアムのボルテージが。

頂点へ達する。

蒼真の心臓が。

ドクン。

大きく鳴った。

「……」

胸の奥。

ずっと。

何も感じなかった場所。

事故の日から。

消えかけていたもの。

それが。

ほんの少しだけ。

熱を持っている。

蒼真は。

無意識に。

拳を握っていた。

ピーーーッ!!

キックオフ。

世界最高峰の戦いが。

始まった。

その瞬間。

神崎蒼真の心の奥で。

消えかけていた小さな炎が。

ゆっくりと。

もう一度。

燃え始めていた。

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