説明以上のことについて
昔、楽曲のタイトルをつけるときに、誰にでも「わかりやすく」あった方がいいと言われたことがある。僕自身、そう意識していた時期もあった。
コンセプトは明快に、親切に、伝わりやすく。お年寄りでもわかるように・・・(?)
最近は、また少し違う価値観で考えている。
これはどういう音楽?
このフレーズはどういう意図?
何を表現していますか?
人に説明をしなければいけない場面は多々ある。この仕事をしていると、意図が明確であることは正義である。「なんとなく」というのは、大抵見抜かれる。プレゼンの場では、言語化できた方が相手にも納得してもらいやすい。「なんとなく」な音は、所詮その程度の強度しか持たない。
一方で僕は、説明できるものは、説明以上のことをしていない、という考えも持っている。
だから、できれば自分でもうまく説明できないものを作りたい。
僕は、誰かの音楽を聴くときになるべくフラットに聴こうと心がけている。
それでも職業的な耳で聴いてしまうけれど。
そのとき、「何をやっているか完全に理解できて、すごい」と思う作品には感心する。でも「よくわからないけれど、なぜか残る」作品に出会うと、ちょっと悔しいというか、打ちのめされる。
ただ単に、自分の教養の浅さが露呈しているだけかもしれないが。
「この音楽はこういうものです」「この文章の主旨はこうです」「この音は、これを象徴しています」「私はこういう作曲家です」
そうやって言葉にした途端に、何かがこぼれ落ちるのが怖い。
たいていのものは、説明しようと思えば説明できる。理屈でなんとでもなるのだ。しかしながら、説明できたことが、その作品のすべてになってしまうのなら、それは結局、説明以上のことをしていない。
論理や解説は、解釈や創作の手順を合理化したり、正当化したりするための手段でもある。
もちろん、作品について言葉を残すことを否定しているわけではない。僕自身、ライナーノートや解説を書くし、そのとき何を考えていたのかを言葉にしておくことにも意味はある。定点観測として。
ただ、作者自身の言葉でさえ作品のすべてではない。
説明はできる。ただ、その説明から何かがはみ出していてほしいと、ささやかに。僕が作りたいのは説明したあとにも、まだ曖昧な何か、割り切れない痕跡が残っているもの。
ところで今、こういうことを説明していること自体が、この感覚を説明しようとしているわけで。
すでに大きく自己矛盾している。
