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恋は、安心から。第1話|安心の匂い

この物語は、安心から始まる。

人は恋に落ちる前に、 もっと静かなことをしている。

好きかどうかより先に、 無意識に確かめている。

――この人は、怖くないか。

これは、恋の入口の話。

凛は、人と目が合うと、ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなる。

自分でも気づかないほどの、小さな緊張。

カフェ「月舟」は、駅から少し離れた通りにある。 午後三時を過ぎると、コーヒーの香りとやわらかなジャズが店内に溶ける。

カラン、とベルが鳴る。

音だけで、身体がわずかに反応する。

声の大きさ。 歩く速度。 視線の止まり方。 距離。

怒鳴らないか。 急に近づいてこないか。

好きかどうかは、そのあとだ。

その日、グレーのコートの男性が入ってきた。

音を立てない足取り。 静かな視線。

そして、ふわりと漂う匂い。

石鹸のような、乾いたタオルのような、主張しない香り。

その瞬間、胸の奥がほどけた。

――あ。

呼吸が、深くなる。

翌日も、雨だった。

彼はまた、窓際の席に座った。

近づいたとき、あの匂いがする。

懐かしい記憶の匂いだ、と気づく。

干したてのシーツ。 陽だまりの縁側。 怒鳴り声のない家。

匂いは、理性を通らない。 記憶と感情に、直接触れる。

だから理屈より先に、安心が来る。

「ここ、落ち着きますね」

彼がそう言ったとき、凛は少しだけ笑った。

何度か雨の日が過ぎた。

同じ席。 同じブレンド。 同じ声の温度。

一定であることは、 それだけで安心になる。

ある日、彼は少し乱れていた。

濡れたコート。 荒い呼吸。

凛の胸が、わずかに揺れる。

けれど、怖くはなかった。

これまでの時間が、支えていた。

信頼は、乱れないことではなく、 乱れたときに怖くないこと。

「ここなら、大丈夫な気がして」

彼のその一言で、凛は知る。

自分もまた、誰かにとって 怖くない存在になれているのだと。

好きだからではない。

安心できると知っているから、 好きになる。

雨音が、やわらかく窓を打つ。

コーヒーの苦みと、 石鹸の淡い匂い。

それで、十分だった。

心理メモ

・人は「好き」より先に「怖くないか」を確かめている
・安心は、一定であることの積み重ねから生まれる
・信頼は、乱れないことではなく、乱れても怖くないこと

安心は、偶然ではない。 少し整えることができる。

▶ 第2話|半歩の距離
https://note.com/renai_memo/n/nc874e9b41427

▶ なぜ私は『安心の恋』を書いているのか https://note.com/renai_memo/n/n2ede49bdf255

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