恋は、安心から。第1話|安心の匂い
この物語は、安心から始まる。
Ⅰ
人は恋に落ちる前に、 もっと静かなことをしている。
好きかどうかより先に、 無意識に確かめている。
――この人は、怖くないか。
これは、恋の入口の話。
Ⅱ
凛は、人と目が合うと、ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなる。
自分でも気づかないほどの、小さな緊張。
カフェ「月舟」は、駅から少し離れた通りにある。 午後三時を過ぎると、コーヒーの香りとやわらかなジャズが店内に溶ける。
カラン、とベルが鳴る。
音だけで、身体がわずかに反応する。
声の大きさ。 歩く速度。 視線の止まり方。 距離。
怒鳴らないか。 急に近づいてこないか。
好きかどうかは、そのあとだ。
その日、グレーのコートの男性が入ってきた。
音を立てない足取り。 静かな視線。
そして、ふわりと漂う匂い。
石鹸のような、乾いたタオルのような、主張しない香り。
その瞬間、胸の奥がほどけた。
――あ。
呼吸が、深くなる。
Ⅲ
翌日も、雨だった。
彼はまた、窓際の席に座った。
近づいたとき、あの匂いがする。
懐かしい記憶の匂いだ、と気づく。
干したてのシーツ。 陽だまりの縁側。 怒鳴り声のない家。
匂いは、理性を通らない。 記憶と感情に、直接触れる。
だから理屈より先に、安心が来る。
「ここ、落ち着きますね」
彼がそう言ったとき、凛は少しだけ笑った。
Ⅳ
何度か雨の日が過ぎた。
同じ席。 同じブレンド。 同じ声の温度。
一定であることは、 それだけで安心になる。
ある日、彼は少し乱れていた。
濡れたコート。 荒い呼吸。
凛の胸が、わずかに揺れる。
けれど、怖くはなかった。
これまでの時間が、支えていた。
信頼は、乱れないことではなく、 乱れたときに怖くないこと。
「ここなら、大丈夫な気がして」
彼のその一言で、凛は知る。
自分もまた、誰かにとって 怖くない存在になれているのだと。
好きだからではない。
安心できると知っているから、 好きになる。
雨音が、やわらかく窓を打つ。
コーヒーの苦みと、 石鹸の淡い匂い。
それで、十分だった。
心理メモ
・人は「好き」より先に「怖くないか」を確かめている
・安心は、一定であることの積み重ねから生まれる
・信頼は、乱れないことではなく、乱れても怖くないこと
安心は、偶然ではない。 少し整えることができる。
▶ 第2話|半歩の距離
https://note.com/renai_memo/n/nc874e9b41427
▶ なぜ私は『安心の恋』を書いているのか https://note.com/renai_memo/n/n2ede49bdf255
