自由という苦痛
「自由」は自分のペンネームにするほど思い入れのある言葉だが、なかなか奥が深いと思う。
エーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』を一文字も読んでいない愚か者だが、タイトルだけである程度の想像はできる。自由とは、人によっては逃げ出したくなるほど重いものらしい。
南北戦争後、奴隷解放によって自由を得た黒人たちの中に、かつての主人の農場へ自ら戻った者たちがいた。法的には解放された。しかし土地も金も行き先もなく、与えられた自由の前で立ち尽くした。彼らが手にしたのは「主人からの自由」だけだった。どこへ向かうかという自由ではなく、ただ鎖を断ち切られたという事実だけが残った。
自由には二種類あると言われる。「何かから逃れる自由」と、「何かへ向かう自由」だ。前者は与えられるものだが、後者は自分で作るしかない。そしてほとんどの人間は、その違いを自由になってはじめて知る。
日本社会も似たような逆説の上に立っている。
「イエ」という制度は確かに重い呪縛だった。家同士の利害、親の意向、共同体の視線——個人の感情や選択が入り込む余地は狭かった。お見合い結婚はその産物であり、自由とは対極の婚姻形態だったかもしれない。
しかし「イエ」が解体され、恋愛結婚が主流になると、皮肉にも離婚率は上昇した。「自分で選んだ」という自由は、同時に「自分で責任を取れ」という宣告でもあった。お見合いなら「親が決めた相手だから」と外部に帰属できた失敗が、恋愛婚では純粋に自分の判断ミスになる。
婚活のマッチングアプリには常に大量の候補がいるのだろう。選択肢が増えるほど人は「最善を選べたか」という疑念から逃れられなくなる。ジャムがたくさん並んだスーパーでは、客は買わずに帰るのと同じだ。自由とは時に、選ぶことが苦痛で、選べないことの別名だ。
「責任を取りたくない人間にとって、自由は有害である」
これを言うと、道徳的な批判に聞こえるかもしれない。しかし責任を回避したいという欲求は、人間のデフォルト設定なのだろう。むしろ自由を喜んで引き受けられる人間のほうが、少数派の特殊例なのかもしれない。
現代日本の「指示待ち人間」も、SNSの同調圧力も、正社員という身分へのしがみつきも——構造は変わらない。会社という「イエ」に帰属することで、人は判断の責任を手放す。それを怠慢と呼ぶのは簡単だが、実態は人間の本能なのかもしれない。
皮肉なのはここからだ。
自由を扱える少数の人間が、働き方を変え、結婚の形を変え、制度を少しずつ壊していく。その余波は、自由を望んでいなかった人々にも及ぶ。転職が当たり前になり、終身雇用が崩れ、離婚が普通になる——誰も頼んでいないのに、自由が降ってくる。
奴隷解放とほとんど同じ構図だ。鎖を断ち切ることと、その後どこへ向かうかは、別の問題だった。
自由とは、準備のできていない者に突然手渡される劇薬なのかもしれない。ゲームチェンジを飲み込めた者だけが恩恵を受け、飲み込めなかった者は猛毒となる。そして社会はその両者を、同じ「自由」という言葉で区別なく呼び続ける。
最後に、橘玲さんの一文を引用して締めたい。
私はずっと、自由とは自らの手でつかみとるものだと考えていた。だがようやく、それが間違っていたことに気がついた。自由は、望んでもいないあなたのところに扉を押し破って強引にやってきて、外の世界へ連れ去るのである。
