中井紀夫「山の上の交響楽」雑感―ベンヤミンに寄せて
日本SFの臨界点 中井紀夫 ―山の上の交響楽―
中井紀夫、伴名練(編)、早川書房、2021年
名前だけは聞いたことが…というレベルだったが表題作(1988年度の星雲賞日本短編部門受賞)に惹かれてこの機に読み始めた
さる天才作曲家が天啓を受け生涯を懸けて遺したスコア、演奏には数千年から一万年を要すると言われる
この交響曲を演奏するために町を挙げて組織された楽団は、昼夜8交代、総勢800名で演奏を続ける 特設の奏楽堂の場所からいつしか「山頂交響楽」と呼ばれるようになった
演奏開始から200年を経て、3ヶ月後に最大の難所と目される「800人楽章」を控えた楽団の、事務局員を中心に物語は進む
様々な困難(総譜からの写譜の遅れ、特注の大楽器「八百尺」と「石琴」の製造、ソリストの精神不安、指揮者の演出への拘り…)を越えて無事に「800人楽章」は演奏された
ユーモラスでもあり不条理でもあり、爽やかとは少し違う独特な読後感だが、短編として無類の面白さがあった
編者の伴名練による丁寧な解説(筆者インタビュー引用)によれば、このモチーフはジョン・ケージ的な現代音楽ではなく、むしろインドネシアのガムランやケチャにインスピレーションを受けたそうである
この伝統音楽では複雑なリズムが複合していくが、パート毎のリズムはその血族で受け継がれ、先祖代々そのリズムが連綿と継承されるそうである
あくまで趣味として音楽(合唱)演奏をする身として本作で印象的だったのは、もはや200年を経て演奏開始を知る者もなく、謂わば惰性で続く交響楽のもつ意味とは、という作中でのやり取りである
天才作曲家の東小路は、この作品は宇宙で2度演奏されてはならず、そのため無限の(に近い)長さにしたとの伝承が残る
楽団員たちは、続けることに意味があると言い聞かせるが(20年前に演奏したきりのトライアングル奏者は命がある内の出番を心待ちにする)、最後までこの演奏への疑問も拭えない
800人楽章は、写譜の遅れからゲネプロ無しのぶっつけ本番で強行された
クライマックスでは指揮者の拘りによる演出として奏楽堂の屋根が開放される
主人公は自然への一体感とともに、音楽へ没入し、「この瞬間が、全宇宙史の中で、ただの一度しかない瞬間」であることを悟った
この一連の流れから連想されたのは、安直ではあるが、ベンヤミンによる「複製技術時代の芸術」である(参照は河出文庫版『ベンヤミン・アンソロジー』の山口裕之訳「技術的複製可能性の時代の芸術作品」)
20世紀のメディア・芸術論を予言するかのようなベンヤミンの明晰な筆致は、写真が一般化し映画が勃興する時代にあって、芸術の要件を定義する そのキーとなる概念がアウラ(オーラ)である
芸術が唯一無二であるのは、オーラを持っているからである
オーラはオリジナル作品の一回性、真正性から立ち上がる
複製時代以前の芸術は、儀式であり礼拝価値を持つが、複製時代の芸術(≒写真や映画)は、政治的であり展示価値によって測られる
音楽でいえば(西洋のクラシック音楽に限られるが)、旧来のミサ曲や宮廷音楽は一回性であるが、音楽が産業化され楽団によって市民に演奏される現代の交響曲は複製されるものである
ベンヤミンの思想を辿るにはまだ不勉強であり、同書の意義も一面的にしか捉えられていないが、補助線に使用するなら、
山頂交響楽は、宇宙において1回のみ演奏されること、永続的に演奏されているがその時々の奏者と聴衆にとっては唯一無二であること、そのこと自体が究極の芸術であることを志向されていたのではないだろうか
ここにはプロであれアマチュアであれ音楽(に限らず芸術)を愛する者に強く訴えかけるオーラが備わっている
