パンツの向こう側
よもぎさんに捧ぐ
井上は、何かと白石を思い出す。
たとえば、ダンスが済んだあと。
あるいは、
タンスが住んだあと。
もっと言えば、
だんだんダンスが淡々済んだあと。
こういうとき、なぜか白石の顔が浮かぶ。
「なんでだよ」
井上は一人で言った。
もちろん、誰も答えない。
答えないどころか、タンスも答えない。
タンスには引き出しがある。
しかし、答えはない。
それがタンスという家具の限界なのだろう。
午前一時四十八分。
井上は自分の部屋でパンツを履いた。
パンパンパンツ。
パン。
パンパン。
パンパンパンパパン。
音がした。
「……またか」
井上は立ち上がった。
パンツを脱いだ。
パンパンパンパパン。
音がした。
「なんでだよ」
もう一度履いた。
パンパンパンツ。
脱いだ。
パンパンパンパパン。
履いた。
パンパン。
脱いだ。
パンパン。
「白石か?」
もちろん返事はない。
ただ、窓の外で風が吹いた。
カーテンが揺れた。
冷蔵庫がブーンと鳴った。
そしてパンツが、
パン。
と鳴った。
「絶対お前だろ」
井上はパンツを睨んだ。
パンツは黙っていた。
こういうとき、パンツは強い。
何を言われても黙っていられる。
人間にはなかなかできない。
だから井上は少しだけパンツを尊敬した。
そして、そのせいでまた白石を思い出した。
白石は、昔から変な奴だった。
変な帽子をかぶっていた。
変な歌を歌っていた。
変なところで笑っていた。
そして、変なところで真面目だった。
「パンツの音って、なんの音だと思う?」
ある日、白石が真剣な顔で訊いてきた。
井上は答えた。
「パンツの音だろ」
「違う」
「じゃあ何だよ」
白石は少し考えてから言った。
「人生」
「帰れ」
「まだ来たばっかりだぞ」
「帰れ」
「どこへ?」
「知らん」
二人で笑った。
あの頃は、何でも笑えた。
パンツでも笑えた。
タンスでも笑えた。
ダンスでも笑えた。
ダンスとタンスの違いについて二時間話したこともある。
結論は出なかった。
そもそも、出す必要もなかった。
井上は机の引き出しを開けた。
中には、古いレシートが入っていた。
映画のチケット。
コンビニのおにぎりの包装紙。
意味のわからないメモ。
そして、写真が一枚。
白石が写っていた。
笑っている。
相変わらず変な帽子をかぶっている。
「なんだよ、その帽子」
井上は写真に向かって言った。
当然、返事はない。
「似合ってねえぞ」
返事はない。
「……でも、まあ」
井上は写真を眺めた。
「悪くなかったな」
写真の中の白石は笑っている。
あの日も、こんな顔だった。
何かが終わった日だった。
でも、二人にとっては何かが始まった日でもあった。
白石は言った。
「また来ようぜ」
井上は答えた。
「当たり前だろ」
その「また」が来なかった。
だから井上は、ときどき思う。
約束というものは、未来に向かって投げるものではなく、
過去に向かって戻ってくるものなのではないか、と。
投げたボールが戻ってくるように。
言葉も。
笑い声も。
名前も。
いつか、自分のところへ戻ってくる。
ただし、少し違う形で。
白石の声は、もう聞こえない。
でも、パンツは鳴る。
パンパンパンツ。
パンパンパンパパン。
「お前か?」
井上はまた訊いた。
もちろん返事はない。
「白石よ」
窓を開けた。
夜風が入ってきた。
遠くで電車が走っている。
街のどこかで、誰かが笑っている。
犬が一匹吠えた。
それから静かになった。
井上は空を見上げた。
星は少なかった。
都会の空は、だいたいそういうものだ。
でも、その少ない星の一つが妙に明るく見えた。
「あれ、お前?」
もちろん違う。
白石が星になったなんて、井上は思わない。
そんな綺麗な話にするつもりはない。
人は、そんな簡単に星にはならない。
だったら、パンツになったのかもしれない。
「それも嫌だな」
井上は笑った。
白石なら、
「なんでだよ。俺、結構いいパンツになるぞ」
とか言いそうだった。
「ならねえよ」
井上は空に向かって言った。
「お前は白石だろ」
返事はない。
それでも井上は、少しだけ待った。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起きない。
「……なあ、白石よ」
井上は笑った。
「なぜにすぐに答えない」
やっぱり返事はない。
だから井上は部屋に戻った。
机の上に写真を置いた。
引き出しを閉めた。
電気を消した。
ベッドに入った。
目を閉じた。
すると、
パン。
と音がした。
「……」
パンパン。
「……おい」
パンパンパンパパン。
井上は布団の中で笑った。
「まだいるのかよ」
返事はない。
でも、今度はそれでよかった。
白石の思い出は、なくならない。
パンツを履いたときも。
脱いだときも。
ダンスが済んだあとも。
タンスが住んだあとも。
だんだんダンスが淡々済んだあとも。
意味のない言葉の隙間から、
突然、あいつが出てくる。
人生なんて、そんなものなのかもしれない。
大切な人は、立派な記念碑になって残るとは限らない。
古い写真の端っこだったり、
聞き間違いだったり、
どうでもいい歌だったり、
パンツの音だったりする。
だから井上は思う。
思い出せるうちは、
まだ会える。
声が聞こえなくても。
姿が見えなくても。
答えが返ってこなくても。
「あしたも鳴るかな」
井上はパンツに訊いた。
もちろん答えはない。
でも、
パン。
と小さな音がした。
井上は笑った。
「……じゃあ、おやすみ」
暗闇の中で、
もう一度だけ、
パンパンパンパパン。
と鳴った。
井上は目を閉じた。
白石の思い出は、
今日も眠らない。
そしてたぶん、
明日も眠らない。
パンツも眠らない。
タンスも眠らない。
ダンスは、
もう済んだ。
だから井上も、
そろそろ眠ることにした。
