『燃ゆるアンスリウム』知りたがり向け深掘り解説
この小説は、表面だけ読むと「家の中で二人の男が言い争っている、不思議な夢の話」です。
でも、もう一段深く読むと、
「人は、自分の嫌な部分とどう向き合うのか」
を描いた心理小説として読むことができます。
しかも作者は、それを説明文で教えてくれません。
「鏡」「穴」「白い炎」「スプーン」「アンスリウム」などの不思議なイメージを使って、主人公の心の中を外の世界に変換しています。
1.最大の謎は「俺」と「奴」は別人なのか?
この作品を読むと、最初は当然、
俺=主人公
奴=主人公とは別の人物
だと思います。
ところが、読み進めるほど怪しくなってきます。
特に、
「俺が、憎い?」
という言葉が重要です。
「俺」と「奴」のどちらが言ったのかわからなくなっている。
つまり、二人の境界線が消えていくのです。
これは、
「二人の人間がケンカしている」のではなく、「一人の人間の中で、二つの自分がぶつかっている」
と考えると理解しやすくなります。
たとえば、自分の中に、
「自分は悪くない」
と思う自分と、
「いや、本当は自分にも悪いところがあった」
と思う自分がいたらどうでしょう。
頭の中で二人が言い争っているような状態になります。
この小説では、その「心の中のケンカ」を、本当に二人の人物がいるように描いている可能性があります。
2.この物語の本当の敵は「他人」ではない
最初のセリフをもう一度見てみます。
「自分の方が優れてるって、心の奥底で思ってたんだろ?」
これはかなり痛い質問です。
主人公は誰かを見下していたのではないか。
「自分のほうが頭がいい」
「自分のほうが相手を理解している」
「相手は自分より劣っている」
そんな気持ちが、心のどこかにあったのではないか。
つまり、この小説で主人公が苦しんでいる原因は、単純な「他人とのケンカ」ではありません。
自分自身の中にある嫌な部分を見つけてしまったこと
なのです。
これは誰にとっても意外と身近なテーマです。
学校でも、
「なんであいつ、こんなこともできないんだよ」
「自分のほうがうまい」
「自分のほうがわかっている」
と思うことがあります。
それ自体は、人間なら誰でも持ちうる感情です。
重要なのは、
「そんな感情を自分が持っている」と気づいたとき、どうするか。
この小説は、そこを描いているように読めます。
3.主人公は「相手」を嫌っているのか、「自分」を嫌っているのか
ここが、この作品の面白いところです。
主人公は相手を憎んでいます。
でも、同時に自分自身にも怒っているように見えます。
だから、
「俺が、憎い?」
という質問が繰り返されます。
普通なら、
「お前が憎い」
で終わります。
ところが、この小説では、
「お前が憎い」のか「自分が憎い」のかがわからなくなる。
ここには「自己嫌悪」というものが隠れていると考えられます。
自己嫌悪とは簡単に言えば、
「自分のことが嫌になってしまう気持ち」
です。
たとえば、
「なんであんなこと言っちゃったんだろう」
「なんであんな態度を取ったんだろう」
と後から自分を責めることがあります。
主人公も、それに近いところにいるのかもしれません。
4.なぜ主人公は殴れないのか
主人公は相手を殴ろうとします。
しかし、実際には殴れません。
ここは単なる「ケンカの場面」ではありません。
もし「奴」が主人公の中にいる、もう一人の自分だとしたら、
相手を殴ること=自分自身を攻撃すること
になってしまいます。
だから、怒りはものすごく強いのに、行動としては止まってしまう。
ここには、
「自分を責めても、本当の問題は解決しない」
という読み方もできます。
人間は失敗すると、
「自分はダメだ」
「自分なんて最低だ」
と、自分自身を攻撃してしまうことがあります。
でも、
「何が悪かったのか」
を考えることと、
「自分そのものがダメだ」
と決めつけることは別です。
この違いが、この小説を読むうえで重要です。
5.「鏡」がとても重要
この小説では鏡が重要な役割を持っています。
ところが途中で、
鏡が消えて、穴になる。
これは現実にはありえません。
だからこそ、心理的な意味を考えることができます。
鏡とは、
自分を見る道具
です。
つまり、
鏡がある
↓
自分を見ることができる
鏡がなくなる
↓
自分自身を見失う
という意味に考えられます。
主人公は、自分のことがわからなくなっている。
「自分は正しいのか?」
「自分は悪いのか?」
「自分は誰なのか?」
そんな状態です。
だから鏡が消えてしまうのです。
6.鏡の代わりに「穴」がある
ここはさらに面白いところです。
鏡がなくなったあと、
ぽっかりとした暗い穴
が現れます。
その奥には、
白い炎
があります。
これは「自分の心の奥」を表しているようにも見えます。
心の中をのぞき込んだら、何があるかわからない。
でも、完全な真っ暗闇ではない。
そこには白い炎が燃えている。
つまり、
主人公の心は混乱しているけれど、完全に何もなくなったわけではない
とも考えられます。
怒りもある。
悲しみもある。
悔しさもある。
それでも、心はまだ動いている。
だから「炎」が燃えているのかもしれません。
7.なぜ「白い炎」なのか?
「炎」といえば普通は赤やオレンジを想像します。
ところが、この作品では、
白い炎
です。
ここにも不思議さがあります。
白には、
光
純粋さ
無垢
冷たさ
空白
など、いろいろなイメージがあります。
一つに決める必要はありません。
むしろ、
「怒りなのに赤ではなく白い」
という違和感そのものが重要なのだと思います。
主人公の感情は、単純な怒りではありません。
怒り、悲しみ、自己嫌悪、後悔、混乱などが混ざっています。
だから、普通の炎では表せない。
作者は「白い炎」という奇妙なイメージにしているのではないでしょうか。
8.大量のスプーンは「意味がわからないから面白い」
この作品には、スプーンが大量に登場します。
ティースプーン。
ブイヨンスプーン。
計量スプーン。
薬匙。
いろいろなスプーンがあります。
そして、それをフォークで何度も突き刺しています。
「何の意味なの?」
と思いますよね。
ここで大切なのは、
必ず一つの意味に決めなくてもいい
ということです。
作者自身が「夢をそのまま書いた」と説明しているので、夢の中に出てくる不思議な物として読むこともできます。
夢では、
「なぜここにそんな物が?」
というものが突然出てきます。
この小説では、その夢らしさを利用しています。
ただ、心理的に読むなら、
「日常の道具が、本来とは違う使われ方をしている」
ことも面白い。
スプーンは本来、食事をするための道具。
フォークも食事をするための道具。
ところが、それらが攻撃的な行動に使われています。
つまり、
普通の日常が、主人公の心の中では異常なものに変わっている
とも考えられます。
9.「スプーンを穴に投げ込む」ことの意味
主人公はスプーンを穴に投げ込みます。
そして、スプーンは消えてしまいます。
これは、
「自分の中にある嫌なものを、どこかへ捨てようとしている」
ようにも見えます。
怒り。
憎しみ。
後悔。
嫌な記憶。
そういうものを、
「もういらない」
と心の奥へ投げ込んでいるようにも読めます。
でも、完全に消えたわけではありません。
最後には鏡が戻ってきます。
つまり、
自分の問題は、どこかへ捨てれば終わるものではない
のかもしれません。
最後は自分自身と向き合わなければならない。
10.そして「鏡」が戻ってくる
ここで大きな変化があります。
穴だった場所に、
鏡が戻ります。
主人公は自分の顔を見ます。
頬に触れます。
額に触れます。
笑顔を作ります。
そして、その笑顔を壊します。
また作ります。
これは、
「自分とは何なのか」を確かめている
ように見えます。
「怒っている自分」も自分。
「泣いている自分」も自分。
「笑っている自分」も自分。
「相手を憎んでいる自分」も自分。
つまり、主人公は自分の中にあるいろいろな面を確認しているように読めます。
11.タイトルの「燃ゆる」は何なのか
ここでタイトルに戻ります。
『燃ゆるアンスリウム』
です。
アンスリウムは、ハートのような形が特徴的な植物です。
花言葉には複数のものがありますが、「情熱」「印象深い」などが挙げられています。また、白いアンスリウムには「熱心」という意味を紹介する資料もあります。
ただし、この作品では「花言葉=作者の答え」と決めつけないほうがいいでしょう。
むしろ、
白いアンスリウムが、主人公の混乱した心の中で妙にはっきり存在している
ことに注目したいです。
周囲はぼんやりしている。
鏡が消える。
穴ができる。
炎が燃える。
二人の声が混ざる。
そんな不安定な世界の中で、
アンスリウムだけは、いつもの場所にある。
これは非常に印象的です。
12.「アンスリウム=主人公の心」と考えることもできる
少し大胆に読むなら、
アンスリウムそのものが主人公の心の象徴
とも考えられます。
外側は白い。
しかしタイトルには「燃ゆる」とある。
つまり、
外から見ると静かでも、内側では激しい感情が燃えている。
主人公も同じです。
表面では家の中にいるだけ。
しかし心の中では、
怒り。
憎しみ。
後悔。
自己嫌悪。
葛藤。
いろいろなものが燃えています。
だから、
「燃えているのは花ではなく、主人公の心なのではないか」
という読み方ができます。
13.最後に「兄さん?」という声がする意味
最後に、
「兄さん? 兄さん、どこ?」
という声が聞こえます。
ここで突然、現実らしい世界に戻ります。
「今までのことは夢だったの?」
と思わせる仕掛けです。
作者自身も、
「見た夢をそのまま書きました」
と書いています。
だから、この作品を完全な現実世界の物語として説明しようとすると、かえって難しくなります。
むしろ、
夢だからこそ、心の中の感情が「人」「鏡」「穴」「炎」「植物」などの姿になって現れている
と考えると面白くなります。
14.この作品は「夢の小説」でもある
ここは作者のコメントも重要です。
作者は、地震で目が覚めたものの、また眠ってしまい、そのとき見た夢をそのまま書いたと説明しています。
だから、この作品には普通の小説とは違う特徴があります。
普通の物語なら、
「Aという出来事が起きたからBが起きた」
という原因と結果があります。
でも夢は違います。
突然場所が変わる。
知らない人が出てくる。
ありえない物が出てくる。
さっきまであったものが消える。
人の声が誰のものかわからなくなる。
この作品には、そういう夢の論理がたくさんあります。
だから、
「スプーンは何を意味するの?」
と一つ一つ答えを探しすぎるより、
「主人公の心が夢の映像になっている」
と考えるほうが作品全体を理解しやすいです。
15.知りたがりなら、ここを一番考えてほしい
この小説には、
「自分の中にも嫌な部分がある」
というテーマがあります。
人間は誰でも完璧ではありません。
誰かをうらやましく思うこともあります。
人を見下してしまうこともあります。
自分だけが正しいと思うこともあります。
失敗したあとに、
「なんであんなことをしたんだろう」
と後悔することもあります。
大切なのは、
「そんな感情を持った自分は最低だ」
と決めつけることではありません。
「自分にはこういう部分もあるんだ」
と気づくことです。
そして、
「じゃあ、次はどうしよう?」
と考える。
この作品の主人公が最後に鏡を見るのも、その意味では象徴的です。
16.「鏡を見る」ということは「自分から逃げない」ということ
この作品を一言でまとめるなら、私はここに注目します。
主人公は最後に、自分を見る。
それまでは、
相手を責める。
怒る。
殴ろうとする。
スプーンを投げる。
穴を見る。
炎を見る。
いろいろなところへ意識が飛んでいます。
ところが最後には、
鏡を見る。
つまり、
「誰が悪い?」
ではなく、
「自分はどういう人間なんだ?」
というところへ戻ってきたように見えます。
これは、この作品の大きな変化です。
17.この小説の構造を簡単に図にすると
① 他人を責める
↓
② 自分の中の嫌な部分を指摘される
↓
③ 怒る・泣く・混乱する
↓
④ 自分と相手の境界がわからなくなる
↓
⑤ 鏡が消える
↓
⑥ 心の奥の「穴」と「炎」が現れる
↓
⑦ スプーンを投げ続ける
↓
⑧ 鏡が戻る
↓
⑨ 自分の顔を見る
↓
⑩ 「自分自身」と向き合い始める
こう見ると、単なる奇妙な夢ではなく、
「自己嫌悪→混乱→自己認識」
という心の動きを描いた作品にも見えてきます。
18.結局、この小説は何を言いたいのか?
もちろん、作者本人が明確な答えを示していない以上、これはあくまで一つの読み方です。
でも、私はこう読むと非常に面白いと思います。
人間は、自分の嫌な部分から逃げようとすると、ますます自分がわからなくなる。
でも、
「自分にもこういうところがある」
と認めて、自分自身を見ることができれば、少しずつ前へ進める。
だから最後に鏡が出てくる。
そして、その鏡の近くにはアンスリウムがある。
周囲の世界がどれほど不思議になっても、そこには一つの確かなものが残っている。
それが、この小説の最後に残される美しいイメージなのだと思います。
知りたがり向けに最後に一言でまとめるなら
『燃ゆるアンスリウム』は、「嫌な自分から逃げるのではなく、自分の中にある怒りや弱さも含めて、自分自身を見つめようとする物語」
です。
そして、タイトルの「燃ゆる」は、もしかすると主人公の胸の中で燃え続けている怒りや後悔、そして生きようとする力なのかもしれません。
だから、この作品は「怖い不思議な夢」で終わらせてもいいし、
「自分自身を理解するための、心の中の冒険」
として読んでも面白い作品です。
