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おならの虹


よもぎさんに捧ぐ


まだ開演まで三十分もあるというのに、会場前にはすでに人の波ができていた。

俺――井上は、その波の最後尾に白石と並んで立っていた。

「楽しみですね」

白石が言った。

「お前、今日何回目だよ、それ」

「三回目です」

「数えてたのかよ」

「大事なことなので」

相変わらず、こいつはよくわからない。

今日は二人で、ずっと楽しみにしていたバンドのライブに来ている。

会場の中へ入る。

照明は暗い。

ステージの中央にはマイクが一本。

巨大なスピーカーが左右にそびえている。

観客はみんな、今か今かとステージを見つめていた。

俺も腕を組んだ。

今日は余計なことを考えない。

思いきり楽しむ。

そのつもりだった。

──ブッ。

小さな音がした。

俺は何も考えず、前を見ていた。

隣を見る。

白石も前を見ている。

「……」

「……」

気のせいだ。

そういうことにした。

ところが。

──ブッ。

今度は、さっきより少し長い。

俺は白石を見た。

白石も俺を見た。

「……井上君」

「なんだよ」

「今日の会場は、随分と音響が良いですね」

「お前だろ!」

「違います」

「じゃあ誰だよ!」

白石は真顔だった。

その真顔が、逆に怪しい。

俺は鼻をひくつかせた。

しかし、周囲の人間は誰も振り返らない。

どうやらまだ大丈夫らしい。

「気にしないでください」

「お前が言うな」

ステージの照明が落ちた。

会場が一斉に沸く。

歓声が膨れ上がる。

俺も思わず拳を握った。

いよいよだ。

メンバーがステージへ出てくる。

歓声。

拍手。

そして最初の一音。

──ドンッ。

巨大な音が会場を揺らした。

俺は叫んだ。

白石も叫んだ。

最高だ。

最高のライブになる。

そう思った、その瞬間だった。

──ブォッ。

今度は明らかに聞こえた。

しかも音楽の低音と絶妙に重なった。

俺は白石を見る。

白石はステージを見ている。

「白石」

「はい」

「お前だろ」

「違います」

「じゃあ誰なんだよ!」

白石は少し考えてから、

「音楽ではないでしょうか」

「そんなわけあるか!」

ところが、後ろの方から笑い声が聞こえた。

誰かが振り返った。

その隣の人も振り返った。

さらにその隣も。

波紋のように視線が広がっていく。

そして、また。

──ブッ。

今度は右から聞こえた。

さらに左。

──ブッ。

──プッ。

──ブォン。

「……」

「……」

会場の空気が変わった。

観客たちは困惑している。

誰も原因がわからない。

ステージ上では何事もなかったように演奏が続いている。

だが、観客席では別の演奏が始まっていた。

「おならライブになってる……」

白石が呟いた。

「言うな!」

その直後、

──ブブブブブッ。

「長い!」

俺は叫んだ。

周囲から一斉に笑い声が起こった。

笑ってはいけない。

ライブだ。

真剣に音楽を聴くべきだ。

なのに、もう無理だった。

誰かが吹き出した。

それにつられて別の誰かも笑った。

笑い声が広がる。

ステージの演奏と観客席の笑い声が、奇妙な二重奏になった。

「ピーヒャラ、ピーヒャラ」

白石が小さな声で言った。

「何の真似だよ」

「笛です」

「笛?」

──ピィィィィッ。

俺は固まった。

今度は明らかに笛の音だった。

会場中が静まり返る。

ステージの演奏まで止まった。

誰も動かない。

「……今の、何?」

前方の女性が呟いた。

「笛?」

別の人が答える。

また、

──ピィ。

今度は短い。

「誰だよ!」

誰かが叫んだ。

観客が一斉に辺りを見回す。

ステージの照明が客席を照らした。

しかし、犯人は見つからない。

俺は白石を見る。

「お前じゃないだろうな」

「僕は笛を持ってきていません」

「じゃあ、なんでそんなに落ち着いてるんだよ」

「僕も困っています」

そのときだった。

──ピーヒャラ、ピーヒャラ。

笛が鳴った。

しかも、妙に陽気なメロディーだった。

会場から、

「誰か止めろ!」

「笛持ち込んだの誰!」

「ライブだぞ!」

という声が飛び交う。

しかし笛は止まらない。

ピーヒャラ。

ピーヒャラ。

そこへ、また。

──ブッ。

「もう何なんだよ!」

俺は頭を抱えた。

白石は肩を震わせている。

「笑ってんじゃねえ!」

「すみません」

「絶対面白がってるだろ!」

「少しだけ」

「認めた!」

ステージ上のボーカルがマイクを握った。

「えー……皆さん」

会場が静かになる。

「本日は……非常に個性的なライブになっていますね」

どっと笑いが起こった。

俺も笑った。

白石も笑っている。

さっきまでの緊張感が、完全に消えていた。

音楽は再開された。

しかし、もう誰も普通には聴けない。

ドラムが鳴る。

ギターが鳴る。

歓声が上がる。

そして時々、

──ピーヒャラ。

──ブッ。

そのたびに会場が笑う。

予定されていたライブは、どこかへ消えてしまった。

そこにあるのは、

おならと笛と音楽が混ざった、

史上最も予期せぬライブだった。

やがて最後の曲が終わった。

大歓声。

拍手。

そして最後の、

──ピィ。

「最後まで笛かよ!」

俺は思わず叫んだ。

観客がまた笑った。

ライブ終了後、俺たちは人の波に飲み込まれた。

前へ進めない。

後ろから押される。

横から人が来る。

「白石、いるか?」

「います」

「どこだ!」

「ここです」

声は聞こえる。

姿が見えない。

やっと人の流れから抜け出したとき、俺たちは同時に息を吐いた。

外は夜だった。

会場の明かりが遠ざかっていく。

「……すごいライブでしたね」

白石が言った。

「お前、満足したのか?」

「はい」

「音楽、ちゃんと聴けたか?」

「半分くらい」

「だろうな」

俺たちは歩き出した。

駅までの道には、まだライブ帰りの人たちがたくさんいる。

誰かが笑っている。

誰かが今日の出来事を話している。

そして、遠くから。

「ピーヒャラ、ピーヒャラ」

誰かが笛の真似をしていた。

俺は笑った。

白石も笑った。

「なあ、白石」

「はい」

「結局、あの笛、誰だったんだ?」

「わかりません」

「おならは?」

「それもわかりません」

「お前じゃないのか?」

「違います」

少し間を置いて、

「たぶん」

「たぶんって何だよ!」

夜道に、俺の声と白石の笑い声が響いた。

今日のライブで何を聴いたのか。

もうよくわからない。

でも、たぶん俺たちは、しばらく今日のことを忘れない。

音楽も。

笛も。

謎のおならも。

そして、二人で笑いながら帰った、この夜のことも。

それだけは、妙にはっきり覚えている気がした。

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