野浪さんのお仕事4 ⑩
【前話のあらすじ】
ついに野浪は、自ら動き始めた。
監視役へ近づき、刑務所内の人間関係を静かに崩し始める。
一方、平はそれすらも受け入れた。
静かな心理戦は、いよいよ終局へ向かう。
野浪さんのお仕事4
第十話 虎、檻を出る。
【本文】
十五日目。
朝。
点呼。
作業。
食事。
十五日間繰り返された日常が、
今日で終わる。
野浪は最後の味噌汁を飲み干した。
「山田。」
看守が呼ぶ。
「出所準備だ。」
周囲の受刑者たちが顔を上げる。
誰も何も言わない。
だが、
その視線は野浪を追っていた。
荷物は少ない。
読みかけの本もない。
持ち込んだ物など、ほとんどなかった。
制服から、肌に馴染んだスーツへ着替える。
刑務官が書類を確認する。
「山田孝幸。」
野浪は返事をする。
「…はい。」
十五日だけ名乗った名前。
もう使うことはない。
廊下を歩く。
鉄格子。
灰色の壁。
冬の空気。
その途中。
「山田。」
静かな声がした。
野浪は足を止める。
少し離れた場所。
平が立っていた。
今日も本を片手に。
表情は変わらない。
「誤認だったってなぁ。 ご苦労なことだ。」
「ああ。」
少しだけ間が空く。
「宮原は?」
野浪が尋ねる。
「生きている。しばらく医務室預かりになりそうだ。」
平は静かに答えた。
「…そうか。」
野浪は短く返す。
また沈黙。
冬の風だけが廊下を抜けていく。
「一つだけ。」
平が口を開く。
「聞いていいか。」
「何だ。」
「なぜ。」
「こんなところへ来た。」
野浪は少し考えた。
長い答えは必要ない。

「さぁな。 人間生きてりゃ、こんな事もあるってことだろ。」
それだけだった。
平は何も言わない。
静かに目を閉じる。
そして。
「そうか。」
短く返した。
野浪は歩き出す。
もう振り返らない。
平も呼び止めない。
二人は、
最後まで敵にも味方にもならなかった。
正門。
重い鉄扉が開く。
冷たい冬の風。
白い息。
外だった。
そこには白石が立っていた。
「15日間のお勤めご苦労さん。 煙草、どうだ?」
「気が利くねぇ。」
野浪は、煙草を一本受け取り、火をつけながら空を見上げる。
「まだ、外が残ってんだろ?」
白石は苦笑する。
「相変わらずの仕事人間だな。」
「違ぇわ。」
野浪は静かに首を振る。
「これで貸し借りはナシだな?」
「…そうだな。」
二人は並んで歩き出す。
その頃。
県内数か所。
警察車両が一斉に動き始める。
「突入!」
南倉庫。
シャッターが開く。
人身売買組織の拠点。
証拠品。
名簿。
現金。
次々と押収されていく。
宮原の証言。
十五日間で集まった情報。
それらが一本に繋がった瞬間だった。
一方。
刑務所。
平は窓辺に立っていた。
遠ざかる車を見送る。
取り巻きが近付く。
「平先生。」
「アイツ、外のヤツらに追わせますか。」
平は首を横に振る。
「いい。」
「ですが。」
「あれは。」
少しだけ空を見上げる。
「もう檻の中の虎じゃない。 俺らの知らない男だ。」
取り巻きは意味が分からなかった。
平は本を開く。
もう、
野浪理一の話は終わった。
そう言わんばかりに。
高速道路。
助手席。
野浪は窓の外を眺めていた。

久しぶりの景色。
信号。
コンビニ。
歩道を歩く親子。
全部。
十五日前と同じはずなのに。
少しだけ違って見えた。
「腹減ったか。」
白石が聞く。
「少しな。」
「ラーメンでも食うか。」
「いや。」
野浪は小さく笑う。
「帰ってから食う。」
その一言だけで、
白石は何も聞かなかった。
帰る場所。
それが、
野浪理一を最後まで折れさせなかった理由なのだから。
【第十話 おわり】
あとがき
十五日間に及ぶ刑務所潜入は、ここで一区切りとなります。
野浪と平誠。
最後まで二人は互いを理解しながらも、交わることはありませんでした。
「帰る場所がある。」
その一言が、この物語の答えだったのかもしれません。
次回は、いよいよ「帰還」。
事件の終わりではなく、人が日常へ戻るまでを描きます。
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