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「もう一泊していけば?」あの夏、帰りたくなかった家

帰る日の朝だけ、
どうしてあんなに静かだったんだろう。

昨日まで何とも思わなかった部屋。

柱時計。

少し色あせたカレンダー。

座布団。

障子。

廊下の端に置かれた新聞。

全部いつもと同じなのに、

「今日、帰るんだ」

と思った途端、
急によそよそしく見えた。

夏休み。

何日か泊まった、
おじいちゃん、おばあちゃんの家。

帰り支度をしている大人たちの横で、

子どもの自分だけが、

「まだ帰りたくないなぁ……」

と思っていた。

「着いたよ」の一言で始まった夏

車を降りると、
玄関が開く。

「よう来たねぇ」

その声を聞くだけで、

「あぁ、夏休みが始まった」

と思った。

玄関には自分の家にはない匂いがした。

古い木の匂い。

畳の匂い。

台所から漂ってくる、
何かを煮ている匂い。

決しておしゃれな家ではなかった。

むしろ、

「なんでこんな物まで取ってあるの?」

と思うくらい、
いろんな物が置いてあった。

いつからあるのかわからない置物。

何年も同じ場所にある箱。

誰が使っているのかわからない孫の手。

引き出しを開ければ、
輪ゴムや乾電池や古いボールペン。

それなのに、

あの家には妙な安心感があった。

何をしなくても、
そこにいていい。

そんな空気があった。

なぜか早起きしてしまう

普段なら、

「起きなさい!」

と言われても起きないのに、

泊まりに行った朝だけは、
妙に早く目が覚めた。

まだ家の中は薄暗い。

大人たちは起きている。

台所から、

トントントン……

包丁の音。

カチャカチャ……

食器の音。

テレビからは、
小さな音で朝のニュース。

寝ぼけたまま居間へ行くと、

「もう起きたの?」

そう言われる。

そして、

「まだ寝とっていいのに」

と言われながら、
結局そこに座る。

テーブルの上には、
昨日買ってもらったお菓子が残っている。

食べようとすると、

「朝ごはん食べれんくなるよ」

と止められる。

自分の家でも似たようなことを言われているのに、

なぜかここでは、
怒られている感じがしなかった。

大人の話は、意味がわからなかった

昼になると、
親戚が集まることもあった。

大人たちは、
ずっと話をしている。

誰々がどうした。

あそこの家がどうした。

昔の誰々はこうだった。

子どもには、
まったく興味がない。

名前を聞いても、
誰のことかわからない。

だから途中で抜け出す。

別の部屋へ行ったり、

庭をうろうろしたり、

押し入れを開けてみたり。

昔のアルバムを見つけることもあった。

「これ誰?」

と聞くと、

「お父さんだよ」

「えっ!?」

そこには、

自分と同じくらいの年齢の父親が写っていた。

大人にも、
子どもの頃があった。

当たり前のことなのに、
あの頃は不思議だった。

ずっと父親だったわけじゃない。

ずっと母親だったわけじゃない。

おじいちゃんも、
おばあちゃんも、

昔は若かった。

そんなことを、
古い写真が教えてくれた。

冷蔵庫には「いつの?」という物があった

おばあちゃんの家の冷蔵庫は、
ちょっとした探検場所だった。

飲み物を取ろうとして開けると、

タッパー。

タッパー。

さらにタッパー。

「これ何?」

「昨日の煮物」

「これは?」

「漬物」

「じゃあ、これは?」

「……なんだったかな」

おばあちゃん本人がわからない。

子ども心に、

「大丈夫か、この冷蔵庫……」

と思ったものです。

でも不思議なことに、

「これ食べる?」

と出してくれる果物は、
いつもおいしかった。

桃。

ぶどう。

スイカ。

梨。

「もういらない」

と言っているのに、

「もう一個食べな」

なぜか増える。

断ったはずなのに、
皿の上から食べ物がなくならない。

あれはきっと、

祖父母の家だけに存在する、
謎の永久機関だったんでしょう。

夜になると、家が少しだけ怖くなった

昼間は平気だった廊下が、
夜になると急に怖くなる。

トイレまで遠い。

しかも暗い。

「一人で行ける!」

なんて言ったくせに、

廊下の途中から、
ちょっと早足になる。

用を済ませたら、

帰りはもっと速い。

何かが後ろから来る気がする。

振り返りたい。

でも、

振り返ったら何かいそうだから、
絶対に振り返らない。

布団まで戻ってしまえば無敵だった。

大人たちはまだ起きていて、
隣の部屋から笑い声が聞こえる。

何を話しているのかはわからない。

でも、

その声が聞こえているだけで安心した。

そして気づけば眠っていた。

帰る日は、突然やってきた

あれだけ長く感じていたのに、

「明日帰るよ」

と言われると、

「もう?」

と思った。

もっといたかった。

特別な場所へ連れて行ってもらったわけでもない。

豪華な旅行でもない。

毎日、

食べて、

遊んで、

ゴロゴロして、

怒られて、

笑って、

眠っただけ。

なのに、

帰りたくなかった。

帰る日の朝。

布団が片付けられる。

荷物がまとめられる。

忘れ物がないか確認される。

玄関に靴が並ぶ。

そして決まって、

「これ持っていきな」

と袋を渡される。

野菜。

果物。

お菓子。

なぜか大量の食べ物。

親が、

「こんなにいらないよ」

と言っても、

「いいから持ってきな」

と押し込まれる。

今思えば、

あれは食べ物を渡していたんじゃないのかもしれない。

「また元気でね」

「ちゃんと食べるんだよ」

「またおいで」

言葉にする代わりに、

袋いっぱいに詰めてくれていたんだと思う。

「もう一泊していけば?」

帰ろうとすると、

そんなことを言われた。

子どもの自分は、
本気で期待する。

「えっ、泊まっていいの!?」

でも親は、

「明日から予定あるから」

なんて答える。

心の中では、

予定なんてなくなればいいのに……

と思っていた。

車に乗る。

窓を開ける。

「バイバーイ!」

家が少しずつ遠くなる。

おじいちゃんとおばあちゃんは、
まだ立っている。

曲がり角を曲がる直前まで、
手を振っている。

自分も手を振る。

姿が見えなくなる。

そこでようやく前を向く。

しばらくすると、

さっきまでいた家が、
もうずっと遠い場所のように感じた。

大人になって、わかったこと

子どもの頃は、

夏休みだから楽しいんだと思っていた。

でも違ったのかもしれない。

あの場所には、

自分が何者であっても関係なく、

「来てくれて嬉しい」

と思ってくれる人がいた。

勉強ができるとか。

仕事ができるとか。

お金を持っているとか。

立派だとか。

そんなものは、
ひとつも必要なかった。

玄関を開ければ、

「よう来たね」

帰ろうとすれば、

「もう一泊していけば?」

それだけ。

大人になればなるほど、

条件なしに自分の存在を喜んでくれる場所は、
実はとても貴重だったのだと気づく。

今では、味わえなくなった夏

あの家が、
今も残っている人もいるでしょう。

もうなくなってしまった人もいるでしょう。

おじいちゃんやおばあちゃんが、
今も元気な人もいれば、

思い出の中でしか会えない人もいる。

町並みも変わった。

道路も変わった。

家も建て替えられた。

自分自身も、
すっかり大人になった。

昔とまったく同じ夏は、
もう二度とやってこない。

でも不思議です。

ふとした瞬間に、
あの家のことを思い出す。

古い畳の匂い。

台所から聞こえる包丁の音。

少し大きすぎるテレビの音。

夜の暗い廊下。

食べきれないほど出された果物。

帰り際に持たされた、
重たい袋。

そして、

「またおいで」

という声。

記憶というものは、

大きな出来事より、
こんな何でもないものを残している。

あなたにも「帰れる夏」がありませんでしたか?

毎日いろんなことを考えて、

仕事をして、

家のことをして、

誰かのために動いて、

知らないうちに心が疲れてしまう。

そんなときくらい、

昔の夏へ帰ってみてもいいと思うんです。

もちろん、
本当に戻ることはできません。

でも目を閉じれば、

記憶の中の玄関は、
今でも開く。

「よう来たね」

そう言ってくれる声がする。

昔の自分が、
靴を脱いで走っていく。

大丈夫。

少しくらい休んでいきなよ。

急いで大人に戻らなくてもいい。

心の中なら、

もう一泊したっていいんです。

あの日は言えなかったけれど、

今なら言える気がします。

もう一泊どころか、

できることなら、

あの夏にもう一度だけ泊まりたい。

何か特別なことがしたいわけじゃない。

ただ朝になったら、

台所から聞こえる音で目を覚まして、

「もう起きたの?」

そう言ってもらいたい。

それだけでいい。

それだけで、

きっと心は少し軽くなる。

🌻最後に

あなたには、

「もう一度だけ帰ってみたい夏」

がありますか?

祖父母の家かもしれない。

昔住んでいた町かもしれない。

親戚が集まった夏かもしれない。

もう会えない誰かと過ごした夏かもしれません。

よかったら、
あなたの記憶に残っている「夏の場所」をコメントで教えてください。

忘れていた景色を言葉にしてみると、

昔の自分から、

「そんなに頑張らなくても大丈夫だよ」

と声をかけてもらえることがあります。

今年の夏。

忙しい毎日の途中で、
ほんの少しだけ昔へ帰ってみませんか。

心の中のあの家では、

きっと今でも、

あなたのための座布団がひとつ、

ちゃんと空けてありますから。

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