不機嫌な人に気を遣える私は、本当に「優しい人」なのだろうか
私は昔から、
人の表情や声のトーン、
場の空気の変化によく気づく方だった。
飲み会で、一人だけ会話に入れていない人がいる。
職場で、いつもより口数の少ない人がいる。
誰かが、明らかに不機嫌そうにしている。
そんな時、私はつい話しかけたり、
場を和ませようとしたりする。
周囲からは、
「よく気が利くね」
「あなたがいると安心する」
「優しいね」
と言ってもらうこともあった。
けれど、自分では時々、
居心地の悪さを感じていた。
本当に私は、優しいのだろうか。
相手のためというより、
自分が不機嫌な空気に耐えられないだけではないか。
優しい人と思われて、
必要とされたいだけではないか。
だとしたら私は、
優しい仮面をつけた偽善者なのではないか。
そんな疑いが、
心のどこかにずっとあった。
「優しい人」として必要とされる
気遣いをすると、感謝される。
気が利く人として評価される。
頼りにされ、必要とされる。
そして、必要とされると安心する。
その経験を繰り返すうちに、
気遣いは私にとって、
人とつながり、
自分の居場所をつくるための
かなり有効な方法になっていった。
私は、自分のことを心の底から
「優しい人」だと信じていたわけではない。
むしろ、
本当に私は優しいのか?
と、どこかで疑っていた。
それでも、
気遣いができることで、
周囲から「優しい人」と思われる。
感謝され、必要とされる。
私は、そのポジションを
手放せなくなっていたのだと思う。
私の気遣いに混ざっていた2つの成分
自分の気遣いをよく見てみると、
そこには大きく二つの成分が混ざっていた。
一つは、相手を大切に思う
「思いやり」。
もう一つは、自分を危険から守ろうとする
「危機回避」である。
① 相手を大切に思う「思いやり」
例えば、信頼している友人が
飲み会で一人で座っていたとする。
「よかったら一緒に話そう」
と声をかける。
けれど相手から、
「今日は一人でゆっくりしたいんだ」
と言われたら、
「そっか」
と、その気持ちを尊重できる。
その後も私は、
普通に自分の時間を楽しめる。
ここには、
「私がなんとかしなければ」
という焦りがない。
声をかけることもできるし、
相手の意思を尊重して離れることもできる。
これは、相手を大切にしたいという
思いやりから生まれる気遣いである。
② 自分を守ろうとする「危機回避」
一方、不機嫌な人を前にすると、
頭で考えるより先に、
胸がざわつく。
肩に力が入る。
その場から離れたくなる。
身体が、その人の不機嫌を
「危険かもしれないもの」
として察知しているのである。
さらに、頭の中では物語が始まる。
例えば、職場の人が
いつもより無口だったとする。
この時に起きている事実は、
いつもより口数が少ない
表情が硬く見える
返事が短い
ということだけである。
ところが私の頭の中では、
・私が何か気に障ることをしたのかもしれない
・私に怒っているのかもしれない
・このままでは場の空気が悪くなるかもしれない
・私がなんとかして、機嫌を直さなければならない
という解釈が生まれていく。
そして私は、相手に話しかけたり、
いつも以上に明るく振る舞ったり、
場を和ませようとしたりする。
つまり、
◆事実
相手が無口で、表情が硬く見える
◆解釈
私が原因であり、私が機嫌を直さなければならない
ということである。
相手が不機嫌そうに見えること。
その原因が自分にあること。
その感情を自分が引き受けること。
この三つは本来、
別の話なのだ。
優しさ100%でなければ、偽善なのか
ただ、私の気遣いがすべて
2つ目に挙げた「危機回避」だったわけでもない。
困っている人がいれば、
力になりたいと思う。
一人でいる人が少しでも
心地よく過ごせたらいいと思う。
相手が安心した表情になると、
私もうれしい。
それは嘘ではない。
ある時は、
思いやりが80〜90%で
危機回避が10-20%かもしれない。
ある時は、
思いやりと危機回避が半分ずつかもしれない。
不機嫌な人を前にして
身体が強く緊張している時には、
危機回避の方が大きいこともある。
その配合は、
場面によって変わる。
けれど私は、どこかで、
本当の優しさなら、
相手を思う気持ちが100%であるはずだ
と思っていたのかもしれない。
だから、自分を安心させたい気持ちや、
必要とされたい気持ちが混ざっていると、
「やっぱり私は、
優しいふりをしているだけなのではないか」
と、居心地が悪くなった。
でも今は、
優しさを0か100かで考えなくてもいいと思っている。
自分を守りたい気持ちが混ざっていても、
相手を思う気持ちまで嘘になるわけではない。
必要とされたい気持ちがあっても、
誰かのために差し出した手の温かさまで
消えるわけではない。
私の優しさには、
危機回避が混ざっていた。
ただ、それだけだったのである。
父の機嫌を読んでいた子どもの頃
私が、不機嫌な人に強く反応する背景には、
父との関係があると思っている。
父は仕事で疲れていることが多く、
家では機嫌の波が激しい人だった。
子どもの頃の私は、
今日は話しかけても大丈夫そうか。
今日は静かにしていた方がよさそうか。
父の表情や声のトーン、
家の空気をよく観察していた。
相手の機嫌をいち早く察知し、
それに合わせて動くことは、
当時の私が自分を守るために身につけた
大切な知恵だったのだと思う。
そして、その力は大人になってからも、
「よく気が利くね」
「あなたがいると安心する」
「優しいね」
と感謝され、評価された。
(ように感じた)
だから私は、ますます
「気遣うこと」を手放せなくなっていった。
気遣いという名の「除湿」
私は長い間、
人間関係の「除湿」をしていた。
誰かが不機嫌になる。
場の空気が重くなる。
すると、その湿気を吸い取るように、
場を軽くしようとする。
話しかける。
少し明るく振る舞う。
誰かが会話に入れていなければ、
話を振る。
除湿する力そのものは、
私の長所でもあると思う。
実際、それによって
誰かの気持ちが少しでもラクになれたことも
あったかもしれない。
ただ私は、
除湿器をほぼ自動運転にしていた。
誰かが少し湿気を出すと、
頼まれてもいないのに
勝手にスイッチが入る(笑)。
でも今思えば、
相手を助けたかっただけではなく、
自分がその重たい空気(湿気)に
耐えられなかった
ことも少なくなかった。
誰かの機嫌や、場の空気を
整えることばかりに夢中になっていると、
私は何を感じているのか。
私は本当は何をしたいのか。
そんな自分の感覚は、
いつも後回しになっていく。
除湿するかどうかは、私が選べる
私は、気遣いのできない人に
なりたいわけではない。
思いやりから自然に手を差し伸べられる自分は、
これからも大切にしたい。
けれど、誰かが不機嫌になるたびに、
私が場の空気を除湿しなくてもいい。
その人に声をかけることもできる。
相手を信じて、
そっとしておくこともできる。
自分の時間を楽しむこともできる。
気遣うこともできる。
気遣わないことも選べる。
優しさとは、
いつも誰かの湿気を吸い取ることではない。
相手の感情と同じように、
自分の気持ちや望みも大切にできること。
その自由さを、
私はこれから大切にしていきたいと思う。
*******
ここまで
読んでいただきありがとうございます^^
👉 公式LINEはこちら
HSPさんや頑張り屋さんの、
キャリアやメンタルについてのお話、
noteの更新情報、
セッションや講座のお知らせなどを、
不定期でお届けします。
よかったら、お友だち登録してくださいね。
以下は私のサービスのご案内です⇩
👉 HSP×頑張り屋さんのための「働き方の読み解きセッション」
(90分・オンライン・単発セッション)
「今の働き方、このままでいいのかな」と感じている方へ。
今の働き方の違和感をほどき、自分らしい働き方を実現するための次の一歩を共に見つけていく時間です。
👉 公式HP(その他のコーチング・キャリア支援・ヒプノセラピー等はこちら)
👉Stand.fm(ラジオ)
