【短編小説】 蜜柑と泣きぼくろ
快速列車はゆっくりと、
トンネルへ差しかかろうとしている。
太陽の光が閉ざされ、
暗闇の中に、LED電球の灯りだけが
浮かび上がってくる。
わたしはその眩しさに目を閉じた。
直線的なその光は、暗闇の中では暴力となる。
シャツのボタンを締め直し、
やがて心地よい揺れにうつらうつらする。
◆
……いつの間にか、
眠ってしまっていたみたい。
目を覚ますと、まだトンネルの中だった。
長いこと眠っていたと感じたけれど、
一瞬だったのかもしれない。
「隣、いいでしょうか?」
声をかけられて、身体がビクッとする。
驚いたことに戸惑って、
反射的にちょっとムッとしてしまう。
寝起きに、急に声をかけるの、
背中から「わっ!」てするのと、同じじゃない?
見ると、一人の男性だった。
和風の合わせにトレンチコート。
変わってるけれど、妙に似合っている。
わたしより若いような気もするけれど
落ち着きはらった雰囲気のせいか、
歳上にも見える。目尻に泣きぼくろ。
新手のナンパかしら?
いやだわ、間に合ってます。
「……他に席、空いてますよ?」
そう返した。
車内は二人席が向かい合って、
四人席のように配置されている。
車両に、他の乗客は居ないし、
わざわざわたしと相席しなくてもいいでしょ?
列車はごうごうと、トンネルを進んでいく。
◆
男は答えず、斜め向かいの席に座った。
片方の膝だけが、触れ合いそうになる。
わたしはぷいと横を向いた。
彼は涼しい顔で、
スマホを取り出し、目を滑らせている。
なんとなく、気になってしまう。
わたしは目線を移し、
ロンシャンの鞄から、蜜柑を取り出し剥いた。
香りが車内に弾ける。
ひと房自分の口に放り込むと、
爽やかな甘さが、口いっぱいに広がる。
男は驚いたようにわたしの顔を見つめ、
それからぷっと吹き出した。
「蜜柑、お好きなんですね」
「だめですか?」
馬鹿にしてるのかしら。
まだ笑っている。肩が揺れてるもん。
「いいえ、ちっとも」
わたしは無意識に、
「召し上がります?」と口に出していた。
「いや、大丈夫です」
わたしの表情を読み取ったのか、
彼は慌てて
「すみません。今は、いただけないんです」
お気遣いありがとうございます。
と言って、またスマホに目を移した。
断られたけれど、嫌な気持ちはしなかった。
蜜柑の皮をゴミ袋に包んで、鞄にしまう。
立ち上がろうとすると、
「立ち上がっては、ダメです」と言う。
「どうしてですか?」
わたしは首を傾げた。
お手洗いに行きたいだけよ。
彼は、泣きぼくろを穏やかに下げた。
「会いたいのでしょう?」
◆
意味を、聞き返す時間はなかった。
ふっと、車内の灯りが消えてしまったからだ。
ぼんやりと、薄い影が見える。
さっきの男かしら?
それにしては、やけに影が小さい。
蜜柑の香りがする。
あの子の、好きだった蜜柑。
小さな手のひらが、
わたしの手を包んだように感じた。
柔らかい手のひら……!
小さな影は、
大きな影に手を引かれていく。
子ども用のシャツと、トレンチコートの袖。
手を繋いで遠ざかっていく。
「……!」
名前を呼ぼうとしたその時、
急に視界が真っ白になった。
◆
快速列車はトンネルを抜けていた。
窓の外が眩しい。
影も、男も消えてしまった。
ふと気づくと、膝の上に蜜柑がひとつ、
乗っていた。
「あの子を、お願いします」
わたしは皮を剥いた。
蜜柑の汁が目に沁みたけれど、
トンネルの先は、晴れていた。
了

