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「優しいね」が少し、しんどい。

「凛ちゃんは、優しいね」

そう言ってもらうことがある。

たぶん、褒めてくれている。
悪気なんて、もちろんない。

だから私も、「ありがとう」と笑う。

うれしくないわけではない。
それなのに、その言葉を受け取ると、心のどこかが少しだけ重くなる。

私は、本当に優しいのだろうか。

自分では、あまりそう思っていない。

誰かのために何かをするときだって、よくよく考えてみれば、自分のためだったりする。

困っている人を見ると、声をかける。

それは、その人を助けたいからでもあるけれど、何もしなかった自分をあとで嫌いになりたくないからかもしれない。

誰かの話を聞く。

少しでも楽になってほしいと思う一方で、頼ってもらえることをうれしいと思う私もいる。

何かを贈って、相手が喜んでくれたら、私もうれしい。

結局、私がしていることの多くは、ちゃんと自分にも返ってきている。

安心だったり。
満足感だったり。
「やってよかった」と思える気持ちだったり。

だから、「優しいね」と言われると、少し困る。

そんなにきれいなものじゃないよ、と言いたくなる。

私は、自分の心の裏側まで知っているから。

面倒だと思うこともある。
腹が立つこともある。
見返りを期待することだってある。

いつだって無条件に誰かを思いやれるような、立派な人間ではない。

それに、「優しい人」と言われると、そんな人であり続けなければならないような気もしてしまう。

断ったら、がっかりされるだろうか。

怒ったら、「意外」と思われるだろうか。

誰かを助けられなかったら、優しくない私になってしまうのだろうか。

「優しい」という褒め言葉が、ときどき、守らなければならない役割のようになる。

たぶん、それがしんどい。

でも、だからといって、人に何かをすることをやめたいわけではない。

むしろ私は、

「やらない善より、やる偽善」

でいいと思っている。

たとえ、自分のためという気持ちが混じっていてもいい。

誰かに「いい人だと思われたい」が、ほんの少し入っていたっていい。

自分が気持ちよくなりたいからしたことでも、その行動によって誰かが少し助かったのなら。

私は、何もしないより、そのほうを選びたい。

そもそも、「誰かのため」と「自分のため」は、そんなにきれいに分けられるものなのだろうか。

誰かが笑ったら、私もうれしい。

私がうれしかったから、また誰かに何かをしたくなる。

その循環のどこまでが善意で、どこからが自己満足なのかなんて、たぶん本人にもわからない。

だったら、純粋な善意であることに、そこまでこだわらなくてもいい。

偽善でも、自己満足でも、下心が少しくらいあっても。

手を伸ばせるときには、伸ばす。

それが、今の私の選び方なのだと思う。

それでも私はきっと、これからも、

「凛ちゃんは、優しいね」

と言われると、少し困ってしまう。

「そんなに優しくないんだけどな」

と、心の中では思うだろう。

でも、昔より少しだけ、その言葉を否定せずに受け取ってみてもいいのかもしれない。

私の内側にどんな理由があったとしても、受け取った相手が「優しい」と感じてくれたのなら。

それは、私が決めることではないのだから。

私は、自分が優しい人なのかどうかは、いまだによくわからない。

ただ、優しい人であることより、優しい行動を選べる人ではいたい。

やらない善より、やる偽善。

そのくらい不純で、そのくらい人間らしい優しさなら、私にも続けていける気がしている。

喜木 拝

#66週ライラン
「私をしんどくさせる言葉」


ヤスさんの「66週ライラン」お題で綴りました。

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