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ここまで読めた。ありがとう。|名前のない栞の話【掌編小説】

返却された本から、ひらりと一枚の小さな紙が落ちた。

「ここまで読めた。ありがとう。」

誰に宛てた言葉なのだろう。

返却された本は、次に借りる人のために、一冊ずつ中を確認する。

水に濡れていないか。
ページが破れていないか。
書き込みはないか。

パラパラとページをめくっていると、ときどき忘れ物が挟まっている。

レシート。
病院の予約票。
スーパーのチラシ。
子どもが描いたらしい絵。

きっと、手近なものを栞の代わりにしたのだろう。

けれど、今日落ちてきたその切れ端には、ただ一言だけが書かれていた。

まるで、私に見つけられるのを待っていた暗号のように。

「ここまで」とは、どこまでだろう。

この紙が挟まっていたページまで?
それとも、この本を最後まで?

そもそも、誰に「ありがとう」と言っているのだろう。

本に?
作者に?
それとも、誰か別の人に?

仕事中だというのに、つい想像が膨らんでしまう。

長いあいだ、本を読めなかった人かもしれない。

忙しくて、本を開く時間がどうしても取れなかった人かもしれない。

あるいは、文字を読むことを覚えたばかりの人、という可能性だってある。

一冊の本を読む。

私にとってはあまりに日常的なことだけれど、それが誰にとっても簡単なことだとは限らない。

一ページ。
一行。
たった、一文字。

「ここまで読めた」と嬉しくなるほど、本が遠くにある日だってあるのだ。

もう一度、小さな紙を見る。

いったい誰が、どんな想いで書いたのだろう。

――調べようと思えば、手がかりはある。

そう思ったところで、私は手を止めた。

仕事をするために知ることと、知りたいから知ることは違う。

知ることができるからといって、知っていいわけではない。

私は司書だ。
探偵ではないのだから。

紙をそっと、本から離した。

名前はない。
連絡先もない。
誰かに渡してほしいとも書かれていない。

ただ、

「ここまで読めた。ありがとう。」

という一言だけ。

本は、いつもの棚へ戻した。

数日後。

その本が棚からなくなっていることに気がついた。

また誰かが借りてくれたらしい。

あの紙を書いた人だろうか。
それとも、まったく別の誰かだろうか。

わからない。

わからないけれど、それでいい。

今ごろ、どこかで誰かがページをめくっている。

一ページかもしれない。
十ページかもしれない。
今日はまだ、本を開いていないかもしれない。

それでも、また読みたいと思ったときには、ここに本がある。

あの「ありがとう」が、誰に向けられたものだったのか。

今も、わからない。

ただ、あの日の小さな紙切れは、名前のない栞のように、私の中のどこかにひっそりと挟まったままだ。

ときどき、ふいにそのページが開く。

そんなとき、私は少しだけ笑ってしまう。

そして、誰に届くともなく、心の中でそっと返事をする。

こちらこそ。

読んでくれて、ありがとう。



あとがき

ミニカキングダムのテーマ「謎」で綴りました。

図書館には、そして世の中には、
解かないままでいい謎もある。

そんなことを想いながら書きました。

お読みいただき、ありがとうございます💖

喜木 拝

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