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マタイ福音書 26・36〜46 「踏み出せなかったその一歩、いま進み出るとき」 #ゲッセマネの祈り #受難週

  1. まず、タイトルの聖書箇所を祈りながら読みましょう。

  2. それから、下のコラムを読みましょう。

  3. 最後に、ここから発見したことや教えられたことを感謝して祈りましょう。


長い間、踏み出せずにいた一歩に、あきらめかけていませんか。決断を長引かせてしまう自分に嫌気がさしてしまうことをあるでしょう。そのことを主イエスはどう見ているでしょうか。

それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。」
マタイ福音書 26:45

新改訳2017


しぼり尽くされた祈り

ゲッセマネの園で、イエスは天の父に三度祈りました。聖書での「三度」は、徹底的に、という意味です。ゲッセマネには「オリーブの絞り場」という意味があります。収穫したオリーブの実を、大きくて重い石うすで砕くと、神殿の燭台用の油が一番しぼり、家庭の食用の油が二番しぼり、家庭の灯火用の油が三番しぼり、そして最後の搾りかすは石鹸になります。イエスのゲッセマネ祈りは、最初から最後まで搾り尽くされ、無駄なく全てが用いられたことの象徴です

少し離れたところで一人祈っていたイエスが内弟子たちのところへ戻るたびに、彼らは眠っていました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、これからイエスと自分たちに襲う苦難に対して、あまりの悲しみで眠くてしかたがなかったのです。主はペテロを起こして言いました。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか」(40)。

悶え苦しんで祈っていたイエスが一度目に弟子たちのところへ戻ってきて言いました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」(41)。さらに、二度目と三度目にイエスが戻って来ても、弟子たちはまだ眠っていました。

まだ眠って休んでいるのですか

今、あなたはどうですか。「主イエスのために」と心は燃えていたのに、いざ現実社会へ出ていくと、なかなか実行できない自分に悲しんではいないでしょうか。主から示された御言葉に「従わなくては」と思っているのに、足が重くてなかなか前進できない、とか。もっと御言葉に聞かなくてはと思っているのに、なかなか聖書を開けない、とか。もっと祈らなくては、わかっているのに全く祈れない、とか、それらの葛藤は誰にでもあるでしょう。

では、イエスはそのことを、どう見ているでしょうか。イエスは、まぶたが重くて目が開けられないでいる弟子たちに言いました。「まだ眠って休んでいるのですか」。

しかし、これは決してイエスが彼らの弱さを責めているのではありません。英語の訳では「Sleep on now, and take rest.(今は寝て休んでいなさい)」(KJV)。マルコ福音書の並行記事では、「あなた方は眠っている、休んでいる、それで十分です」(マコ14・41)と優しく憐れんでイエスは言いました。

もちろん、ゲッセマネの園で最も励ましを必要としていたのはイエスご自身でした。弟子たちは一緒に祈るべきでしたが、深い悲しみのあまり祈ることすらできなかったのです。しかしイエスは、彼らの疲れと悲しみを理解し、決して責めたり叱ったりせず、「あなたは必要な休息を十分取りました。それでいいのです」と励ましたのです。同じ主イエスが、いま、あなたを励ましています。

眠らなかったイエス

イエスだけが祈り続けました。ご自身のことだけでなく、もちろん残される弟子たちのことを心配して、とりなして祈られたのです。このイエスの姿にこそ、神のご性質が現されています。神は「まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121・4)お方だということです。

あなたが疲れ果て倒れて起き上がれない時も、悲しみのあまりに眠っている間も、決断できずに一歩も動けないでいる状態にあっても、24時間365日ノンストップであなたのためにとりなしておられるのが、いま大祭司として御座におられる主イエスなのです。

イエスが、十字架の苦難を前に悶え苦しんで祈っている時、「汗が血のしずくのように地に落ち」ました(ルカ22:44)。ゲッセマネの祈りは、オリーブの実のように最後まで砕かれ、絞り尽くされた祈りだったことを表しています。

そしてついに、イエスは弟子たちに告げました。「時が来ました。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています」(45〜46)。イエス自身が、十字架という苦難に向かって立ち上がった瞬間です。

イエスを立ち上がらせたもの

イエスは、この直後に、ユダに裏切られ、弟子たちには逃げられ、ペテロに三度否定されました。大祭司カヤパ官邸での不正な裁判、アンナスやヘロデ王の取り調べ、ローマ総督ピラトの裁判、屈強な兵士による鞭打ち、イエスを罵る民衆に囲まれながら、イエスはたった一人孤独に自ら磔にされる十字架を担いでカルバリの丘へと歩まれたのです。

ゲッセマネで苦悶したイエスを立ち上がらせたものは何だったのでしょうか。ドロローサの道で、何度も力尽きて倒れたイエスが、十字架にしがみついて離さず、最後まで歩き続けさせたものは何だったのでしょうか。

それは、天の父との親密な関係の中でイエスが知った、父なる神の「あなたに対する愛」です。父と御子との親密な関係は、祈りによって「絞り尽くした関係」でした。同じ関係を、主はあなたにも求めています。

イエスは宣言しました。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです」(ヨハネ10・18)。

決断のとき

イエスは殺されたのではなく、あなたのために自ら進んで命を捧げられました。あなたを我が子のように愛するがゆえに、御父が決断をして大切な独り子イエスを世に送ってくれました。

その御父の決断は、大きな痛みと悲しみを伴いました。その父の心を知ったイエス自身も決断をして立ち上がったのです。それは、あなた自身も決断して主に従うことができるようになるためです。

痛みや悲しみ、疲れ果て、弱り果てている時も、今日もイエスは祈っておられます。あなたが、父と絞り尽くすほどの親密な関係をとり戻すために。あなたが、自分の十字架を背負って、イエスの後ろを従うことができるために。

「イエス様、私のために、あなたのとりなしの祈りが搾り尽くされたことを感謝いたします。立ち上がったあなたに続いて、私も立ち上がる力の油注ぎをください」。



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角本 RIngGo 尚彦(かくもとなおひこ)【ほぼ毎日更新-PROPHETIC聖書コラム】 御言葉は、止まりません。 御言葉の恵みを受けた私たちは、それを次の世代へ流すよう招かれています。このコラムもその小さな働きの一つです。もし共に支えたいと感じてくださる方がおられましたら、チップで参加していただけたら感謝です。