見出し画像

●[再読]岸田秀『ものぐさ精神分析』(青土社)

※ この記事は、2025年7月に書いたものです。今回noteへの転載にあたり、一部加筆修正しています。


一番の愛読書

繰り返し読んで、読むたびに面白いと思う本が「愛読書」だとすれば、私の一番の愛読書はこの『ものぐさ精神分析』であると言って良い。

1973年~1976年に『ユリイカ』や『現代思想』などに連載・掲載された評論や随筆をまとめた本書が刊行されたのは1977年。1979年に『二番煎じ ものぐさ精神分析』、1980年には『出がらし ものぐさ精神分析』が出版されているが、予備校生~大学生だった私はそれらを熟読味読し、友達にも薦め(貸した本は返って来なかった(-_-;))、後年、娘に買い与え、ロンドンに赴任した際(2014年~)にはどうしても読みたくなってKindleで購入した。

友人に貸した単行本は返って来なかったので、1982年に文庫版が刊行された際に買い直す
文庫版には伊丹十三による解説が収録された
ロンドンで購入したKindle版の表紙

壊れてしまった本能の代替としての共同幻想(文化)

岸田氏によれば、進化の過程で人間の本能は壊れてしまった(機能しなくなった)ので、生存するために幻想を必要とし、これを部分的に共同化した共同幻想(→文化)を作り出したのだという。(人間以外の)動物は言わば機械式の計算機で、生まれてすぐに本能に従って生存することができるが、本能で決められたこと以外はできない。一方、人間はコンピュータのようなもの。コンピュータはソフトウェアをインストールしないとただの箱にすぎないが、ソフトウェアをアップデートしたり、新たなソフトウェアをインストールしたりすることで、いろいろな処理ができるようになる。人間は様々なソフトウェア=共同幻想(例えば貨幣もそのひとつ)を作り出し、それが結果として繁栄をもたらしたわけだ。

文化や価値観は幻想であってどのような形も取りうる、現在と過去の社会や国家の形は多くの選択肢のひとつに過ぎない、「男性本来の役割」「女性本来の役割」などは存在せず、(当時はまだLGBTQという言葉はなかったが)異性愛も同性愛もフェティシズムも生殖本能とは無関係な幻想である点において差異はない、という考え方は、権威や権力を嫌い社会や文化を変えようとする者にとっては、極めてラジカルで魅力的なものだった。

発狂と寛解の日本近代史

本書の冒頭に収められた『日本近代を精神分析する』と『吉田松陰と日本近代』では、1853年のペリー来航以降の日本を(強大な諸外国に屈従した=現実的に対応した)外的自己と(皇国史観など日本と日本人の独自性を強調する)内的自己に分裂した精神分裂病質者と捉え、1941年の対米開戦を「辛うじて保っていた人格のバランスを崩し、抑えられていた内的自己が暴発」した精神分裂病の発病(発狂)であるとした。(敗戦によって発作から覚め、現在は寛解期であるという)

どうやら、内的自己と外的自己の分裂は日本だけではなかった。ネオナチが台頭するドイツ、オーストリア、イタリア、さらにブレグジット(Brexit)をやらかしてしまったイギリス(←内的自己の望みは大英帝国の復活...)も同様であるようだ。Make America Great Again! も抑圧され現実感覚を失って妄想的になった内的自己の叫び声だろう。

おりしもテレビは「日本人ファースト」を掲げる政党の大躍進を伝えている。岸田氏は『吉田松陰と日本近代』をこう結んでいる。「抑えられた内的自己がしばしば小爆発を起こしていることは、みなさんのご存知の通りである。そのうちいつか、ふたたび大爆発が起こらないとは保証の限りではない。」 

この本は、私にとって間違いなくかけがえのない一冊であり、また、今こそ読まれるべきものである。


追記(2026年)

  • 岸田秀氏は今年5月、92歳の天寿を全うされました。アメリカ、イタリア、日本などだけでなく、フランスやイギリスでも、抑圧され現実感覚を失って妄想的になった内的自己が大爆発しそうな昨今、氏は「そら見たことか」と思いながら旅立たれたのかもしれません。

  • 岸田氏によれば、スターリン、ヒトラー、そして日本の暴走は、共産主義体制やドイツ民族・日本民族の聖化、理想化、絶対化に頼らなければ集団として存続できなかったことに拠るものだといいます。同様のことがあらゆる時と場所で繰り返されてきたのが、人類の歴史なのかもしれません。我々にはそこから抜け出す解決策があるのでしょうか。

  • それは、
    「個人は、その日常性を自分の外の、自分より上の聖なる権威(引用者注:民族や天皇だけでなく、例えば、自由、平等、民主主義なども含む)に根拠を求めることなく構築できるか。自分の存在が聖なる権威に正当化されていないということ、その意味で道徳的、合法的ではないということに耐えられるか」
    にかかっており、
    「人類はあらゆる形の聖化と縁を切ることができるであろうか。もしできないとすれば、人類には、これまでの過去よりましな未来が待っているとは言えないであろう。」
    というのが、岸田氏の考えでした(『日常性とスキャンダル』)。

  • 極めて困難なことのようにも思えますが、いつか人類がそのような強さを持てるようになることを諦めたくはありません。
    私達がなすべきことは、あらゆる「聖なる権威」を相対化し続けること、そして、自分自身が聖なる権威なしには自分の存在に耐えられない生き物であることを自覚し忘れないこと、ではないでしょうか?

いいなと思ったら応援しよう!

たつや300 長文にお付き合い頂きありがとうございました。 また見てください!