見出し画像

推薦図書 ショーペンハウエルの「読書について」

起業して少し経った30代の半ば頃だったと思う。たまたま神保町の古書店で手にした岩波文庫版のショーペンハウエルの「読書について」。たぶんジャケ買いだが、何かこのドイツの哲学者に話しかけられているような気がした。しかし当時住んでいた松陰神社のアパートに持ち帰り読み始めた途端、落雷にあったような衝撃に襲われた。頭を鉄塊でぶん殴られたような衝撃だった。

ショーペンハウエルの本はそれまで読んだことが無かったが、いわゆるナンバースクール(旧制名門高等学校)時代の青年たちに「デカンショ」として親しまれていたことは知っていた。近世の三大哲学者といわれたデカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字だが、高校時代に哲学の面白さを教えてくれた恩師松浦先生もショ-ペンハウエルの話はしてくれなかったと思う。この「読書について」は僕の生徒達にも一読を推奨してきた。

この本は読書することで自己満足し、自酔する人々への警鐘の書だ。僕も子供時代から読書は善と言われ、小学校でも中学でもそれを推奨され続けてきたし、本読むことは善だと妄信してきた。何かしら知的な行動と思われ、ある種の虚栄心も背後にあったかもしれない。実際、読書家のクラスメートは皆から一目置かれていた気がする。しかし、、、30半ばにしてその観念は完膚なきまでに破壊された。

ショーペンハウエル(1788年~1860年)


本書の要旨を一言にまとめると、「読書は他人(著者)の考えをなぞるようなもので、それ自体には何の意味も無い」ということ。それをベースとして「自ら思索して血肉化させて初めて意味を成す」ということを断言している。読むことと、それを自らの真の養分にすることは全く別のことだと言うのだ。そして多読の無意味さも指摘する。僕は昔から言い切りをしてくれる思想家や哲学者が好きだ。仮に間違うことがあったとしても、だ。高校時代はニーチェにハマった。ニーチェがショーペンハウエルの影響を受けたことは有名な話なので、合点がいく。本書から2文をご紹介してみたい。

「数量がいかに豊富でも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識の場合も事情は全く同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、幾度も考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。―――知るためには学ぶべきである。だが知るといっても真の意味で知られるのは、ただ既に考え抜かれたことだけである。」1960年 斎藤忍随 訳
「読書は、他人にものを考えてもらう事である。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。」1960年 斎藤忍随 訳

初読時の書き込み 2000年頃


読書する時、僕は思想が明快な著者とは紙面で対話する。本にどんどん書き込んで突っ込みを入れるのだ。著者からのリターンは無いので1人漫才みたいなものだが、これが結構楽しい。そして時間が経ってそれらを読み直してみると、当時の自身の思いの浅薄さに笑ったり、逆に核心を突いた直観に驚くこともある。ショーペンハウエル先生に何と言われるか分からないが、、、

この本を読んでから、実は約20年もの間、インプットとしての読書をやめた。別にそこまでする必要は無かったのだが、自分の奥底から湧き出るものを大事にし眺めてみたかったからだ。あらゆる情報入手経路を絶ったことで、多少ではあるが自分のオリジナルのアイデアや意見も出せるようになった気がする。この悪魔の鉄槌ともいうべき書物は、僕の人生における価値観に大きな影響を与えてくれた。良書とはそういう存在ではなかろうか。

実はその後大枚をはたいてショーペンハウエル全集を購入した。格闘しつつ読み進んだが、いまだ御大の哲学の中核には至れていない。どこかで時間をつくって、AIに頼ることなく、そこに到達したい。老後の楽しみの一つだ。

もう老後か?笑

いいなと思ったら応援しよう!