見出し画像

ローズの路地裏BAR|第7夜 白ワインの精霊「ラベルのない一本」

「ラベルのない一本」


納品書にない一本が、
木箱の隅に残っていた。

「これは?」

ママが尋ねると、
男は箱の中を見て、わずかに顔を曇らせた。

「すみません。
それは納品するものではありません」

三十七歳。

丘の上にある小さなワイナリーで、
醸造と出荷の仕事をしている。

今夜は取引先である
ローズの路地裏BARへ、

白ワインを六本、
赤ワインを四本届けに来たところだった。

息子のバーテンが、
木箱の中から一本ずつボトルを取り出す。

最後に残った一本には、
商品名も、
ワイナリーの印もなかった。

淡い金色の液体が入った、
ラベルのないボトル。

「試作品です」

男は言った。

「別の店で試飲してもらうために
持ち歩いていたんですが、
結局、出さなかったので」

「どうして?」

ママは、
そのボトルを光へ透かした。

「出せるようなものではないからです」

その言い方が少し強かったので、
息子のバーテンが手を止めた。

「傷んでいるんですか」

「いいえ。
飲めないわけではありません」

「では、何か失敗が?」

「失敗というほどでも……」

男は言葉を濁した。

奥の席では、
ママの姉がカードを切っていた。

占いを始める様子ではなく、
ただ話を聞きながら、
ゆっくりとカードを混ぜている。

ママは、
ラベルのないボトルを
カウンターへ置いた。

「飲めるなら、
一杯だけ味を見てみたいわね」

「いえ。
本当に、商品にするようなものでは」

「今夜は商品として飲むんじゃないわ」

ママは笑った。

「ここへ来た一本として、
飲んでみたいの」

男は困った顔をした。

持ち帰ったところで、
自分ひとりでは開けないだろう。

捨てる決心もつかず、
ワイナリーの冷蔵庫へ
戻すだけになる気がした。

「……では、一杯だけ」

息子のバーテンが、
ボトルの栓を抜いた。

小さな音がして、
冷えた香りが外へ逃げる。

ワインは、
細長いグラスへ静かに注がれた。

色はとても淡い。

透明に近い金色。

光へかざすと、
かすかに緑を含んでいるようにも見えた。

息子のバーテンは、
グラスへ鼻を近づけた。

「かなり冷えていますね」

「さっきまで保冷箱に入れていたので」

ママも香りを確かめる。

「静かな香りね」

「何もないだけです」

男は、
すぐにそう答えた。

息子のバーテンが
ひと口飲む。

ママも続いた。

男は二人の顔を見ないように、
空になった木箱の中を整え始めた。

「酸はきれいです」

バーテンが言った。

「でも、確かに今は
香りが閉じていますね」

「そうでしょう」

男の返事には、
納得よりも諦めが混ざっていた。

「先週、
販売担当と取引先を交えた試飲会がありました」

男は木箱の留め具を閉じながら話した。

「そのときも同じでした。

きれいだけれど、印象が弱い。

売り場で目立たない。

一口飲んだだけでは、
特徴がわかりにくい。

もう少し、
わかりやすい個性が必要だと」

誰かが意地悪を言ったわけではない。

販売する商品として、
必要な意見だった。

彼自身も、
言われたことは理解できた。

試飲会では、
力強い香りの白ワインが並んでいた。

ひと口で印象に残るもの。

果実の甘さを強く感じるもの。

樽の香りがはっきりしたもの。

その中で、
彼の造ったワインは静かだった。

香りを探そうとしなければ、
そのまま通り過ぎてしまう。

試飲を終えた人のグラスにも、
少しずつ残っていた。

「初めて、
一区画の葡萄を任せてもらったんです」

男は言った。

丘の北側にある、
朝の光がゆっくり差す畑。

夏の終わりには、
まだ少し青さを残した葡萄が実る。

彼は収穫の時期を決め、
搾り方を考え、

発酵の温度を見ながら、
毎日タンクの前へ立った。

一年をかけて、
初めて自分の判断で造った白ワインだった。

「もっと良いものになると思っていました」

男は、
ラベルのないボトルを見た。

「でも、
僕には造り手として、
人を惹きつけるものがないのかもしれません」

店内に、
短い沈黙が落ちた。

ママの姉が、
カードの束から一枚を抜いた。

頼まれたわけでもないのに、
そのカードをカウンターへ置く。

夜空に輝く大きな星。

その周りには、
七つの小さな星。

水辺にひざまずく人物が、
二つの器から水を注いでいる。

「星ね」

ママの姉が言った。

男はカードを見て、
少し苦笑した。

「希望を持て、
ということですか」

「そんなに簡単な話かしら」

彼女はカードを眺めたまま答えた。

「星は、
大きな声を出さないでしょう」

男は、
もう一度カードを見る。

夜空の中で、
星はただ光っていた。

誰かを呼び止めるわけでもなく、

自分がここにいると
主張しているわけでもない。

それでも、
暗い場所にいる人には見える。

「もう少し、
このまま置いてみましょう」

息子のバーテンが言った。

「温度が上がれば、
表情が変わるかもしれません」

男は反論しなかった。

そのあいだに、
バーテンは小さな皿を用意した。

薄く切った洋梨。

淡い味のチーズ。

塩を振ったアーモンド。

「料理と合わせるほどではありませんが、
少し口に入れながら試してみましょう」

男は、
カウンターの端へ座った。

自分の造ったワインを、
客の側から飲むのは初めてだった。

彼はグラスを持ち、
ひと口飲んだ。

冷たさの向こうに、
細い酸味がある。

目立つ甘さはない。

華やかな香りも、
まだ強くは感じない。

洋梨をひと切れ食べ、
もう一度口に含む。

先ほどとは違う香りが、
舌の奥へ残った。

青い柑橘。

小さな白い花。

濡れた石のような、
わずかに涼しい匂い。

「……少し変わった」

男がつぶやく。

「何が?」

ママが尋ねた。

「花の香りがします。

それと、
ハーブのような……」

息子のバーテンも、
もう一度グラスを傾けた。

「最初より、
ずっとわかりやすくなりました」

「でも、
派手ではないでしょう」

男は、
すぐに付け加えた。

「はい。
派手ではありません」

バーテンは否定しなかった。

「けれど、
チーズを食べたあとに、
もう一口飲みたくなります」

その言葉に、
男は顔を上げた。

「一口目で驚かせるワインでは
ないかもしれません」

バーテンは続けた。

「でも、
食事の邪魔をしない。

飲み進めるほど、
少しずつ香りが見えてくる。

僕なら、
最初の一杯より、
食事と一緒に出したいです」

男は、
グラスの中のワインを見つめた。

飲み進めるほど、
少しずつ香りが見えてくる。

それは、
彼が初めに造りたいと思った
ワインの姿だった。

誰かが夕食を食べながら、
気づけばグラスへ手を伸ばしている。

料理を押しのけず、

話を遮らず、

食卓のそばに静かにいる一本。

試飲会の前までは、
そのつもりだった。

けれど、
「印象が弱い」と言われた瞬間から、

自分の造ったものの中にある
弱さばかりを探していた。

グラスの表面に、
小さな光が浮かんだ。

店の灯りが映っただけかと思った。

けれど光は、
水面のようなワインの上で
ゆっくり揺れている。

ひとつ。

またひとつ。

小さな星の形になった光が、
グラスの中から立ち昇った。

淡い金色の髪。

乳白色と薄い青の衣。

半透明の羽には、
夜明け前の空のような色がにじんでいる。

小さな精霊は、
両手をそっと差し出した。

グラスから浮かび上がった星を、
水をすくうように受け止める。

白ワインの精霊だった。


「あなたは、
一口目の評価だけで、

この一本の全部を
決めてしまったの?」

男は、
小さな精霊を見つめた。

驚いているはずなのに、
声は出なかった。

精霊は両手の上で、
小さな星を転がすように眺めている。

「仕事では、
一口目が大切なんです」

男はようやく答えた。

「売り場では、
長い時間をかけて
味わってもらえるとは限りません」

「そうね」

精霊はうなずいた。

「売るための工夫は必要。

飲み方を伝えることも、
出す温度を考えることも、
合う料理を選ぶことも必要ね」

男は少し意外そうな顔をした。

精霊が、

評価を気にしなくていい。

自分を信じればいい。

そう言うのだと思っていた。

けれど、
彼女は現実を否定しなかった。

「でもね」

精霊は続けた。

「売り方と合わなかったからといって、

この一本まで
間違っているとは限らないでしょう?」

小さな星が、
両手の上で淡く光る。

「夜空には、
ひと目で見つかる星もある。

目を凝らさなければ、
見つからない星もある」

精霊は、
カウンターに置かれた
星のカードを見た。

「大きく光る星だけが、

誰かの道を照らすわけではないの」

「でも、
見つけてもらえなければ
意味がありません」

男は言った。

「見つけてもらう方法を
考えるのも、
造り手の仕事かもしれないね」

精霊は、
グラスのそばへ星を戻した。

光はワインの表面へ触れ、
小さな波紋を広げる。

「このワインは、
何も持っていないのではなくて、

まだ、
自分に合う場所へ
置かれていなかっただけかもしれない」

男は、
試飲会の白いテーブルを思い出した。

次々に注がれるワイン。

短い時間。

一口飲み、
言葉を記入し、
すぐに次のグラスへ進む。

その場所で、
このワインは香りを開く前に
評価を終えられていた。

もちろん、
それも商品としての試験だった。

けれど今夜は、

少し温度を上げ、

食べ物と合わせ、

話をしながら飲んでいる。

同じ一本なのに、
見えているものが違った。

「僕が造りたかったのは」

男はゆっくり話し始めた。

「乾杯のときに
驚かせるワインではありませんでした」

三人が彼を見る。

「夕食の途中で、
もう一度飲みたくなるようなものです。

料理を食べて、

誰かと話して、

それから、
またグラスへ戻りたくなるような」

「では、
そう伝えればいいのではなくて?」

ママが言った。

男は、
少し笑った。

「その説明では、
地味すぎる気がしていました」

「私は好きよ」

ママは、
もう一度ワインを飲んだ。

「話を邪魔しないお酒」

息子のバーテンも頷く。

「この店にも合います」

男は、
すぐに喜ぶことができなかった。

店の人たちが、
気を遣っている可能性もある。

一晩の感想だけで、
商品にできるわけでもない。

けれど、

先ほどまでのように、
捨てるしかない一本とも思えなくなっていた。

「このボトル」

ママが尋ねた。

「置いていってもらえる?」

「試作品ですよ」

「だからよ」

ママは棚の一角を指さした。

商品名のついたボトルが並ぶ中、

ちょうど一本分だけ、
小さな空きがある。

「しばらく、
ここに置いてみたいの」

「売るんですか?」

「今夜すぐには売らないわ」

ママは答えた。

「合いそうな人が来たら、
一杯だけ出してみる」

「ラベルもありません」

「名前がないなら、
名前のないままでいいじゃない」

男は、
ラベルのないボトルを見た。

一度は、
失敗の証しに見えた一本。

今はまだ、
何になるのかわからない。

彼は少し迷ってから、
ボトルをママへ渡した。

「残りは、
これ一本だけです」

「では、
大切に開けるわね」

白ワインの精霊は、
いつの間にか姿を消していた。

グラスの中には、
淡い光がひとつだけ残っている。

男は木箱を抱え、
店を出た。

今夜、
何かが決まったわけではない。

販売できると
認められたわけでもない。

ただ、

自分が造った一本の良さを、

自分より先に
見限ることだけはやめようと思った。

それから三週間が過ぎた。

ワイナリーの作業場で、
男が出荷用の箱を組み立てていると、

事務担当から声をかけられた。

「ローズの路地裏BARから
連絡が来ています」

「追加注文ですか」

「それが、
銘柄が書いてなくて」

渡された紙には、
短い文章だけが印刷されていた。

『先日の、
ラベルのない白ワイン。

もう一本、ありますか』

男は、
その一文を何度も読んだ。

誰が飲んだのか。

何と合わせたのか。

どんな感想だったのか。

何も書かれていない。

けれど、

もう一度飲みたいと思った人がいた。

男は、
ワイナリーの奥へ向かった。

販売には回さず、
保管していた同じタンクのボトルが
数本だけ残っている。

そのうち一本を取り出した。

まだ、
正式な商品名はない。

彼は白い仮ラベルを貼り、
ペンを手に取った。

何を書こうか考えたが、

最後まで名前は決められなかった。

代わりに、

ラベルの端へ
小さな星をひとつ描いた。

一口目では、
見つからないかもしれない。

少し時間を置かなければ、
香りが開かないかもしれない。

それでも、

この一本を好きだと思う人が、
どこかにいるかもしれない。

男は星の印をつけたボトルを、
新しい木箱へ入れた。

今度は、

納品書にも、
きちんと一本と書き加えた。



今夜のお酒の精霊図鑑

白ワインの精霊|ブランシェ

淡い金色と乳白色の光をまとい、

白い花や柑橘、
青い果実の香りとともに現れる
白ワインの精霊。

グラスの中に隠れている
小さな星を見つけ、

両手ですくい上げるように
そっと光を取り出します。

【ブランシェの性格】

穏やかで、観察上手。

大きな声で励ますのではなく、

その人自身が見落としている
小さな良さを見つけます。

現実から目をそらすような
希望を語ることはありません。

必要な工夫を認めたうえで、

「合わない場所で評価されたことと、
価値がないことは同じではないよ」

と伝えてくれる精霊です。

【ブランシェが現れる夜】

・一度の評価で、自分の価値を決めそうな夜
・目立たない長所を、欠点だと思っている夜
・周りと比べ、自分には個性がないと感じる夜
・結果を急ぎ、自分の良さが開く前に諦めそうな夜
・自分に合う場所や伝え方を探したい夜

【白ワインが教えてくれること】

よく冷えた白ワインは、

最初、
香りが閉じていることがあります。

けれど、
グラスの中で少しずつ温度が変わると、

花や果実、
ハーブなどの香りが
ゆっくり開いていきます。

人の良さも同じです。

最初の印象だけでは、
見つからない魅力があります。

すぐに目立たなくても、

時間や場所、
相手との組み合わせによって、

初めて伝わる光があるのです。

【今夜のオラクルメッセージ】

一度の評価だけで、

あなたのすべてを
決めなくても大丈夫です。

変えるべきところがあるなら、
丁寧に整えてみましょう。

けれど、

誰かに伝わらなかったことを理由に、

自分の中にあるものまで
否定しないでください。

あなたには、

まだ香りを開いていない良さが
あるのかもしれません。

必要なのは、

もっと強く目立つことではなく、

その良さが届く場所や
伝え方を探すことかもしれません。

【小さな行動】

自分では弱みだと思っていることを、
ひとつ書き出してください。

そして、

その特徴が役立つ場所や、

「それが好き」と言ってくれた人が
いなかったかを思い出してみましょう。

欠点だと決める前に、

その良さが生きる場所を
ひとつ探してみてください。

【ブランシェからのひとこと】

「目立たない光も、

光であることに
変わりはないの。

一口目だけで、

あなたの全部を
決めないであげてね」

いいなと思ったら応援しよう!

ローズ|AIと私の世界 ここまで読んでくれてありがとうございます!気持ちのワイン一杯♪そっといただけたら嬉しいです♪