【精神看護シリーズ①】支配と排除の歴史を越えて ― 精神看護におけるパターナリズムの再考①
(今回の記事は、精神疾患を取り巻く
悲惨な歴史についての描写があります。
不安が強い方や苦手な方は無理に読まず、
エスケープしていただければ幸いです。)
私が2016年から准看護学校の講師を
していることは、これまでの記事で
まとめてきました↓
精神看護と一般看護との違い
一般的に、多くの看護領域では
症状(発熱・疼痛・バイタル)を観察し、
適切な処置をすることによって
身体的回復を目指します。
したがって、精神看護と比べると
一般看護ではより「技術面」に
比重が置かれます。
対して、
精神看護では幻覚・妄想・不安・対人関係
など、患者さんの「主観的体験」や
「意味づけ」を扱います。
このため、「技術面」よりも看護師の
「態度・言葉・距離感」に比重が置かれ、
看護師自身の自己理解・感情コントロールが
一般看護と比べてそのまま専門性の高さになります。
(もちろん、一般科の看護師さんにとっても
自己理解・感情コントロールは専門性の高さに
なると思いますが、”とりわけ精神看護では~”の意で)
こうした医療文化の違いにより、
精神看護は一般看護よりも
「対人関係それ自体を活用して相手に
働きかける」
ことが重要視されます。
そして、このことは
心理士も、
ソーシャルワーカーも、
保育士(幼稚園教諭)も、
学校の先生も、
いわゆる対人援助職とされる
他の職種との共通項でもあるように
思います。
境界をまたぐ仕事をしていると、
精神看護とは、そのような多職種に
近しい立ち位置なのだと感じています。
隔離と収容の時代から ― 精神医療は何をしてきたのか
私の受け持ち講義の中で、
精神医療の歴史があります。
私は、精神医療の歴史は
おそらく看護学全体のなかでも
一種独特な異彩を放つ単元では
ないかと思っています。
なぜなら、
看護の精神を「その人の尊厳を
守りながら支える姿勢」
だとすると、
精神医療の歴史は
不幸なことに
支配と社会的排除の歴史
だと言えるからです。
だからこそ、しっかりと
知っておく必要があると
思っています。
精神病(この場合は
統合失調症やてんかんなど、
狭義の精神疾患のこと)は
中世では悪魔に憑りつかれた
状態とみなされていました。
当時、周囲から「あの人は
精神病者だ」と指摘されると
牧師の元に連れていかれ、
宗教裁判にかけられたのです。
そうして、牢獄や寺院の地下牢に
「隔絶」されていました。
(ヨーロッパの魔女狩り)


精神病者を収容する施設は
癲狂院(てんきょういん)と
呼ばれ、日本でも大正時代まで
この呼称が公用語として
平然と使われていました。
近世では、
精神病院が当時の一般市民の
娯楽の一つとして「見世物小屋」化
されていました。

有名なのは上の画像の
ベドラム精神病院です。
精神科に入院している患者さんを
黒の色彩で描き、
一般市民(画像奥の女性2人など)を
白く描くことで
対比的に表現されています。
私は毎年講義で、
看護学生に
「これらの絵を見て患者さんに
対する人権を感じられる人はいますか?」
と必ず問いかけます。
看護学生の皆さんは、
真剣なまなざしで私の話を
聞いてくださっています。
フィリップ・ピネル(医師)
と
ジャン・バティスト・ピュサン(看護師)
がフランス革命時(1789~1799)に
鎖につながれていた
精神病者を解放
するまで、
「精神病者を人間として
尊重する人道主義の精神」
などは、
残念ながら精神医療には
存在しませんでした。
座敷牢から精神病院へ ― 日本でも続いた“隔離の構造”
日本も例外ではありません。
相馬事件以降、1900年(明治33年)
に制定した精神病者監護法が精神医療に
関する日本で一番初めの法律ですが、
これは患者の私宅監置を合法的に認めた
法律でした。
私宅監置というのは
自宅に作った座敷牢に
閉じ込めておくということです。
これが法律によって
定められたことであり、
家族がちゃんと
私宅監置しているかどうかを
当時の警察が取り締まったのです。
呉秀三先生が尽力したものの、
処遇改善には至りませんでした。
結局、この座敷牢が1950年まで
続くことになります。
時代が精神衛生法に切り替わっても
日本は精神病院に患者さんを「収容」し、
「生活療法」として長期入院を強いて
きました。
1983(昭和58年)には、
精神保健法成立に
至る重大な事件が起きました。
閉鎖的な病棟内で
看護職員が患者さんに
私刑を行ない、
複数の患者さんが亡くなる
という事件でした。
精神医療に
人権の光が当てられたのは、
1987年の精神保健法成立から。
つまり、
まだ40年ほどしか経っていない
のですね。
善意はなぜ暴走するのか ― 看護学生に伝えたいこと
パターナリズムという言葉があります。
「本人のためになるという理由で、
本人の意思や選択よりも専門家や
他者の判断を優先する関わり」
のことです。
患者に十分説明せず治療を進める
危険だからと行動を制限する(身体拘束など)
看護は本質的に
他者の生活・身体に介入する営み
であるため、
パターナリズムと切り離せません。
ケアは「相手のために行う」行為
専門知識の非対称性(看護師>患者)
看護側に安全確保の責任がある
つまり
看護は必然的にパターナリズムを含む仕事
なのです。
悲しいことに、
精神医療は長らく
人権を軽視してきた
歴史を持っています。
こうした人権軽視や閉鎖性の高さ、
社会的排除といった文化的土壌に
パターナリズムが組み合わさると、
私たちが思っている以上に、
いとも簡単に治療者は暴走し出します。
一般科ではそんなことは
まず起こらないと思いますが、
精神医療だけは別
なのです。
だからこそ、
精神医療に携わる者は
皆、日々自問自答し続け
なければならないのです。
「その関わりは本当にケアなのか?」
「『患者のため』と口では言っているが、
本当にそうなのか?」
日々、自問自答し続け、
自分の看護を疑い続ける能力。
これが、
精神看護にとって
必要な能力であり、
精神的資質だと思っています。
最後に、
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの
言葉を残して記事を
終わりたいと思います。
「過去に目をつむる者は、
現在にも盲目であり、
未来にも同じ過ちを犯すだろう」
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
精神医療の最前線で
今日この瞬間も仕事に励んでいる
全職種の皆さまに心より敬意を表します。
