ベイトソンに試される 101 -『精神の生態学へ』第1篇 メタローグ 1 「ものはなぜゴチャマゼになるのか」(1948)-
娘 パパ、ものはどうしてゴチャマゼになってしまうの?
父 なんだ、「もの」とは。「ゴチャマゼ」とは。
娘 みんないつも物を片づけてるしょう? わざとゴチャゴチャにしようなんて人、いないじゃない。物がひとりでにゴチャマゼになってしまうのよ。だからまた片づけなくちゃいけなく----
父 「ひとりでに」? いじらなくてもか?
娘 いじらなければ、そのまんまだけど、でも誰かいじるとするでしょ。そうすると、ゴチャマゼになってしまうじゃない! とくにほかの人がいじったとき。自分がいじったときより、もっとひどくなってしまうわ。
父 そう。だからパパはおまえに机の上をいじるなと言う。人にいじられると、自分がいじったときより、もっとゴチャマゼになってしまうからね。
娘 でもほかの人の物を動かすと、必ずゴチャマゼになってしまうって・・・・・・。それ、なぜなの、パパ。
父 待て待て。そう簡単じゃないんだ。第一に、ゴチャマゼになるって、実際どうなることなんだろう。
娘 ・・・・・・何がどこにあるのかわからなくなって、それで、パッと見てきれいじゃないの。順序よく並んでいないと、きれいじゃないでしょ?
父 おまえの思うゴチャマゼと、ほかの人の思うゴチャマゼとは、同じかな?
娘 同じでしょう? 違うの? だって、あたし散らかし屋さんだし、あたしが散らかしたのを見ると、あたしだけじゃなくて、みんなゴチャゴチャだって思うわ。
父 そうか。じゃ、「片づいている」方はどうだろう。ほかの人が「片づいた」と思うのと、おまえが「片づいた」と思うのと、同じだろうか。ママがおまえのものを片づけたとき、何がどこにあるか、すぐわかるかな?
娘 ・・・・・・ママならわかるかもね。ママの片づけ方なら、あたし知っているから。
父 パパは、ママにも机を片づけさせたりしないぞ。パパの思う「片づいている」とママの思う「片づいている」は違うから。
娘 あたしとパパでは? やっぱり違う?
父 違うね、きっと。
◆
今回から第1篇に入ってみたい。この篇は「メタローグ」と呼ばれる父と娘の対話形式でできた7章で構成されている。
親しみやすい対話形式だが、これらを冒頭に置いたベイトソンの目論見は読みやすさに留まっていない。というのも、7つの章のテーマと「メタローグ」という聞きなれないこの形式自体が、第2篇以降の論文群を読むテーマや読み方自身のガイドになっているからである。
そこで、第1篇の扉を開ける鍵を手に入れるために7章のタイトルをざっと眺めてみる。目次は以下のようになっている(発表年も右端につけると時系列順に配置されていることがわかる)。
1. 物はなぜゴチャマゼになるのか 1948
2. フランス人は、なぜ? 1951
3. ゲームすること、マジメであること 1953
4. 知識の量を測ること 1953
5. 輪郭はなぜあるのか 1953
6. なぜ白鳥に? 1954
7. 本能とは何か 1969
以上のタイトルはすべて、娘の疑問を表した言葉がモチーフになっている。「なぜ?」、「何?」、「どのくらい?」と娘が父に質問するところから、対話が始まる。ところが、この父親は答えを教えようとしないのだ。父親は、娘の質問そのものを吟味するところから始めるのである。
娘 パパ、ものはどうしてゴチャマゼになってしまうの?
父 なんだ、「もの」とは。「ゴチャマゼ」とは。
こんな感じで始まるのだが、父親は質問そのものを分解して、定義のレベルから吟味を始める。その先には娘をメタレベルの対話(ダイアローグ)を引き上げようする意図があるようにも見える。

「メタローグ」とタイトルされるこの対話は、おおよそ以下のような手順で進むようだ。
A まず、父親は娘の質問が出てきた状況(コンテクスト)にスポットを当てる。
↓
B さらに、2人で質問が出てきた状況に、一緒に立ってみる。
(その際、問う者と答える者という役割が曖昧になってくる。)
↓
C すると、質問自身が状況から切り離されて出てきた一部でしかないということがわかってくる。
↓
D そして、父と娘の対話で共有される状況が、読者にもパターンとして(一部だが)共有される。
以上のような流れが各「メタローグ」に共通にあるとして、これを読者側から見てみると、メタレベルへのステップは、読者自身に対話を引き継ぐ余地を「メタローグ」そのものが示している、と考えることもできるのである。
今回は初回の「メタローグ」なので、以上のような手順を念頭に辿ってみたい。もちろん、第1篇の各章で扱われるテーマは本書全体にわたる主要な考え方なので、あっさりであっても触れてみたいと思う。
(先取りして言えば、「序章」で重要な対概念として取り上げられていた聖跡(サクラメント)とエントロピーは「なぜ白鳥に?」と「物はなぜゴチャマゼになるのか」のテーマになっている)。
◆
では、ベイトソン自身が「メタローグ」をどう定義したのか。今度は彼の言葉から、その手順を取り出してみる。
定義
メタローグとは、問題となっていることを単に論じるだけでなく、議論の構造がその内容を映しだすようなかたちで進行していく会話をいう。ただしここに収められた会話のうち、そのような二重のつくりをしているのは一部だけである。
進化理論の歴史を見ると、それが人間と自然との間で交わされ続けているメタローグになっていることに気づく。進化についての観念の生成と、観念同士の相互作用は、必然的に、進化プロセスを例示しているのである。
2つの段落の最初の部分は「メタローグ」の手順を表している。先ほど4つにまとめた手順におおよそ付合していることがわかる。
注目したいのは、「メタローグ」のモチーフが記されている下の段落である。が、「進化理論の歴史」と言われてもちょっとイメージが浮かびにくい。そこで、ベイトソンが何度も言及する博物学者ジャン=バティスト・ラマルクの発想の仕方を例にイメージしてみる。
『精神の生態学へ』でのラマルクは、中世以降すべての存在の説明原理だった「精神」のトップダウンシステムをひっくり返して、原生生物からボトムアップで進化を説明した点が評価されている。(ダーウィンもひっくり返したのだが、進化論を科学にするために、「精神」の説明は回避した、とベイトソンは考えている。)
分類表の天地がひっくり返ってみると、精神 mind の説明が進化の研究から与えられるかもしれないという話になる。論理的にそうなります。
ラマルクまでは、精神の存在によって生物が説明されていた。それが一転し、疑問も一変する。----生物を研究することによって、精神をどうやって説明するのか。それまで説明の大もとになっていたものが、突如説明される側にまわったということであります。
この点から「メタローグ」を見てみると、「なぜ?」「何?」から始まる娘の質問は、一つの問いに一つの答えがあることを前提とした上で、解答を求める学校的なトップダウン教育の思考手順と捉えることができそうだ。
そして父は、その手順が出てくる状況(コンテクスト)に目を向けさせるために、解答に向かう娘の思考手順を逆向きにして見せる。そうやって、質問を発するきっかけを作った娘自身の状況に目を向けさせようとする・・・そんなふうにこのメタローグをイメージすることができるだろう。
(ラマルクのこの逆転的な思考手順によって、従来の生命の説明原理自体を変えた「進化理論」は、以後様々な試行錯誤を経て現在に至っている・・・以下略。)
◆
ここからは実際に、第1篇の冒頭にある「メタローグ」、「物はなぜゴチャマゼになるのか」を覗いてみよう。
タイトルの「ゴチャマゼになる」というのは、「エントロピー増大」のことである。父はこの質問から、世界を確率的な宇宙として捉えてみようと娘を促すのだが、そう簡単にはいかない。
その際、1948年に発表されたこのメタローグでは、戦中から戦後にかけてメイシー会議に出席していたベイトソンが、確率論をベースにしたサイバネティクスの否定的な論理手順をうまく使いこなしている点にも注目したい。(あれでもなく、それでもなく、これになっていくという否定を介したプロセスとして今を捉える「サイバネティクスの説明法」(第5篇)の実践例として。)
対話は、先に引用した娘の質問、「パパ、ものはどうしてゴチャマゼになってしまうの?」に始まっていた。父親は娘に、絵の具箱を置く場所から始めて砂と砂糖を混ぜた状態、コインの裏表という例を挙げて、現在の状況を確率論から見るように促す。
もちろん、娘は確率的な宇宙なんてイメージできるはずもない。ところが、「DONALD」の映画の話をすると、娘はその状況にすんなり入ってくるのである。(おそらくドナルド・ダッグの映画なのだろう。が、YouTubeで検索してもそのようなシーンは見つからなかった。)
その場面の前半を引用してみる。
父 よし、じゃあ、別な例で行こう。映画が始まるときに、スクリーンにいろんなアルファベットがゴチャゴチャになって出てくるの、見たことあるね? あっちを向いたりこっちを向いたり、逆さまになってるのもあるんだが、テーブルが揺れだすと字が動きだして、しまいに全部の字がスーッと映画のタイトルに収まっていくんだ。
娘 知ってる、それ。ドナルドの映画 ! 「DONALD」っていうつづりになるの。
父 どんなつづりになるかは問題じゃない。要するに、揺すったりかきまわしたりしたときに、だんだんゴチャマゼになっていくんじゃなくて、キチンとした順番に並んでいく。向きもちゃんとそろって。そして言葉のつづりになる。それを見てる人が、読むことができて、意味もとれる、そういう並び方になっていく—--
娘 あ、それ、ほんとは—--
父 ----待ちなさい。パパが言ってるのは、あれは絶対、ふつうの世界じゃ起こらんということなんだ。映画でなきゃ—--
娘 それ、パパ—--
父 そうさ、映画じゃなきゃ、ああはいかん。ものをかきまぜていくと、次第に秩序と意味ができていくなんて。
娘 パパ !
父 待ってなさい。まだ終わってないんだから。いいね。映画を撮ってる最中は、あれは逆向きに進んでいるんだ。最初テーブルの上にちゃんと「DONALD」って並べておいて、カメラを回し始めたらテーブルを揺する。
娘 もう ! パパったら、あたしが言いたかったことをぜんぶ言ってしまうんだもの。それで映画館では逆回しでかけるのよね? ほんとうは逆向きに起こっていることなのに、そのまんま起こってるみたいにして。でもほんとうは、あれ、揺れ方も反対だったんでしょ? それと、上下も反対に撮らないといけないのよね。・・・・・・でも、それどうしてかしら。ねえ、パパ、どうしてなの?
上の引用では、父は26文字のアルファベットの世界から「DONALD」という6文字に収まる確率がとても稀である、ということを娘に教えようとする。
その際、映画の逆回しが、まるで魔術のように6文字が集まって「DONALD」という6文字に収まるのは、自然界の中ではありえないということを伝えようとしている。が、娘は映画の逆回しの方に飛びついてしまい、自分が知っている撮影の裏話の方に興味が行きそうになる、という場面だ。
ところが、この食い違いにもかかわらず、娘は確率的な世界をイメージし始めている。と同時に、父も数学としての確率的な宇宙から自然界では逆回しはできないという時間の不可逆的な宇宙の方に踏み込んでいく。
つまり、父も娘に促されるようにして、確率を教えようとしながら、「エントロピー増大」について語るだけではなく、同時に自覚していくことになるのである。
◆
映画をめぐる父と娘の対話の後半に移ろう。ここでは、娘は確率的な世界を覗き見ている。
娘 どうしてカメラをさかさまに取りつけなくちゃいけないの?
父 だめだ。答えてやらん。まだゴチャマゼの話の途中じゃないか。
娘 いいわ。じゃあ。でも忘れないでよ。パパ。今度の時にカメラのこと、きっと教えてね。あたし忘れちゃうかもしれないから。パパ覚えてね。きっとよ。
父 分かった。しかし今度だぞ。----えーと、そうだ、なぜ物事は逆向きに起こらないかだ。パパが言おうとしていたのはだね、起こり方がたくさんあることは実際起こる。起こり方がたくさんあるということを示せば、そのことが起こる理由を言ったことになる。それはどうしてか、ということだ。
娘 やっぱり変よ、その理由。
父 変なものかね。いいか、もう一度最初から考えてみるよ。「DONALD」のつづりかたは、1つしかない。これはいいね?
娘 いいわ。
父 よし、それじゃあ、その6つの文字をゴチャゴチャにさせるやり方はどうだ。何万通りもあるだろう? これもいいね?
娘 ・・・・・・さかさまになったりしてもいいのね?
父 そうだ。映画に出てきた、完全にグッチャグチャのゴチャマゼだ。ああいうのは何万通りも何億通りもある。そして、そのうちのたった1つだけが「DONALD」だということだ。わかったかな?
娘 それはいいけど、同じ6つの文字で「OLD DAN」にもなるわよ。
父親は、確率とエントロピーの増大について同時に説明しようとするのだが、娘はまだ映画の技術にこだわったままだ。
エントロピー増大(「なぜ物事は逆向きに起こらないかだ」)の理由を確率「起こり方がたくさんあることは実際起こる」から、一度に娘にわかりやすく説明するのは、父親にとっても無理な話なのだ。
それでも、「それはいいけど、同じ6つの文字で「OLD DAN」にもなるわよ」(同上)という娘は、確率的な宇宙に馴染み始めているようである。
この対話は、父親の意図からすれば失敗なのかもしれない。が、教えるという一方通行の考えが次第に解除されて、娘は確率的な宇宙へ、父はさらに熱力学第二法則が浸透する「エントロピー増大」の宇宙へと進んでいくことが可能になった点から見れば、これら新たな宇宙との対話が父と娘の各々で始まったのかもしれない。
父親も娘と対話しながら、数学的な確率の宇宙からエントロピーの増大する自然界へとシフトしていた。すると、そのような自然界の中でどうして生命は存続できるのか、という問いが生まれる。(この「メタローグ」ではフィードバックとネゲントロピーについてまだ踏み込んでいない。)
なぜ、絶対的な平衡状態(エントロピー増大の極限)に向かうこの世界で、それに抗うようにして生命が出現し、今も存在しているのだろう?
そこには、今あることが当たり前の前提ではなく、確率的な偶然でできているという知と、その奇跡を実現してきた生命の美しさと尊さへの、ベイトソンの倫理的な姿勢が窺える。
参考:
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父が娘に「エントロピーの増大」について説明しようとして導入した「逆回り」ができない「自然界」という考え方は、今は「逆問題」の不可能性として考えることができる。(「逆問題」については以前N・N・タレブ『反脆弱性』にある角氷の例を引いて記事を書いた。)
四角い氷が水になる過程を想像してみる。
そして今度は逆回ししてみる。
つまり、水から氷を作る過程を考えてみるのだ。
すると、氷の形が四角になる可能性はとても稀であることがわかる。
バラバラにしてから元に戻せるのは、簡単な構造の機械や道具のレベルでしかない。エンジニアは、部品をバラバラにして元に戻すことを方法にした「リバースエンジニアリング」(逆行工学)を得意とする。
が、この技法を自然界に適用すると、自然をただ壊すことになる。つまり、クラッキングになる。(生態学に向かうベイトソンなら、そんな大量生産的・産業社会的な思考法を適用しすぎた結果が、現代の気候温暖化ならぬ「沸騰化」の要因にもなっていると言いそうだ。)
ベイトソンは、この対話で、娘が部品の集まりとして自然を考えないように(部分/全体関係を安易に採用しないように)、それぞれの関係や状況を考慮する考え方を伝えようと模索する。
エンジニア的思考が濫用される中で「逆問題」がすべてに通用するかのように進む読者の現代を重ねてみると、ベイトソンの姿勢はとても参考になる。
というのも、偶然を飼い慣らそうとする人間の修正行為は、「希望的観測」として物質と情報の両方の宇宙を歪曲する傾向からがあるからだ。
この対話の最後では、確率的な世界を人間の期待によって捻じ曲げる例が2つ明示される。賭博と戦争である。
娘 じゃあ、今パパは、コインのことも、ドナルドのことも、砂とお砂糖のことも、あたしの絵の具箱のことも、それからコインのことも、みんな一緒に説明しようとしてるの?
父 そうだよ。
娘 そう・・・・・・。どうなのかなって思ったの。
父 よし、今度はちゃんと言ってみるからな。砂と砂糖でいこう。砂が全部下にくるのを「片づいている」とか「きちんとしている」とか「秩序立ってる」と思う人がいるとするね。
娘 そう思う人がいないといけないの? そうじゃないと、かきまわしたとき、どうしてゴチャマゼになっちゃうのか説明できないの?
父 そうなんだ。そこが大事なところなんだよ。人間は希望的観測というのをする。こんなことが起こらないかなあ、とね。そこへパパが出かけてって言ってやる。残念ながら、そうはいきません。ほかに起こるかもしれないことが、こんなにたくさんあるじゃないですか、って。間違いないんだな。たくさんあるうちの1つが起こる方が、少ししかないうちの1つが起こるより多いということは。
娘 パパって、あれみたい、競馬の、何てったっけ・・・・・・
父 胴元か?
娘 そう、そのドウモトみたい。あたしが賭けたウマ以外のウマを、ぜんぶ応援するんでしょ。
父 その通り。みんなに、それぞれスッキリ感じる方へ賭けさせる。ゴチャゴチャの方が、限りなくたくさんあると知っててね。で、物事はいつもゴチャゴチャのマゼコゼへと向かっていく。
娘 最初っからそういうふうに言ってくれれば良かったのに。それならあたしにもよくわかるわ。
父 そうか。まあいい。もう寝なさい。
娘 パパ、大人の人はどうして戦争するの? 子供みたいにただケンカするんじゃなくって。
父 だめだ。ベッドに行きなさい。戦争の話はこの次だ。
父親から見ると、人間自身がフィルタであり誤解は必然的に生じるのである。
そして確率的世界に馴染み始めた娘から見ると、賭博と戦争はどこか似ているところがあるのだ。
ベイトソンによれば、<勝ち/負け>という2つの選択肢しかないような世界は、物質と情報の膨大な確率宇宙を、人間の「希望的観測」というフィルタで濾過された残り滓にすぎないのである。
残念ながら、そうはいきません。ほかに起こるかもしれないことが、こんなにたくさんあるじゃないですか、って。間違いないんだな。たくさんあるうちの1つが起こる方が、少ししかないうちの1つが起こるより多いということは。
(※ちなみに、大人の戦争が子供のケンカと違うことについては、動物が「ケンカをしない」というメッセージを身振りで伝える過程を分析した「遊びと空想の理論」(1954 『精神の生態学へ』中巻所収)での学習段階に関する重要な考え方に繋がっていくように思える。)
参考:
